第三章 雨

僕は地元の公立の中学校に進学した。身に纏った学ランはいつも、ぶかぶかか窮屈かのどちらかで、何年着ても最後まで僕の体には馴染まなかった。

健一も夏も同じ中学だったが、誠二だけはやはり市外の私立中学に入学した。入学者の六割が東大か京大に進学するという恐ろしく偏差値の高い学校で、誠二はその中でもトップの成績を修め続けているということだった。

健一はサッカー部に入部して朝から晩までサッカーに明け暮れ、夏は一日中美術室で絵を描いて、帰ってからは音楽教室に通った。僕には初めから分かっていたことだが、二人とも入学した途端に周囲の人間から一目置かれる存在となった。四人の中で僕だけが一人やることもなく取り残されているという状況には何も変わりがなかった。

真中市の公立中学では、生徒全員が何らかの部活動に所属していなくてはならないというルールがあったため、僕もどの部活を選択するのか決めなくてはならなかった。僕は文芸部を選んだ。ほとんど理由はなかったが、強いて言うならば、誠二に影響を受けて、僕の読書量は少しずつ増えつつあったからだ。

予想された通りというべきか、文芸部はとてつもなく暇な部だった。とにかくやることが何もなかった。文芸部に課せられたノルマは、一年に一度の文化祭に、毒にも薬にもならない読書感想文や創作文の展示会を行うことだけで、そんなものは直前の一週間で仕上げられてしまう。それ以外には目標は何もなく、あとはひたすら本を読んで過ごすことが求められている。その結果、部員は三〇人以上いるが、まともに部活動を行う者はほとんどなく、誰も部室にはやってこないという状況が恒常的になった。代々文芸部では、寺山修二の「書を捨てよ、町へ出よう」が部室の壁の中央に掲げられ、誰もが学外活動と称して街へ繰り出してしまい、そのまま戻ってこなかった。それはいいが、実際にその寺山修二のエッセイを読んだ者が誰もいないのが問題だった。

しかし、部室はせいぜい十人が定員のせせこましい空間だったから、皆がそうして街へ出ていくことは、残された数少ない部員にとっては好都合ではあった。僕はその数少ないメンバーの一人だった。時々は同級生に誘われて外へ遊びに行ったが、既に小学生時代に嫌と言うほど隅々まで走り回った街だ。今更見飽きた場所へ行くよりは、本を読んでいる方が楽しめた。何よりこの時期の読書は、一冊読むごとに自分が精神的に成長するという、実感とも錯覚ともつかない感覚を楽しむことができる、黄金の体験と言えた。

僕以外に、部室と図書室を往復して読書に勤しむ文芸部員は、たったの二人しかいなかった。一人は二年生で、もう一人は一年生の僕の同級生だった。二人とも女で、とにかく物静かだった。僕たち三人は毎日、無言で本を読み続けた。二年生の先輩が持ち込んだCDラジカセからビートルズのベストアルバムが流れ続けていた。ビートルズはどんな種類の読書にもぴったりだったためにBGMとして選ばれたのだ。今でも僕はビートルズを聞くとあの部室の空間を思い出す。特に「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」と「ペニー・レイン」だ。ジョン・レノンとポール・マッカートニーが描いた風景は、英語のまだ良く分からない僕の脳内で捻じ曲げられ、極東の片隅のとある中学校の狭い部室という空間に歪に固着させられた。

夕方まで三人の男女が一つの部屋で黙々と読書を続ける光景は、どこか非現実的だった。ビートルズの赤盤と青盤が日に日に交互に流れ、季節が変わっていき、僕たちは幾つかの定期テストを受けた。僕の成績は相変わらずオール4だった。試しに僕は、テスト勉強をほとんどしなかったり、またはその逆に入念に準備して試験に挑んだりして、その運命から逃れようとした。だが無駄だった。努力の有無に関わらず、僕の成績はほとんど常に一定だった。教師の方でも予め僕には75点か80点を与えることを決めているのではないかという気さえした。

文芸部の部室から出て下足ロッカーまで歩いて行く途中で、しばしば夏に出会った。美術室が文芸部のすぐ傍にあったので、僕は中を覗いて行くこともあった。美術室のにぎわいも、文芸部と似たり寄ったりの密度だった。

夏は僕に気が付くと微笑んで、一緒に帰るから少し待ってと言った。僕と夏はグラウンドに寄って、サッカー部で練習中の健一に声を掛けた。大体の場合、健一は、もう少しだけ続くから先に帰っていいよと答えた。二人で並んで駐輪場まで歩き、自転車に跨ると彼女の髪が風になびいた。夏の髪は小学生の頃の倍以上の長さに伸び、黒く艶やかだった。彼女は最早誰の目にも美しい少女となっていた。

同級生たちからは、夏と僕が付き合っているのではないかと疑われていた。と言うか、ほとんどそう信じ込まれていた。夏の傍にいる男はいつも、僕か健一のどちらかだったから、そう思われても無理はない。もちろん事実はそうではなかった。僕たちは相変わらず友達で、それも一際仲の良い友達だというだけだった。この頃、僕にも薄々分かり始めていた、誰もが心の底から親愛を感じることができる友達を持っているわけではないということを。

夏と僕は自転車で並んで走りながら話をした。何を話したのかは、ほとんど思い出せない。恐らくは大して中身の無い事柄についてだった。授業のこと、読んでいる本のこと、季節のこと、部活のこと…… 具体的な内容はほとんど消えてしまった。僕たちは大体笑っていて、笑いというのは記憶から時間も意味も消してしまう。だから僕が今思い出せるのは、ある一日の帰り道の会話だけだ。その時僕たちは笑わなかった。

僕たちが話したのは、一人の男の死についてだった。数ヶ月前の夏の終わり、真中市に住むとある中年男が死んだ。彼は僕たちの同級生である男子中学生の父親だった。彼はいつも酒ばかり喰らっていて、風呂場で嘔吐物に喉を詰まらせて死んでいるのを息子に発見された。酒と睡眠薬を同時に服用した結果による、事故とも自傷ともつかない死だった。一時期、僕たちの中学はこの話題で持ちきりとなった。何しろ老衰と交通事故と病死以外には滅多に死が訪れることの無い街だ。死そのものが珍しいのに加えて、その男が家庭内暴力の常習者であることは、その男とその息子に関わりのある者なら誰もが知っていた。その同級生と僕とは親しい間柄ではなかったが、彼が腕や首に痣を作っているのはよく見かけていた。彼の名前は横山と言った。皆、あんな父親は死んで当然だし寧ろよいことだったと言っていた。横山自身はそれについて何も言わなかった。もとより物静かな少年だったが、父親の死後は輪を掛けて沈黙を固持するようになり、大体教室で一人ウォークマンを聴いていた。

この日、横山の父親の死について話し出したのは夏だった。僕たちがこの事件について話しあったことはそれまで一度もなかった。夏が僕に、この事件を知っているかと訊き、同級生だから少しは知っていると僕は答えたが、何故夏が急にそんな話をし始めるのか分からなかった。

「横山君のお父さんを殺したのは、日光仮面かもしれないんだって」

夏は呟くようにそう言った。僕は夏の顔を覗き込もうとしたが、彼女の方が僕の少し前を走っていたので、耳に隠れて目が見えなかった。

それは、二重の意味で唐突な情報だった。自殺でも事故でもなく殺されたということ。そして殺したのは日光仮面だということ。

「それ本当か」

僕がそう訊くと、夏は首を横に振って、噂で聞いたのだと言った。

「そんな噂聞いたことない」

「裕司が知らないだけだよ。みんな言ってる。裕司はどう思う?」

「どう思うって?」

「本当に日光仮面が殺したと思う?」

僕は自転車にブレーキを掛けてゆっくりと止めた。夏もそれに気付いてすぐに立ち止まり、ハンドルを握ったまま自転車から降りた。僕は夏の隣まで自転車を押して歩きながら、日光仮面ならやりかねない、と反射的に思った。だが、口に出してはこう言った。

「分からないよ。今初めて聞いた話なのに分かるわけない。ただの噂だろ?」

「だけど、日光仮面と横山君が話してるのを見た人がいるんだって」

「話したからって何なんだよ。横山が日光仮面に、父親を殺してくれって頼んだってことか?」

「分からないけど、気になって。裕司は日光仮面が殺したと思う?」

夏はそこで初めて顔を僕の方に向けた。僕の眼の色を覗き込むような視線だった。

僕にはもちろん、夏が何を言いたいのかは分かっていた。夏は、僕たちが小学生の時に、首つり死体の片づけを委ねた時のことを思い出しているのだ。あの時日光仮面は、僕たちの言うことを100%信じ、事件にまつわる責任を自ら積極的に引き受けた。あの時と同じように、日光仮面が横山の話を聞き、父親を殺すしかないと結論付け、それを本当に実行したとしても、僕たちにはそこに論理的な飛躍を認めることができない。僕たちは日光仮面が必要とあらば本当に何でもやる人間だと、知っているのだ。

だがそれが殺人であってもそうなのだろうか。殺人は物事を解決するにあたって最後に取るはずの、究極の手段だ。果たして日光仮面はそこまでやるだろうか?

僕には分からなかった。だから、僕は逆に夏に訊き返した。

「本当に日光仮面が殺したのかどうか、確かめたいのか?」

夏は頷いた。

「どうして?」

「私は日光仮面のことを友達だと思ってるから」

友達、と僕は唇と歯の間で小さく呟き返した。違和感のある言葉だった。僕は彼のことをそう思ったことは一度もない。だが、夏らしい言い方だと思った。

「どうやって確かめるんだ? あのおっさん、聞いたって何も答えないぞ。質問には答えないやつだ。それに日光仮面じゃなくたって、人を殺したかどうか訊かれてわざわざ正直に答えるくらいなら、誰だって初めから警察に自首してる」

そうだね、と夏は小さな声で言った。「多分何も言わないだろうね」

「でも、夏が訊きたいんなら、付き合うよ。横山に訊きにいくよりはましだ」

時刻は午後5時を過ぎ、夕暮れの気配が近づいていた。今から行くか、と僕が訊くと、夏は頷いた。

僕たちは日光川に向かった。日光仮面に会いに行くのは久しぶりだった。あの十一歳の年の夏休み以来だ。夏と二人だけで行くとなれば、それはそもそも初めてのことだった。

殺人犯かもしれない男に会いに行くにしては、僕にも夏にも緊張感が無かった。殺人という行為に現実感が無かったからだと思う。まさに久しぶりに知り合いに会いに行こうとするのと何も変わらない感覚だった。

だが、辿りついた橋の下に、日光仮面の姿は無かった。彼の姿だけでなく、あの木造りの小さな館も存在しなかった。川の反対側にも何もなく、あたりは壁に例の落書きが取り残されているだけの空洞だった。彼がこの場所からいなくなるのは珍しいことではなかったが、ここを訪れたこと自体が久しぶりだったので、夕闇の中でその空洞はより大きく、どこか物悲しく感じられた。河川敷には冷たい風が吹き始め、季節は秋から冬に移ろうとしていた。

どこに行っちゃったんだろう、と夏が呟いた。

僕はそれについて考えを巡らせたが、分からなかった。思いつかなかったと言うより、この街の中ならば彼はどこにいてもおかしくはなかったから、一つの場所に予測を絞る当てが全くなかった。それに僕は、ずいぶん長い間、日光仮面と街ですれ違ったこともなかった。彼の存在を身近に感じるための頭の中のイメージが薄れていた。

夏も同じだったようだった。彼女は僕に訊ねた。

「日光仮面に最後に会ったのはいつ?」

僕は首を横に振って、思い出せない、と言った。彼とは、長いこと話をしていない。最後に会話したのは、死体について日光仮面に頼んだあの日のことだ。あの日の後、何度か街ですれ違ったはずだが、それもかなり以前のことだった。少なくとも中学生になってからは一度も会っていない。

「ずっと見かけてないと思う。夏は?」

「私もずっと会ってない」

日光仮面の行き先について僕たちが勘考するうち、特に答えが出ないまま完全に日が暮れた。仕方なく僕達は河川敷から立ち去った。

帰り道、僕たちはしばらく無言だった。風が少し強くなり、乱れ、夏の髪を左右に引っ張った。

信号待ちで自転車を停めた時、夏が呟いた。

「日光仮面はまだ本当にこの街にいるのかな?」

彼女は少し俯いていて、僕の方を見ていなかった。僕は彼女の横顔をじっと見つめた。その表情は憂鬱そうに見えた。

「いるよ。日光仮面はいなくならない」

僕はそう言った。根拠はなかった。ただ僕が、日光仮面がいなくなった真中市を想像できないというだけだった。

しかし夏はそれで少し微笑んで、そうだよね、と言った。

交差点で夏と別れ、僕は家に帰った。

その日の後、夏と僕の間では、日光仮面についても、横山の父の死についても話し合われることはなかった。僕たちはまた他愛もない話を続けた。最近読んでいる本の話や、聴いている音楽の話だった。僕は彼女に小説を教え、彼女は僕に音楽を教えた。彼女が教えるのはアメリカとイギリスの、古いジャズやロックだった。それは僕には退屈すぎることもあったが、彼女が辛抱強く聴かせたおかげで幾らかは身に付いた。

夏も健一も用があって、一人だけで学校から帰る時、僕は少し遠回りをして街を自転車で走った。だが、何度かそうしても、やはり日光仮面には会わなかった。しばらくしてまた河川敷まで行ってみたが、そこは空洞のままだった。僕が知っている以前ならば、しばらくいなくなっても川の反対側にやがて彼は移り住んでいたはずだったのだが、いつまで経ってもそうなる気配はなかった。やがて僕は彼を探すのを止めた。

父親を亡くした横山についても、一度その表情を確かめてみただけで、何かを探ろうとするのは止めた。教室の隅にいる彼の表情は静かで、悲しげで、彼が抱えている問題は僕が軽々しく立ち入られるようなものでないことはすぐに分かった。不確かな情報を根拠に、彼の気持ちを逆撫でするようなことを僕はしたくなかった。彼には時間と、適切な距離が必要だろうと思った。

ただ、噂だけが残り続けた。

教室の中で耳を澄ますと、日光仮面についての噂は、その後も断続的に聞かれた。それは、シリアスなものからささやかなものまで多岐に渡ったが、いずれも僕にはとても彼の行為とは思えないという点において共通していた。彼が他校の不良中学生を半殺しにしただの、街をうろつく野良犬を何匹もまとめて焼き殺しただの、昼間から大音量で音楽を掛けている家に乗り込んで行ってスピーカーを叩きこわしただの、長時間路上駐車された車のガラスやボンネットやタイヤを破壊しただの、聞きかじったところはいかにも彼がやりかねない過剰な行為が折に触れて僕の耳に入ってきた。しかし僕はそれに違和感しか感じなかった。いざとなれば彼は何でもやるかもしれないとは思っていたが、どの話も彼の美意識に反する行為のように思えてならなかったのだ。だから僕はどの噂も信じなかった。

しかし、僕はそれらの真偽を確かめることはできなかった。その後も日光仮面と会うことがなかったからだ。夏も健一も誠二も、彼とはあれからもずっと会っていないはずだった。あえて彼を探し求めるのはもう止めていたが、昔は嫌でもしょっちゅう顔を合わせていたのが、どれだけ近所をうろついてもまるで会うことがないので、本当にこの街のどこにもいなくなってしまったのかもしれないと思い始めた。誰かが彼と直接会って話した、という話も聞いたことがなかった。僕は不思議だった。彼がどこにもいないのに、何故彼の噂だけがはびこり続けるのだろうか。それは一体どこからやってくるのだろうか。

 

 

僕は十四歳になった。1995年のことだ。自分の年齢と、それに重なる西暦を意識するようになったのはこの年が初めてだった。それは誰もが等しく強制的に与えられる刻印だ。そのことが起きた時、自分が何歳だったか。僕の場合は、1981年に生まれ、1995年に十四歳になり、1999年に十八歳になり、二十一世紀を迎える2001年に二十歳になる。想像することさえできない果てしない先のことだが、上手く生き残ることができれば、2011年には三十歳になる。生き続ける限りその刻印からは逃れることができない。もちろん数字はただの数字だ。重要なのは起こったことがどのように自分に刻まれるかということだ。

1995年は真中市にとって決定的な年になった。恐らく僕にとってもそうだ。ある日を境に、物理的にも精神的にも様々なものが破壊されたり変化したりし、その日を遠く過ぎても元に戻らなかったものも多かった。

1995年、その日に至るまでは僕たちの暮らしぶりには前年までと比較してそれほど大きな変化はなかった。仲間たちの生活は順調そのものだった。健一はサッカーの県選抜メンバーとなり、エースフォワードとして活躍していた。夏はピアノと絵画の両方で成果を出し続けており、高校に進む前にどちらの道を選ぶかという岐路に立ちつつあった。

誠二と会う回数は少しずつ減ってきていたが、それでも僕たちは最近読んでいる本や聴いている音楽について時々語り合った。彼は自分の考えを文章にまとめるようになっていた。それは書評であり、随想文であり、時々は小説の形を取った。僕はしばしばそれを読ませてもらったが、そのテキストが持つ力には彼の知識と感性の鋭さを良く知っている僕でも驚かされた。彼に言わせれば、僕たちが生きる時代は「絶望が無い時代」だった。過去、この国には希望があり、それに伴う絶望があった。だが今僕たちには初めから何も無いため、僕たちは希望を持つことも絶望することもない。僕たちは自由で、全てを選択することができるが、その代わりに何も選択することができない。そうした内容の彼の文章を読んで、僕は共感するよりも感心するよりも、相変わらず彼が自分よりも遥か先を行っているという事実に打ちのめされた。そしてその差はこの後も縮まることなくどんどん開いていくことだろうと思った。

差し当たって僕は、本を読み続け、音楽を聴き続け、映画を観続けていた。それ以外に何をやったらいいのか分からなかったし、実際それ以外にほとんど何かをした記憶がない。文芸部は相変わらず極端な少数精鋭の人員構成を保持しており、僕の成績も相変わらずオール4だった。何をやらせても普通だし、口数も多くはなかったので、僕はクラスの中でも最も目立たない生徒となりつつあった。

そんなある日に雨が降り始めた。夏休みが終わり、9月になったばかりのことだった。隅々までべたついた蒸気のような暑い空気が街全体を覆う、真中市の一年で最も不快な時期だ。そこに雨がやってくるのだから、道を行き交う人々はまるで温水の中をくぐりぬけていくような感覚を味わう。真中市にとって雨は珍しい存在ではなく、むしろ一年中しょっちゅう登場したが、だからと言って慣れ親しむようなものではなく、不快さが軽減されることもなかった。

静かな雨だった。僕はその日も文芸部の部室で本を読んでいた。文庫本のページは湿ってふやけ気味で、僕は人差し指と親指で紙をつまんで一枚一枚めくっていった。僕以外の二人の女子部員――先輩の女子部員は三年生になって引退し、後輩の一年生の女子生徒に入れ替わった――は、無言で、熱心に小説を読み続けている。彼女たちの読書に対する情熱は僕を遥かに超え、季節を問わず一切止む気配がなかった。

17時過ぎまで本を読み続けると、僕たちは部室に鍵を掛けて校舎を後にした。雨が音もなく降り続けていたので、僕は左手に傘をさして右手にハンドルを握り、ゆっくりと自転車を漕いだ。空の色は灰と黄の中間で、風景全体がくすんだ古い教会画のようなムードに包まれていた。

僕はその途中で、銀色の空き缶の山を背負った、あの老人に会った。街で拾った空き缶で家を作ろうとしていたあの老人だ。彼の空き缶造りの館には何年も訪れていなかったから、それが完成したのかどうか僕は知らないままだったが、彼が空き缶を拾い集める様には以前と全く変わりなかった。

僕があの人たちから遠ざかるようになってから、既に長い時間が経っていた。日光仮面と同様、少なくとも中学生になってからは誰とも一度も会話をした覚えがない。それはごく自然な、ことの成り行きだった。自我の成長につれて、彼らの世界と自分たちの世界の違いは際立っていく。彼らは、現実に存在するかしないかの違いはあれ、子どもにしか見えない妖精のような存在とも言えた。やがてほとんど誰もが必ずその世界からは離れて生きていくことになる。それは彼らの存在に少なからずリアリティを覚える僕も例外ではなかった。

だがこの日僕は老人に話しかけた。雨脚が少しずつ勢いを増していく中、彼が背負ったカゴとその中の空き缶が、水を吸って余りにも重々しく見えたからだ。彼は傘も差さずに全身を雨に打たれていた。

「今日は帰った方がいいですよ」

僕の方に老人は振り向いた。彼は初めて会う人間を見るかのように僕を見返したが、実際僕のことなど全く覚えていなかったに違いない。彼らは他人に興味を持たないのだ。もしも何かの間違いで覚えていたとしても、僕の体はようやく日に日に成長し始め、顔の形も変わり始めていたので、以前とは別人にしか見えなかっただろう。

老人は首を横に振った。

僕は、一緒に空き缶を家まで持って帰ります、と提案した。

すると老人は再び首を横に振った。

「今日、どうしても空き缶を集めなくちゃならん」

明日、孫の結婚式でもあるんですか、と僕は尋ねた。

僕は冗談でそう言ったのだが、もちろん彼らに冗談は通じない。孫はいない、と彼は言った、「家族は一人もいない」。

孤独であることも、彼らに共通する特徴の一つだった。

「じゃあどうして今日集めなくちゃならないんですか」

「川に堤防を建てる」

老人ははっきりした口調でそう言った。

「堤防を建てる? その空き缶で?」

「そうだ」

「もう堤防はありますけど」

「あれじゃ足りん」

「どうして堤防を建てるんですか」

「このままだと雨で日光川が決壊する。徹夜でやっても間に合わんが、やるしかない」

僕は何と応じたらよいのか分からなかった。差した傘の向こうに見える灰色の空を覗いてみた。重々しい雨が絶えず上空から降り注いできてはいたが、それはごく普通の、これまでこの街に何万回も訪れたことのある雨で、普段と特に何か違ったところがあるようには見えなかった。

空き缶で堤防を作るためには何千万個の缶が必要になるのだろうか? そして数千万の缶と缶との隙間を埋める手段は存在するのだろうか?

僕は、気をつけて、と言って、老人と別れた。老人は僕に手を振りもせず、空き缶探しに戻っていった。

僕は家に帰ってテレビで天気予報を見た。

明日は激しい雨になるでしょう、とアナウンサーが言った。十分な警戒が必要です、とも言った。具体的にどれくらいの激しさで、どんな警戒が必要なのかはよく分からなかった。

 

 

 

翌朝になってもまだ雨は降り続けていた。そしてそれは昨日とは質も量も全く違う雨だった。凄まじい勢いで僕の部屋の窓を叩き、僕はその音を聞きながら目を覚ました。テレビで天気予報を見ると、真中市を含む県全域に大雨洪水警報が発令されていた。窓を開けて外を覗くと、庇に弾かれた雨の破片が顔に突き刺さり、視界のすぐ向こうでは錠剤のような大粒の雨が絶え間なく落下し続けていた。自転車に乗っていくには危険すぎたので、僕は早めに家を出て、歩いて学校に向かった。学校に着いたころには頭以外の全身がぐしゃぐしゃに濡れそぼっていた。

同級生たちも皆同じ目に遭っていたが、授業はいつも通り8時40分から始まった。教師の声が聞こえないほど雨音がやかましい。僕はずっと窓の外を眺めていたが、しばらくすると雨が強くなりすぎて、風景の全てが真っ白になり、何も見えなくなってしまった。

ノートに一次関数のグラフを書き込みながら、僕は、この雨はどう考えても異常だと思った。いくらなんでも激しすぎる。僕の記憶にある限りでは、真中市にこれほど激しい雨が降ったことはなかった。僕は真中市の面積の7割を占める水田に思いを馳せた。米の収穫が間近に迫っているが、この雨で全て駄目になってしまうだろう。

三時限目の授業が始まった時、クラス担任がやって来て、本日の授業はここまでとします、と宣言した。「非常に激しい雨が降っています。予報では、雨はこの後更にひどくなるそうです。今の内に皆さん、気を付けて下校してください。家の近い人たちは声を掛け合ってできるだけ一緒に帰るように」。

クラス中から歓声が上がった。男子生徒達はハイタッチを交わして休校を祝った。女子たちは不安げにいそいそと荷物をまとめ出した。僕は、これ以上「更にひどくなる」雨のことを想像しようとしたが、今の雨が既に僕がこれまで見たことがないほど激しい雨だったので、うまくイメージができなかった。ともあれ、教師が言う通り急いで帰ったほうが良さそうだった。

かばんを肩にかけて教室の外に出ると、僕は健一と夏の姿を探した。二人との帰り道は途中まで一緒だったからだ。二人とともに傘を差して外へ出たが、風もかなり激しく吹いていたので、校門を出た頃には全身が水浸しになった。

しばらく歩くと、断続的に猛烈な突風がやってきて、その度に僕たちの傘の骨は一本ずつ折れていった。僕たちはやがて、地面から吹き上げてくるような雨の中で傘を差しても無意味だと気がついた。全身を豪雨にさらして僕たちはゆっくりと前進した。急いで帰りたいのだが、雨も風も激しすぎて徐々にしか進めなかった。視界は激しい雨で遮られ、風で体が吹っ飛ばされそうになり、長時間歩き続けるのはいかにも危険だった。

僕は二人に声をかけて、通りがかった公民館の入口の下に緊急避難した。体中が雨を吸ってずっしりと重い。僕は手のひらで顔を拭って水分を払ったが、髪からぼたぼたと水が滴り落ち続けた。間違いなく、人生で最もひどい雨だった。

俺の家に来なよ、と僕は二人に提案した。三人の中で僕の家がここから最も近かったからだ。「家の人には俺の家から電話をすればいい」

夏は、ありがとう、そうする、と答えた。健一はどうする、と僕が訊くと、彼はしばらく考えたあとで、首を横に振った。

「俺は自分の家に帰るよ。母さんが一人だから」

僕は頷いて、分かった、気をつけろよ、と答えた。

僕たちは公民館を出ると二手に分かれた。健一と手を振って別れると、彼の姿はすぐに雨の向こうに見えなくなった。

公民館から僕の家までは普段なら三分で着くが、倍以上の時間がかかった気がする。海を泳いで渡るような調子で歩き、家に到着したときには僕も夏も、滝に打たれて修業を積んだ修験者の様相だった。家の中には誰もいない。父も母も勤め先から帰ってきていないのだった。僕は夏に、バスタオルとスウェットパンツとビートルズのロゴが入ったTシャツを渡して、先にシャワーを使わせた。僕は服を脱いでレッド・ツェッペリンのTシャツに着替えると、タオルで頭をごしごし拭きながら、テレビのスイッチを入れた。チャンネルをどこに合わせても、この大雨のニュースをやっていた。県の中心市内では完全に交通がマヒし、空港はもちろん全航空機の離着陸を停止、東海道新幹線をはじめ全ての電車は運行を取りやめていた。運転再開の目処は全く立っていない。この嵐で既に三人の方が亡くなり、五人の方の行方が分からなくなっています、とアナウンサーが言った。県内でも最も雨の激しい地域では、一時間に百ミリを超える極めて猛烈な勢いの雨が降っており、気象庁では引き続き厳重な警戒を呼び掛けています。

夏が髪を拭きながら部屋に入ってきたので、僕は入れ替わりに風呂場でシャワーを浴びた。温かい湯に全身を打たれながら、この雨はいつまで降り続けるのだろうか、と思った。頭の中に窓の外の景色を思い浮かべ、さっき見たまだ十二時にもなっていない時計の針を思い出した。予報では、少なくとも夜までは降り続けると告げられていた。もし、この勢いがその時間まで全く止むことがなければどうなるのだろうか。

風呂場を出てリビングに戻ると、夏はテレビの画面をじっと見つめていた。画面には濁流が滔々と流れ氾濫寸前のどこかの川の様子が映し出されていた。僕は彼女の隣に座って、家の人には連絡したかと訊いた。夏は首を横に振って、電話借りたけど、まだお母さんもお父さんも帰ってきてないみたい、と答えた。

「昨日、久しぶりの空き缶の爺さんに会ったんだ。覚えてる? 街の隅っこで、物凄い量の空き缶で家を建ててたあの爺さん」

夏は頷いた。

「前と変わらずに、空き缶を拾い歩いてた。その爺さんが言ったんだ。今日、日光川の堤防が決壊するって」

「本当にそうなるかもしれないね」

夏は静かな声でそう言った。

「そうしたら、この街はどうなるのかな?」

「何人も人が死ぬかもしれない。俺たちの家はみんな危ないだろう」

真中市は、かつては海に面した港町で、市の面積の大半は海中にあった。明治期にそこに干拓事業を行った結果、現在の真中市ができ上がったのだ。したがって、市のほぼ全域が海抜ゼロメートル以下の埋め立て地だ。そこから論理的に考えれば、ひとたび日光川が決壊すれば、水は僕たちの町の隅々まで行き渡る、ということになる。僕たちの四人の家はそれぞれ、日光川から数キロと離れていない場所にある。避けられはしないだろう。

僕と夏は支度を始めた。この家を出て避難する時に備えての支度だ。キャンプ用の巨大なリュックサックに、お茶を入れた水筒やクッキーやインスタントラーメンといった非常食や下着や防寒具を詰め込んだ。それはかつて小学生だった時にやった冒険の準備に似ていた。

僕にはまだ危機感はなかった。不安を感じるより、どちらかといえば僕にあったのは未知の光景に対する期待だった。もし僕たちの予想通りの事態が訪れるとするなら、この街の風景は一変するだろう。危険を想像するよりも、訪れる非日常を漠然と想像する方が容易で、それは恐怖とはかけ離れていた。

僕が押し入れの中の懐中電灯と、替えの単一電池を探している時、家の呼び鈴が鳴った。だがそれは雨の轟音でかき消され、最初は何かが軋む音にしか聞こえなかった。何度もボタンが押され、ようやく僕はその音を判別することができた。誰だろうかと僕は思った。父も母も家のカギを持っているから、わざわざインターホンを鳴らさなくても扉は開けられる。玄関まで出て行き、こんな天候の中で誰が我が家に訪れる用があるのだろうと思いながらドアを開けた。激しい風と共にあっという間に雨が吹き込み、僕は目を細めた。

ドアの向こうに立っていたのは、僕がよく知っている、そして全く予想しなかった人物だった。さっきまでの僕と夏のように、雨で全身を徹底的に打たれ、バケツの中に浮かぶ雑巾のような様で立ち尽くしている。頭に巻かれたタオルも、顔面を覆うマスクと真っ黒いサングラスも、背負ったマントも、すべてが重く濡れて薄汚れていた。

そこにいたのは間違いなく日光仮面だった。

僕は口を半開きにして、茫然と彼の姿を見つめた。彼は肩で息をしながら、いつも通り背筋をまっすぐ伸ばして立っていた。

「繁、話がある」

日光仮面はそう言った。何の話、と僕は反射的に訊いた。

「大切な話だ」

雨がばしゃばしゃと僕の顔に突き刺さり、とにかく中に入りなよ、と日光仮面に言った。

「ここで構わない。私はもう、どの家にも入ることができない」

「僕が濡れるんだよ」

僕は日光仮面の背中を押して、無理やり玄関の内側に入れた。ドアを閉じると雨の轟音が遠ざかり、代わりに日光仮面の全身から滴り落ちる雨粒の音がぽつぽつ聞こえてきた。

夏が僕たちに気がついて、二階から降りてきた。彼女は僕の隣に立って、日光仮面に「タオルを取ってこようか」と訊いた。

日光仮面は首を横に振った。

「長居はしない。君たちに伝えたいことがあるだけだ」

「こんな日に? 明日とか明後日とかにすればよかったのに」

「今日でなければ意味がない。昨日でも明日でもなく今日でなければ」

「ここが僕の家だってどこで知ったんだ?」

「この街のことは全て知っている。少なくとも昨日までのことは」

「僕の名前も覚えられないのに?」

「繁、すまないが私には時間がない。もちろん君にも。話をしてもいいか?」

好きにしろよ、と僕は言った。

「今日がこの街の最後の日だ。遂にサタンの爪がやってきた。誰にもそれを止めることはできない。やつらはこの街を破壊し尽くし、全てを奪い去るだろう。私はこれから、やつらとの最後の決戦に向かう」

「まさかとは思うけど、この雨がサタンの爪だって言うんじゃないだろうな」

「そのうちの一つだ。いいか、君らは高台に逃げろ。これから数時間後、日光川は決壊する。そうなればやつらの思うつぼだ」

「高台なんてどこにあるんだよ。この街は隅から隅まで平べったくて、高い場所なんかどこにもない」

「いいから高い場所を目指して逃げるんだ。そしてできるだけ頑丈な建物に身を隠せ。後は私が何とかする」

「わざわざそんなことを言いに来たのか? わざわざ来なくても、必要になれば避難勧告と避難場所の連絡は学校から来る予定になってる。日光仮面こそ、安全な避難先を探しておけよ」

「私がここに来たのは、そのためだけではない。これを君に渡すためだ」

日光仮面はそう言うと、背負ったカバンから、近所のスーパーマーケットのポリ袋に包まれた四角い何かを僕に差し出した。僕は雨に濡れたそれを受取って、何だこれ、と言いながら中身を取り出した。それは厚手の革表紙の手帳だった。

「そこに、私のこの街における戦いの記録全てが記されている。これを君に託す」

僕はぱらぱらとその薄汚い手帳を開いた。紺色のペンでびっしりと文章が刻まれている。「3月5日。柿泥棒を遂に発見す。現行犯にてこれを取り押さえ、成敗する。正拳突きを犯人の心臓に向かって打ち込んだところ、彼の者は蹲り沈黙す」。「5月1日。我が愛車ドリーム号の後輪がパンクする。5つの画鋲が突き刺さっており、目下犯人を捜索中。容疑者を市内の小学生の一団と推測。今後周辺での聞き込みと張り込みを実施する」。……

僕はノートを閉じて日光仮面を見返した。

「なんでこれを僕に預けるんだ?」

「私が、今日死ぬからだ」

「死ぬ?」

「私が死んだあとにこの街を託せるのは君しかいない」

「だから、なんで僕なんだ?」

「君だけがいつも私の話を聞いてくれた」

日光仮面は静かな声でそう言った。僕は口を開いたが、声が出なかった。代わりにゆっくりと首を横に振った。

「いいか、繁。君たちは死んではいけない。この街は私が守ってみせる。だがそれも今日が最後だ。これからは君が誰かを守らなくてはならないのだ」

日光仮面は身を翻して玄関のドアを開けた。さらばだ、とつぶやくように言うと、彼は嵐の中に駆け出して行った。背中に声をかける暇もなかった。

僕はその場に立ち尽くした。そして手に持った汚れた手帳と、既に閉ざされたドアを見比べた。

日光仮面について流通していた噂の真偽を問いただす暇など、全く無かった。

雨の音がごうごうと頭の中で鳴り響き、僕は手のひらで頭を押さえた。久しぶりの感覚が、僕の全身を包んでいた。現実と非現実、日常と非日常の境界があいまいになって、今自分がどちらにいるのか全く分からなくなる、あの感覚だった。

 

 

 

僕と夏は簡単に昼食を摂ることにした。冷蔵庫にうどんがあったので、夏がつゆを作って麺を茹でる間に僕が油揚げとねぎを切った。ごくシンプルなうどんを食べながら、僕たちはテレビのニュースを見続けた。雨は一向に収まる気配がない。最後のうどんの一本をすすった時、電話が鳴った。麺を飲み込んで受話器を取り、もしもし、と言うと、「俺、中川」と暗い声が聞こえた。同級生の男の声だった。

どうした、と尋ねると、緊急連絡網、と彼は応えた。

「緊急連絡って、この雨のことだよな?」

「そう。避難しろって。雨が凄いから」

彼は長い文章を一度に口にすることのできない男だった。

「どこに避難すればいいんだ?」

「近くの小学校か、中学校。それがだめなら別の。丈夫で背の高いやつ。公共の建物。気をつけろって。避難する時。やばけりゃ自宅待機で」

分かった、と僕は答えて受話器を置いた。そしてすぐにそれを再び取り上げ、壁のコルクボードに貼り付けられた緊急連絡網の次の相手に電話をかけた。

電話に出たのは同級生の野沢の母親だった。こんにちは、野沢君の同級生の中原裕司と言います、緊急連絡網で案内が伝わってきたので、お電話しました。

野沢の母親は、電話に出た瞬間から、完全に取り乱していた。こんなひどい雨は初めて、風はすごいし雨は物凄いし、雨漏りもするし、買い物にも行けないし、車も怖くて走れないしどうしたらいいのかしら、中原君のおたくは大丈夫?

「はい、うちは大丈夫です。それで学校からの連絡なんですが、雨が止まないので避難するようにとのことです。近くの小学校か、中学校に」

小学校か中学校ってこんな天気の中でそんなところまで歩いて行けないわよ、うちはさっき停電してニュースも見られなかったのよ、雨は一体いつ止むのかしら、主人がまだ帰ってこれないから心配でしょうがないの、なんでこういうときに男って頼りにならないのかしら、うちの息子はさっきからゲームばっかりやってて私がこんなに不安なのにずーっと部屋に閉じこもってるのよ。

放っておくと永久に話が止まらないように思えたので、僕は強引に口をはさみ、連絡網の次の方にも伝えてください、よろしくお願いします、と言って電話を切った。

夏に緊急連絡の内容を伝えると、僕たちはどんぶりを洗い、身支度を整えた。僕たちの出発の準備はほとんど既に終わっていた。最後にもう一度、夏は自宅に電話をかけたが、やはり誰も出なかった。

僕は自分の両親に宛てて、「夏と二人で小学校に避難します」と書いたメモをコルクボードに貼り付けた。僕たちがかつて通っていた小学校までは、僕の家から歩いて10分もかからない。窓の外を見ると、雨はさっきまでよりもほんの僅かに弱まっていた。出かけるなら今すぐがよさそうだった。

 

 

 

再びさんざん雨に打たれて小学校に辿り着くと、下足ロッカー前に設置された即席の避難名簿に名前を記入した後、僕たちは三階の五年生の教室をあてがわれた。机と椅子が全て端に寄せられて、そこには僕たちと同じように避難してきた近隣の住民が何人かいたが、見知った顔は一つもなかった。老人とおばさんとが不安げに話しこんでいて、幼稚園に入るか入らないかくらいの子供が毛布にくるまってすやすやと眠っていた。僕たちと同年代の者はいなかった。まだ卒業から二年も経っていないから当たり前だが、校内の様子は以前とほとんど何も変わっていなかった。窓際に立ち、校庭を見下ろした。かつて僕たちが昼休みにドッジボールやサッカーをし、夏休みにラジオ体操をした土のグラウンドは、一面暗い影の中に沈んで水浸しだった。

家から持ち込んだポータブルラジオのアンテナを窓に向かって伸ばし、NHKに周波数を合わせた。アナウンサーが暗い声で、変わり映えのしない天気予報を復唱し続けている。極めて強力で大型の低気圧が本州の太平洋側をゆっくりと北上しております。東海地方を中心に激しい雨が降っており、気象庁では厳重な警戒を呼び掛けています。僕はボリュームをぎりぎりまで小さくして、座布団代わりの寝袋に腰を下ろした。

「夏、大丈夫か?」

僕は隣に座った夏の顔を覗き込んだ。彼女の顔は幾分青白かった。元気がないのは酷い天気の中を歩いてきたせいかと思ったが、よく見れば単なる疲れではなく体調が悪そうに見えた。

大丈夫、と夏はかすれた声で言った。

どう見ても大丈夫そうではなかった。僕はリュックから水筒を取り出し、冷えた麦茶を器に淹れて夏に渡した。ありがとう、と言って夏は受取ったが、少し口に含んだだけで、器を床の上に置いてまた俯いてしまった。

僕は夏の額に手を触れた。熱は無い。だが彼女の体は少し震えていた。彼女は顔をあげて、僕に向かって少しだけ微笑んだ。大丈夫だから、と彼女は言った。

僕は夏がこういう顔をするのをかつてどこかで見たことがあった。だが、それがいつ、どんな場面で、誰に対する表情だったか、一切記憶が連結して行かなかった。既視感だけがやってきてどこにも辿りつかず、僕はもやもやとした気持ちで夏の顔を見返して、少し横になれよ、と言った。

夏は頷いて、敷いた寝袋の上に横たわった。僕は持ってきた上着を夏の体に掛けた。夏は微笑んで目を閉じた。ねえ裕司、と夏は眼を閉じたまま言った。

「覚えてる? 私たちの秘密基地のこと」

「忘れるわけないだろ」

僕はそう言った。たった二年前まで、僕たちはほとんど毎日をそこで過ごしていたのだから。僕はまだ、四人であの小さな小屋を建てた日のことをつい昨日のことのように思い出すことができた。

だが、やがてそこに訪れる回数は減っていった。最後に残ったのは僕一人で、何をなすこともなく孤独に時間を潰していた。そしてやがて僕もそこから離れた。小屋を建てた日のことははっきりと思い出せるのに、最後に訪れたのがいつだったか、僕はどうしても思い出せなかった。

「あの基地、この雨で、どうなっちゃうのかな」

夏は小さな声でそう言った。彼女は眼を閉じたままで、少しだけそのまつ毛は震えていた。それはほんのわずかな震えで、体調によるものか感情によるものかは判別できなかった。

素朴な問いだった。だが多くの場合、重要な問いとは素朴なものだ。

僕は夏のその閉じられた瞼を見つめながら、返答ができなかった。答えが分からなかったからではない。僕の半開きになった口は、しばらくふさがらなかった。

答えは明らかだった。この雨で僕たちの基地は、跡形もなく砕け散るだろう。いや、未来ではなく、僕たちがまだ確認していないだけで、既に崩れ落ちている可能性が高い。これだけ激しい嵐に耐えられる基地を建てられるほど、僕たちの建築技術は洗練されていなかった。防ぎようはない。今もう一度、同じ基地を造るか補強しようとすれば、もう少しは上手くやるだろうが、結局は耐えることができずに壊れてしまう。それは止むをえない結末と言えた。

だが僕は、あの空間に思いを馳せるや否や、それが起こったのはきっと今日ではない、ということにまで気が付いた。もっと前だ。おそらく僕たちの基地は、実際は今日よりもずっと以前に、砕けてしまっていた。真中市の一年の三分の一は雨だ。僕たちはあの基地に常駐していたころ、しょっちゅう基地の補修作業を行ってきた。屋根が吹き飛び、壁が倒れ、穴が開き、そのたびに僕たちは木々や粘土や釘で基地の体勢を建て直した。僕があの基地から離れてから二年の間に、今日ほどではなくとも激しい雨は何度もやってきた。あの小さくて頼りない基地がそれらに耐えられたとは、僕には思えなかった。

僕が夏に答えることができなかったのは、このことを自分が今まで全く考えてこなかったことに気付いたからだった。僕は自分自身にショックを受けていた。僕は自分の身にまつわること、情熱や憧れといった感情を自分に抱かせたものについては、忘れることなく覚えているつもりだったのだ。

「もう壊れてるよね?」と夏は言った。

「いや」と僕は言った。「まだ分からない」

口に出してすぐ、僕の全身を違和感が包んだ。僕には、なぜ自分がそう言ったのかが分からなかった。意味のない気休めでそう言ったのか、少しでも本当にそう思ったのか。僕は自分に対していらいらした。雨の音が更にやかましくなり、僕の感情を逆撫でした。

夏はそのまま沈黙した。目を閉じて、ゆっくりと呼吸していたが、眠りに落ちたのかどうかは分からなかった。

僕はカバンの中から手帳を取り出した。日光仮面から預かった、あの手帳だった。それほど興味があるわけではなかったが、僕は本を家に置き忘れてきて、他に一人で時間をつぶせるものが何もなかったのだった。

そこに書かれていたのは日光仮面の過去だった。より正確には、それは彼の日記帳だった。僕はこの手帳によって、日光仮面が金属バットを取り上げられて正拳突きを始めたエピソードや、いかに枝葉末節な種々の事件を解決すべく、真中市をかけずり回ってきたのかを知った。それらは無味乾燥な報告書文体で綴られていたが、日光仮面の奮戦ぶりは目に浮かぶようにありありと想像することができた。

だが、肝心なことが抜け落ちていた。「サタンの爪」だ。日光仮面が常日頃口にしていた悪の総大将の名称については、一切その日記帳に登場する気配がなかった。「サタンの爪」の正体が、日光仮面の妄想の結実であり彼の脳内にしか存在しないと、何年も前に誠二が説いて以来、僕はその悪役に心を惹かれたことはなかったが、全ての読み物は何かを解き明かすこと、あるいは解くことができなくても謎を提示しようと努めることが望ましい。にもかかわらずそれが何も無いのだから、僕はすぐに日光仮面のリアリティにあふれた日常的な武勇伝に退屈し始めた。

「裕司」と僕の名を呼ぶ声がした。

顔を上げると、そこに誠二がいた。彼は教室の中に入ってきて、僕に向けて少し手を上げて、微笑んだ。

僕も微笑んだ。彼に会うのは久しぶりだったし、友達の無事を確認できたことが単純に嬉しかった。久しぶり、元気か? と僕は言った。

ああ元気だ、と誠二は応えた。そして僕の隣に座り込んで、小さな声で、夏、具合悪いのか、と訊いた。僕は頷いて、そうみたいなんだ、と言った。「目が覚めたら、保健室に連れて行こうと思う」

誠二は市外の中学に通っているが、朝から電車が止まっていたので今日は初めから学校を休んでいたという。家で母親と兄と三人でテレビのニュースを見ていたが、市の避難勧告を受けた。家に留まる選択肢もあったが、大事に備えてここにやってくることにした。4階の6年生の教室に家族とともに避難している。

「きっとお前たちもいると思って探したんだ。健一はどうした?」

僕は首を横に振った。「途中で別れたんだ。中学校から一緒に帰ってきたんだけど、あいつはお母さんの面倒をみるって」

そうか、と誠二は言った。「だとしたらあいつは動けないだろうな」

僕は頷いた。健一の母親は体が不自由だった。僕たちは健一に詳しい事情を尋ねたことはないが、左半身に麻痺があるらしいということは知っていた。僕たちが初めて会ったときからそうだったから、一生付き合う不自由なのだろう。

「それ、なんだ?」

誠二が、僕が手に持った手帳を指差した。

僕は苦笑して、日光仮面のメモリー、と言った。

つまり俺たちの街の事件簿か、と言って誠二は頷いた。

僕は誠二に、事のあらましを語ることにした。周囲の避難してきた人たちに声が届いていないのを確認して――彼らはラジオのニュースに聞き入っているか、互いに不安をかき消すような大声で話し合っていた――小さな声で誠二に話しかけた。聞かれて困るような話でもないとは思ったが、馬鹿馬鹿しすぎて頭がおかしい奴だと思われないとも限らない。

そして僕は、彼についてはびこる種々の噂と、彼がこの大雨の中僕の家にやってきて、今日がサタンの爪が到来する時だと告げて去っていったことを話した。

「その時この日記帳を僕に渡してったんだ」

ふうん、と誠二は言った。

いつもなら、それで会話はほとんど終わりだった。彼がやることについてもやったことについても考えていることについても、結局の出発点と終着点は妄想にすぎないのだから、深く思い遣る必要はない。僕と誠二にとっては日光仮面はそういう存在だった。

だが誠二はしばらく僕の目を見つめたままでいた。彼が、僕の目の中にシリアスな感情があることを読み取ったのが、僕にも分かった。

「本当に日光仮面は殺したのか?」と誠二は僕に訊いた。

「分からない。証拠が何もないんだ。でも俺は変な感じがする。本当だとしたら、変だと思う。日光仮面らしくないんだ」

「じゃあ誰が殺したんだ? 誰が横山って奴の父親を殺して、犬を焼き殺して、車を破壊したんだ?」

「分からないよ。実際に死んだ横山の父親はともかく、他の噂については本当にそんなことが起こったのかどうか誰も確認してないんだ。噂なんてそういうもので、根も葉も別に必要無く広まるだろ?」

「じゃあお前どうしてそんなに不安そうにしてるんだよ」

「そんな風に見えるか?」

誠二は頷いた。

僕はため息をついた。

「うまく説明できない。誰にも説明できない。自分自身にも」

「俺には分かるよ。お前は日光仮面に感情移入し過ぎてる。頭ではあのおっさんが気が狂ってると分かってるのに、その行動に付き合うから、振り回されるんだ」

誠二は更に小さな声で、夏と同じだ、と付け加えた。

「誠二は日光仮面が殺したかもしれないと思うか?」

「もちろん確実なことなんか分かるわけないが、絶対無いとは言い切れない。三年前、日光仮面自身が俺たちにそれを教えたんだ。自分はやると決めたら徹底的にやると。実際にあいつは、一人の人間の死を徹底的に秘密にすることができたんだ。それ以上の行為をやるかやらないかの境は相当曖昧だ。どっちにしても断定はできない」

僕は頷いた。僕も同じ意見だった。境は曖昧だ。でも、と僕は言った。

「でもその境を超えないのが日光仮面だと思ってるんだ」

「だから言ってる。今感情移入するな。どうせそのうち何もかもはっきりするか、消えて無くなるかのどちらかだ。今考える必要はない」

「考えるのを止めることができても、感情を消すのが難しい。頭から消えないんだ。日光仮面がこの雨の中、サタンの爪を探しまわってる光景が」

「分かってる。消せないなら隠すしかない」と誠二は言った、「夏に伝染するぞ、気をつけろ」

僕は頷いた。

「誠二は、サタンの爪は本当にいると思うか?」

その馬鹿げた問いは、僕の中から唐突に無防備に現れた。

この並はずれて頭の切れる友達になら、それを素朴に尋ねても許されるような気がした。

「さっきの話と同じだ。解釈次第でどうにでもなるものは、どこにだっているし、どこにもいないものだろ。神様と一緒だ。それ以上の具体性があるんなら、それが現れてから考えようぜ。それよりさしあたってこの雨はやばいよ。あの汚え日光川があふれ出てきたら、物理的な水害だけじゃ済まない。あれは病原菌の塊みたいなものだ。何人かが死ぬだけじゃなくて、何年もこの街に痕が残り続けるかもしれない」

僕は再び頷いた。誠二の声は、夕暮れ時に遠くから聞こえてくるピアノの音のようにずっと静かなままだった。それはすぐ外の暗く激しい嵐と並べられた今、岬の突端に立つ灯台の明かりのように僕の心を落ち着かせた。

 

 

 

誠二が母親のいる教室に戻ると、僕は、リュックからノートを取り出してページの一部を破った。そこに「夏と僕の家にもう一度電話をしてくる」とメモ書きし、眠り続ける夏の顔の横に置いて立ち上がった。

目的地の職員室は、僕と同じ目的の人々でごった返していた。在学中は誰も積極的には近づかないこの場所に、この場に似つかわしくない大人たちが集合している。全員が電話の順番待ちだ。職員室の中に入りきれなくて外の廊下に人々が列をなしており、僕はその最後部に並んだ。つくづく僕は何か本を持ってくるべきだった。

僕は前に並ぶおばさんと話をして時間を潰した。彼女の家は自営業で酒屋をやっていて、この雨で止むを得ず逃げてきたのだと言った。商品は可能な限り二階に上げてから家を出てきた。小学校高学年の娘と小学校に入ったばかりの息子の四人家族全員で避難してきたが、実家の両親が心配しているはずだから電話をかけて無事を知らせることにした。僕は彼女に家族は無事なのかと尋ねられたので、首を横に振った。友達と逃げてきたんです。両親は共働きだからまだ会社にいるかもしれないんですけど、僕が避難した先を知らせたくて。

偉いわねえ、とおばさんは言った。ただそう言い、何が偉いのかはよく分からなかった。

何度かおばさんとの会話が尽きた後、ようやく僕の順番が回ってきた。僕は夏の家の電話番号を押して、受話機を耳に押し当てた。だが誰も出ない。ダイヤル音が十五回以上鳴って、留守番電話モードに切り替わった。「中原裕司です。雨がひどいので、夏と一緒に小学校に避難しています。避難先は五年二組の教室です。こちらに来ることがあれば尋ねてください。僕たちは大丈夫です」。

僕はそう言って電話を切ると、今度は自宅に電話した。しかしこちらも同じく、誰も出ない。さっきとほとんど同じ内容の伝言を留守電に残すと、僕は受話機を置いた。両親の勤め先の電話番号を僕は控えていなかったから、これ以上連絡を取る手段はなかった。

諦めて電話から離れようとした時、ふとした思いつきがそれを留まらせた。僕は再び受話機を手に取り、記憶の中の一つの番号をプッシュした。

健一の家の電話番号だった。受話機を握りしめて、彼が出るのを待った。

だが、誰も出なかった。何十回も同じダイヤル音が耳を打ち、僕は諦めて受話機を置いた。きっと、彼は既にどこかに避難したのだろうと僕は思った。お母さんの体が不自由だから、タクシーでも呼んで。既にここにきているかもしれないし、健一の家は、市の運営する病院にも福祉会館にも近いから、そちらに避難したのかもしれない。僕はそう考えて、職員室を出ることにした。

その間際、僕は自分の名を呼ぶ声に振り向いた。そこにいたのは、僕たちが六年生の時に担任だった先生だった。彼女はもともとよく太った血色のいい人だったが、この二年で更に太ったように見えた。

裕司君、久しぶり、と先生は言った。

お久しぶりです、と僕は微笑んで答えた。

背が伸びたんじゃない? と先生が訊き、はい、やっと伸び始めましたと僕が答える、ごく普通の教師と卒業生の受け答えの後、先生が言った。

「あの三人とはまだ仲良しなの?」

はい、と僕は答えた。

「大切にね。仲のいい友達は何よりも大切なものだから」

僕は頷いた。それは僕たち四人の関係を知る教師にとって、ごくありふれた忠告だったと思う。だが僕は、彼女の言葉が胸に深く突き刺さるのを感じた。おそらくそれは意味の問題ではなくタイミングの問題だった。大切にするというのは、壊れる可能性があるからそうするのだ。

先生は微笑んで僕に手を振り、職員室に戻っていった。僕は廊下を歩きながら、健一の姿を探した。やはりこの校内のどこかに既に彼がいるかもしれないと思って。だが見つからなかった。ほとんどの教室は、避難してきた人々でいっぱいになりつつある。僕はその中に知っている顔を一つも見つけだすことができなかった。全てを知ったと思うほど走りまわったこの街で、家から徒歩10分の距離にあるこの小学校で、僕の知る人間が一人もいないことに、僕は強烈な違和感を覚えた。窓の外の空は見たこともない黒と灰の中間色で、今が何時なのかも分からない。

僕の中で、それらの目に映るもの、心の中に渦巻くもの、そして今自分が一人で廊下を歩いていることは、まとめて一つの象徴となりつつあった。僕はその解釈を必死に拒否し続けた。

 

 

 

やがて夜になった。窓の外の闇は更に濃密になり、雨の勢いはいよいよ盛んになり、その轟音はもはや雨音と言うよりエイリアンの襲撃のようだった。避難してきた人たちは、みな何もしていないのにぐったりと疲れ切っていた。子供たちは泣きやんで眠り、大人たちはおしゃべりをやめて俯いている。窓に時折びしゃっと一際大きな音を立てて雨の塊が突き刺さるのにも僕たちは慣れ、ほとんど動かずにぼんやりしていた。まるでこの学校全体が催眠術にかかってしまったような光景だった。

結局僕は、両親とも、夏の両親とも、健一とも連絡のつかないままだった。不安ではあったが、憂いたところでどうしようもなかった。彼らがそれぞれ無事でいることと、僕らのことを心配していないよう祈るしかなかった。それに、それよりも僕の目下の心配事は目前にあった。

夏のことだった。僕は夕食用に家から持ってきたおにぎりをカバンから取り出したが、夏は食べようとしなかった。クッキーもゼリーも、夏は何も食べようとせず、小さな声で、大丈夫、と言って横たわってしまったままだった。保健室に行こうと僕は言ったが、夏は首を横に振って、大丈夫、とまた言った。しかしどう見ても彼女の顔色は「大丈夫」には程遠かった。僕は意を決した。彼女の両腕を手に取り、「保健室に行こう」ともう一度言った。「大丈夫なら立てるだろ」

夏がまた首を横に振ったので、彼女が上半身を少し起こした隙に、腕をそのまま引っ張り上げ、無理やり立ちあがらせてから背負った。夏は抗議の声を上げ、僕は少し――いやかなり――よろめいたが、とにかく彼女を背負うことに成功した。夏の両腕が僕の胸の前で交差され、髪の毛の先端が耳に突き刺さった。僕は人をかき分け、教室の入口のドアを傍にいた人に開けてもらい、ゆっくりと歩いて保健室に向かった。

下り階段の前までやってきたとき、これをどうやって攻略したものかと逡巡すると、夏が「歩けるから大丈夫」と言って僕の背から降りた。僕は彼女の肩を抱えて、二人でゆっくり階段を下りた。

「ねえ裕司」と夏が言った。「間違ってたら、教えてほしいんだけど、訊きたいことがあるんだ」

何だよ、と僕は応じた。

「あの人、生きてたんじゃないかな?」

「あの人って、誰のことだ?」

「名前が分からないあの人のことだよ。あの、神社で首をつってた、人」

「死んだ人間が生きてるわけないだろ」

「だから、死んでなかったんじゃないかな」

僕は首を横に振った。わざわざ思い出そうとするまでもない。さすがにあの日の直後ほどの衝撃は去ったが、まだ彼の死に顔は僕の記憶の中に鮮明に残っていた。あれほど完璧な死に顔を僕は見たことが無い。眠りでも気絶でもなく、一〇〇パーセントの死が刻まれた顔だ。あれが死でなかったらいったい何が死なのか、僕には全く分からない。

「あの人が生きてることは、俺たちが死んでることよりあり得ない」

僕がそう言うと、夏は、そうだよね、と言った。「変なこと言ってごめん」

僕は首を横に振った。僕は、また夏の持病が出た、と思っただけだった。彼女にはいつも、僕たちに見えないものが見えた。それは彼女の才能そのものでもあった。彼女はそれを絵に描き、風景と僕たちの間にある感覚的なもの、予兆のようなものを視覚的に表現した。彼女の描く絵は普通の人間の描く絵とは違っていた。夏が描く絵は、人が目を閉じていたり、夢を見ていたりする時に見る光景に近かった。足元は揺らいでいて、事物は地球上では物理的に存在しえないバランスと形態で描かれる。彼女は技術的に高度で、視覚的にスクエアな絵を描くこともできる。だが近頃はそうした絵を描くことはめっきり少なくなっていた。夏にとって重要なのは、自分に正直であることだった。たとえ他人から見れば幻想であっても、自分にとって正直なら、それは真実になる。それは芸術の基本的な原則で、彼女はその原則を忠実に守っていた。

絵に描けば、思ったことはその場限り本当になる。だから僕は言った。

「いいけど、それを絵に描くなよ」

夏は頷いた。

「もう一つ聞きたいんだけど」

「何だ?」

「日光仮面はあの人に会ってから別の人間に変わっちゃったんじゃないのかな?」

夏はそう言った。

その問いは唐突過ぎて、僕には意味が分からなかった。

意味が分からないのに、心臓が凍りつくような感覚がした。

「どういう意味だ?」

「私たちの代わりに日光仮面があの人のところに行った時、日光仮面は別の人になったんじゃないのかな。あの人が、呪われた鏡を見た時に別の人間になったみたいに」

「日光仮面は日光仮面だろ。今日会ったじゃないか。前と何も変わらなかった。そうだろ?」

夏は頷いた、「そうだよね」

「それに、呪われた鏡なんて無い。現実の話をするときに、架空の物を現実の物みたいに言うな。だとしたら、俺たちだってあの時別の人間に変わってるはずじゃないか」

夏は再び頷いて、分かった、と言った。

保健室にたどり着くと、体調を崩した人々が何人かいて列を成していた。即席の診療所となったそこで、僕と夏は廊下に置かれたパイプ椅子に腰かけた。彼女はすぐに目を瞑り、僕の肩に頭を預けた。

 

 

 

夏には熱やのどの痛みといった風邪の兆候はなく、訴えるのは頭痛と行き場のない気持ちの悪さだけだった。特に対処のしようもなく、保険医から頭痛薬と胃薬を処方されると、僕たちは再び教室へと戻った。教室の中は、明かりの量が減らされて薄暗くなっていた。左手首のカシオの防水腕時計を見ると、既に午後8時だった。

水筒の麦茶を器に注いで夏に渡すと、彼女は眉間にしわを寄せてお茶とともに薬を飲み込んだ。夏は再び寝袋の上に横たわり、僕の上着を布団代わりにした。

僕は再びラジオのスイッチを入れ、ぼそぼそとニュースを囁くスピーカーを耳元に近付けた。極めて大型の低気圧により本州太平洋側の広い範囲で大雨が続いております。雨量の激しい地域では一時間に一〇〇ミリを超える非常に激しい雨となっており、気象庁では引き続き厳重な警戒を呼び掛けております。

数時間前と全く変わり映えのしないニュースだった。だが、アナウンサーは次の一言で遂に僕の気を引きつけることに成功した。それは真中市についてのニュースだった。

「この大雨により、市の中心を流れる日光川の水位が上昇し、夕方ごろから危険水位となっておりましたが、先ほど入った情報によりますと、増水した川が堤防の一部の個所を乗り越えたとのことです。この大雨により川の水位が上昇し、堤防の一部の個所を乗り越えたものと推測されるとのことです。今後詳しい情報が入り次第お伝えします。繰り返しお伝えいたします。先ほど入った情報によりますと、市の中心を流れる日光川の堤防が大雨により……」

僕はラジオのスピーカーを耳もとから離し、ボリュームをぎりぎりまで落とした。教室の中は雨と風の音だけが響いていて、僕以外にはまだ誰もこのニュースを聞いている風には見えなかった。

僕は立ち上がり、窓際に立って外の景色を眺めた。雨ですべてがぐしゃぐしゃになった視界の向こう、暗闇の中で目を凝らすと、水浸しになった地面が見えた。まるで街全体が巨大な川と化したかのようなその光景が、現実の忠実な反映なのか、僕の想像力による補完でそう見えているだけなのか、僕には判別できなかった。

そのため僕は自分にこう言い聞かせることになった。

嘘でも幻想でもなく、俺の目にはっきり見えていないだけで、いま本当に、この街は水没しかけているんだ。それが本当のことだから、俺はきちんと理解しなくてはならないんだ。明日の朝になれば、雨は止むだろう。永遠に降り続く雨など無い。でもその時、全ての光景は昨日までとまるで変わっている。俺の家もきっと水に覆われて浸水してしまっているはずだ。生活は、それがどれくらいの期間かは分からないが、以前とはまるで変わってしまう。これは俺の今までの人生で最も大きな災害だ。でも何より大切なことは、俺たちは、運よく、正しい判断の結果、安全な場所に避難できたということだ。たとえ街全体が川に沈んでも、いくらなんでも学校の三階まで水が訪れることはない。ここにいれば安全だ。それは間違いない。それでも、油断してはいけない。俺はこれからの夜、絶対に気を抜いてはいけない。俺は今日眠らないで見張り番をしていなくてはならない。何が起こるかは誰にも分からないのだから、いつ何が起こっても大丈夫なように、ずっと起きていなくてはならない、と。

僕は寝袋に腰を下ろした。そして目を閉じて横たわる夏の顔を見下ろした。薄暗闇の中で、彼女は静かに眠りに就いている。僕は片膝を両手で抱え、彼女の寝顔と窓の外を交互に眺めた。

やがて、ざわめきが教室の中を覆い始めた。誰かがラジオを聴き、日光川の一部が決壊したというニュースが人々の間に伝播し始めたのだった。再び教室に全ての明かりが灯り、皆ラジオの音に耳をそばだてている。しかし、アナウンサーが読み上げるセリフはさっきまでと全く変わっていない。詳しい情報が入り次第お伝えしてまいります。不安と緊張と、八つ当たり気味の抗議の声が部屋の中を包み込み、眠っていた子供たちが目を覚ました。テレビがある職員室を目指して何人かが部屋を出ていく。誰もが一様に不安そうな表情だった。そして奇妙な興奮状態が、目に見えない粒子となって空気に満ち、人々に感染していく。皆、自分の家や、生活や、この街のことについて声高に意見を交わし合い出した。それらの声の行き着くところは、たった一つの答えのない問いだった。

「この雨はいつ止むんだ?」

不安で興奮しているのは僕も同じだった。頭の中では、冷静になるように、という理性の声が大勢を占めていたが、それを侵食するように、血液や細胞から非日常の呼び声が高まり、それは僕の精神の隙間をちくちくと刺すのだった。

何故あの時、健一と一緒に行動しなかった? 彼は今、本当に無事なのだろうか? そして、父さんと母さんは今どこにいるのだろうか?

僕はそんなことを今考えても無駄だと自分に言い聞かせた。無言で、奥歯を軽くかみしめ、膝を抱えたまま動かなかった。

教室の中に男が駆け込んできた。一階の職員室までテレビを見に行ったうちの一人だった。彼は言った。

「一階は水浸しだ。もう完全に浸水してるぞ」

その声を合図に、誰もが入れ替わりに一階まで階段を下りて行き、下足ロッカーの前まで水位が達しているのを確認した。僕も立ち上がって階段を下り、それを見た。頭では、見なくても分かっているのだから見る必要はないと思っても、実際に確認する必要があった。イメージと実際は、今夜だけは互いに限りなく近い場所にいる必要があったからだ。僕は階段を下りる途中で靴下を脱いで裸足になり、濡れた廊下に足を踏み出した。

教室に駆け込んできた男が報告した通り、水は既に廊下まで達していた。校内に通じるすべての扉は閉ざされているというのに、どこか隙間からこんこんと水は漏れ続けたのだ。それはまだ薄い膜のような微かな浸水だったが、廊下の一段下の下足ロッカーが立ち並ぶあたりでは、その足元で深い泥水がうねり、刻々と勢力を増していくさまが見て取れた。生徒たちが靴を脱ぎ履きする簀(すのこ)はすでに引き揚げられ、廊下の脇に並べて立てかけられていたが、置きっぱなしであったら今頃は、泥水の中に浮いて漂っていただろう。

僕はその様子を確かめるとすぐに教室に引き上げることにした。下足ロッカー前には多くの人が集まって騒然とし、大人たちが排水のために人手を集め始めたからだった。道具が必要だ、と誰かが言った。水を捨てて、浸水を防ごう。バケツや土嚢がどこかに無いか。教師たちが首をかしげ、用具室を探しましょうと言った。前者はともかく、後者が都合よく校内に大量に準備されているとは思えなかった。今日までは、誰もこんな大雨が降ることなど想像していなかったはずだ。

僕は、自分もこの排水の作業を手伝うべきかどうか迷った。だが結局は教室に戻った。既に十分すぎるほどの数の大人が揃っていたし、何より本当に重要な仕事ではないと思ったからだ。這入ってきた水はネズミのようなものだ。ネズミは家の中の食物を食い荒らすかもしれないが、家を倒すことはできない。水をかき出したところで、それは別の場所に水を移し替えるだけで、この街を包む水の量が減るわけでも今すぐ雨が止むわけでもない。今僕たちがいるこの根城から一滴残らず水を排除しようとするのは、僕には現実を拒否する行為のように思えた。たかが足元が濡れるくらいどうってことはない。ネズミの一匹や二匹どうということはない。普段の生活なら、それは追い払わなくてはならない存在かもしれない。でもどう見ても、今はもう「普段」ではない。雨は既に降っているし、どう足掻いてもこの街全体がそれに覆われている。重要なのは僕たちが立てこもる二階や三階に水がやって来ないことで、そこまで雨が降ることはあり得ない。あり得ないはずだ。もしそうなるのであれば、今何度水を止めても意味がない。水は扉を突き破り窓を割って、僕たちのところにやってくるだろう。

僕は教室に戻り、横たわる夏の隣に再び腰を下ろした。彼女の眉間に寄ったしわが、さっきまでより深くなったのか浅くなったのか僕には分からなかった。

 

 

 

僕は缶詰に入ったクッキーをネズミよりも遥かにゆっくり、少しずつ齧りながら、日光仮面の日記を読んでいた。それは単純で完全な時間潰しだった。そこには日光仮面が来る日も来る日もサタンの爪を追い求めて真中市じゅうを走りまわる珍道中が記録されているのみで、この街の日常そのものの写し絵だった。驚愕すべき新たな事実はどこにもなかった。サタンの爪はどこにもおらず、危険は兆しさえ見えなかった。彼が何故わざわざ大雨の中、僕の家を訪れてこれを託したのか、その理由はノートのどこにも未だ見つからないままだった。

日光仮面は今どこにいるのだろうか? 彼の愛車ドリーム号は、この大雨の中、濁流をかき分けて進むことができるのだろうか。それとも上も下もない川と化した道を彼は単身泳ぎ続けているだろうか。彼の敵はどこにいるのだろうか。彼の敵はなんなのだろうか。それはそもそも人なのだろうか。彼とのこれまでの会話で伝わってきた「サタンの爪」のイメージを僕の中で斟酌するに、それは「誰か」ではないように思えた。少なくとも日光仮面自身よりは遥かに大きな存在だ。とてつもなく巨大な悪の組織が真中市を支配しようとたくらんでいるという発想は、もちろん馬鹿げている。この街には、悪の親玉がわざわざ支配しなくてはならないようなものなど何もない。貴重な資源も、重要な機関も、優れた人材も、僕の三人の友達を除いては、何一つない。侵略し、破壊すべき街は、真中市以外であればこの国のどこにでも存在する。決してこの街では無い。僕が思い描くサタンの爪は、人でもモノでもなく、悪意の総体のようなイメージだ。それは人と人との間にあり、僕らをそそのかし、陥れ、他人を傷つける、漠然とした空気や精神の塊のようなものだ。それはどこにでもいるが、どこにもいない。しかし、誰がそんなものを正確に捉えることができるだろう。

そんなことを考えるのは、興味があってそうするのでは無かった。見知らぬ世界の他人事に思いを馳せることが、今夜眠らないと決めた僕にとって最良の夜明けまでの時間稼ぎであったというだけだった。

日記の中で、日光仮面は時折、真中市に住むあの人たちとコンタクトを取ろうとしていた。あの、大量の空き缶を背負った男や、公園でエイリアンを待つ老人や、軒先で怪しげな鍋を一日中かき回している中年女や、日光川の上流で河童を見たという男や、セーラー服を纏った中年男といった、おなじみの錚々たる顔ぶれだ。もちろん目的は、打倒サタンの爪のため、団結して挑むことを企図してだろう。日光仮面は、異常なものに対しては異常な者たちで徒党を成して立ち向かうべきだと考えていたのに違いなかった。だが、果たしてその挑戦はその都度失敗に終わっていた。誰ひとり、日光仮面の高邁な理想と危機意識を共有することはできなかった。日光仮面は残念がったが、僕からすれば、止むを得ない結末と言えた。彼らはそれぞれに孤立し、互いの世界を共有するには各々のビジョンが強固に過ぎたのだ。やがて日光仮面もそのことに気がつき、彼は一人で戦う決心を新たにするのだった。

今も日光仮面はきっと、一人だろう。一人でこの街を泳いでいるだろう。彼がどこに向かっているのか、彼以外には誰にも分からない。

僕は傍らに置かれたラジオの音に耳を澄ました。そこから聞こえる知らせでは、雨の勢いはどうやら、少しずつではあるが、弱まりつつあるようだった。未明には雨は次第に収まる見込みである、とアナウンサーは告げた。しかし、日光川にはまだ誰も近付けないため、決壊した堤防と川の様子が実際のところどうなっているのかは、続報はないままだった。

心なしか、実際に窓をたたく雨の音も遠ざかった気がした。腕時計を見ると、間もなく深夜12時を迎えようとするところだった。雨が少しずつ弱まりつつあるというニュースは、静かに、そして一瞬のうちに伝わって我々全員の共通認識となった。それは緊張が解けて安堵が広がるのとほとんど同じ意味だった。大人たちが交代で見張りに立つことになり、再び教室の明かりが消された。少しずつ、僕を包囲するように、周囲の人々は横たわり、眠りに落ちて行った。だが僕はまんじりともせず、暗闇の中で目を見開いていた。まだ朝までは折り返し地点に来たのに過ぎない、と僕は自分に言い聞かせた。雨は少し弱まったかもしれないが、まだ何一つ終わっていない。僕たちは誰ひとり、自分たちの家がどうなったかすら知らないのだ。

僕は頭の中で日光仮面のことを考え続けた。脳みそを回転させ続け、眠気を遠ざけることさえできれば考えることは何でもよかった。彼のイメージは、さっきまでの読書によってだいぶ僕の意識に定着していたため、引き続きそれを推し進めるのが最も楽な行為だったのだ。

そして僕の頭の中にやってきたのは、過去の記憶だった。日光仮面が宣言した通り、僕が彼に会うことはもう二度と無いのかもしれない。そうだとしたら、僕は訊き忘れたことがあった。訊いても答えなかったとは思うが、どうしても一つだけ訊くべきことがあった、と僕は思った。

あの小学生の夏の日に、日光仮面が片付けた男の死体についてだ。彼はどうやって全ての始末をつけたのか。あの死体は今どこにあるのか。僕たちは――少なくとも僕は――あの薄汚れた、あらゆる場所から切り離された孤独で小さな神社には、結局あれから一度も訪れていない。そこに至る道は消えていた。本当にあそこにはもう死体はないのだろうか。それはいまだに骨と皮だけになって、あの鳥居にぶら下がって雨に打たれてはいないのだろうか? そうではないと、日光仮面がいなくなってしまえば、もはや誰に言いきれるだろう?

日光仮面が僕たちに勧めていたのは、全てを忘れることだった。忘れるということは考えるのを止めるのと同じことだ。そうすることが正しいのかもしれないとも僕は思った。あの男は死んだし、僕たちは逃げだした。いまさら考えたところで取り返せるものは何もない。死んだ者は死んだ者だし、逃げた者は逃げた者だ。だが僕は今、どうしてもその死体の行方が気になった。これまでの3年間、時々僕の脳裏をよぎることはあっても、すぐに通り過ぎて別の物事の陰に隠れて行ったあの死が、今ほどちくちくと飲み込み切れずに僕の胸の中に留まり続けたことはなかった。何故なのか、その理由は分かっている。さっき夏が言った言葉が針となって消えないのだ。

〈あの人、生きてたんじゃないかな?〉

あり得ない、と僕は夏に応えた。今もそう思う。論理的には。そして記憶の中にまだ鮮明に残る事実も、僕を支持している。しかし、夏にそう思わせ、今僕にその疑念を生み、揺さぶろうとするものは、論理とも記憶とも事実とも関係が無い。

それは想像力だ。何も無いところから一を生み出し、一を百にも千にもするあの力だ。想像力がある限り、記憶は無効化され、幻想は事実を容易く凌駕する。想像力は闇の中で広がる。目に映る影と形が薄まれば薄まるほど、それを頭の中で補完するために、その力は勢力を増す。今日は僕も夏も、この街の誰一人として体験したことの無いとびきりの闇が街全体を覆っている。頭の中で死んだ者が蘇るにはうってつけの日なのだ。

だから僕は日光仮面にあの男の死体の始末をどのようにつけたのか、確認するべきだった。是も非も無い、想像力が入りこむ余地のない圧倒的な事実が把握できていれば、どんな真っ暗闇でも迷うことは無い。無意味な想像、あり得ない空想の出番はどこにもない。

でも今の僕にはその事実が無い。僕にはもちろん分かっている、例え日光仮面が死体を処理した段取りを克明に僕に知らせてくれていたとしても、そんなものは何の保証にもならない。それはどれだけ克明な記録であっても、この目で見たものではなく、自分の身に刻まれた事実ではないのだ。それでもいいから僕は今日光仮面から、その言葉が聞きたかった。死体は確かに埋めた。全ては誰の目にも触れないように完璧に片付けた、と。何故なら、そうでなければ、あの時「死体を私たちで埋めよう」と言った夏が正しかったことになるからだ。あの夏の言葉と意志は、あの男が今も生きているかもしれないと感じる現在の彼女の想像力に直結している。

僕は眼を見開き、軽く頭を横に振った。頬を両手でぴしゃぴしゃと叩き、やはり止めよう、と思った。考えるのをやめろ。誠二の言った通り、今考えても仕方がない。今は何も考えずに、無事に夜が明けるのを待てばいい、そう思ったが、なかなか上手くいかなかった。僕には何が「無事」なのか分からない。僕の家は今どうなっているのか分からないし、両親の居場所も分からないし、健一もいない、日光仮面はどこかで誰とも分からない誰かと戦っている。そして、僕たちのあの秘密基地は既に砕け散って跡形も残っていない。僕と夏と誠二の体以外には、僕の大切なものの何が無事に残っているのか今は全く分からないでいるのに、のんびり待っていればいい根拠などどこにあるのだろう?

僕は頭を激しく振って、立ち上がった。そして夏が眠っているのを確認して、教室の外へ出た。廊下は明かりが点いている。僕はどうしてもその光の方へ近づき、暗闇から離れたかった。暗くて無意味で非建設的な妄想から離れ、別の何かをしたかった。

廊下は部分的に明りが灯され、まるで真中市の南北を走る幹線道路の脇に点々と立つオレンジ色の街灯のように、視界をぼんやりと照らしていた。人いきれから解放されたそこには風通しがあり、僕の体の熱を冷ましていく。風のやって来る向こう、廊下の先は暗闇が広がり、あたりはまるで下水道のような雰囲気だった。教室からあふれた何人かの人が毛布を敷いて眠っているから、野戦病院のようなムードでもある。僕は窓枠に手をついて、そこに映る自分の顔を眺めた。弱々しい光に照らされたガラスの中には色彩がほとんど存在しなかったが、それでも自分が血色の好い顔をしていないことだけは分かった。

僕は歩きだし、校内を散策し始めた。特に当てはなく、単に、じっとしていると廊下の奥に広がる暗闇に意識が引っ張られ、結局また重苦しい不安が頭の中を支配してしまいそうだったからだ。風と雨の音に混じって、遠くから大人たちの雑談する声が聞こえ、落ち着きのないざわめきがどこまで歩いても続いている。具体的な意味をなす言葉や、立って歩いている人間の姿はどこにもない。ほとんどの人が教室や体育館で静かに眠っているか、一階で漏水に備えて交代で見張りに立っていた。

だから、四階の廊下を歩いていた時、誰かがさっきの僕と同じ格好で、窓枠に両手を置いて外を眺めているのにはすぐ気が付いた。そこには僕たちの他に起きている者は誰もいなかった。ここに避難してきてから自分と同年代の顔見知りにはほとんど会わないでいたから、彼が同級生だということもすぐに分かった。僕は廊下で寝ている人の体を踏んでしまわないように気をつけながら、彼に近づいて行った。

だが、僕が彼の名前を思い出したのは、彼の目の前まで近づいて、彼が僕の方に振り向いた後だった。知り合いに出会えたという安堵だけが僕の背中を押し、頭の中では何も考えていなかった。彼の前で足を止めたのとほとんど同時に、僕は後悔した。なぜなら彼は、ある日以来、僕が語る言葉を持たない相手だったからだ。

彼が暗く沈んだ目つきで僕の方を見たとき、彼の名前が横山一紀だと思い出した。記憶が一瞬の内に蘇り、現実の目の前の彼に重なった。僕は横山とはあまり話をしたことがなかった。だが他の同級生たちと同じように、彼のことを知っていた。彼の父親は一年近く前に亡くなったということを。

そして日光仮面が彼の父親を殺したかもしれないということを。

僕は自分の表情が硬直するのを自覚した。頭の中から言葉がフェードアウトし、目に映る画面に横山の姿がコメントもなくクローズアップで映し出されていた。彼の顔は疲れきっていて、学生服の白シャツはぐしゃぐしゃに汚れていて、目に見えない何かが肩に重くのしかかっているかのように気だるげだった。窓枠に置かれた手の支えがなければ、今にもその場に崩れ落ちてしまいそうだった。

彼は細い目で僕の顔を見て、「中原?」と訊いた。

僕は頷いた。二、三度頷いた。

「横山だよな?」

僕がそう聞き返すと、彼は頷いた。

何かを喋らなければならなかった。

「一人?」

横山は頷いた、「避難してきた」

「家族は?」

僕がそう訊くと、横山は首を横に振った。そして暗い顔がより一層の暗く沈んだムードに覆われた。

僕は頭の中で舌打ちをした。俺は馬鹿じゃないだろうか。横山に向かって「家族」の話をするなんて馬鹿な事があるか?

僕は唇を舐めながら、横山の顔をのぞき見た。彼は俯きがちで僕と視線を合わせようとせず、ちらちらと窓の外を眺めている。こんなに暗い顔をした奴だったろうか、と僕は思った。確かに彼は以前から目立たない生徒だった。何の特徴もない、容姿においても能力においても秀でたところの何もない、どこにでもいる存在感のない一人の少年だった。特徴の無さについては定評のある僕が思うところなのだから間違いはない。だが、今の彼が僕たちと同じ教室にいれば、注目を集めずにはいられないだろう。彼の目つきと佇まいは、ついさっき地獄を通り抜けてきたか、今その真っ只中にいるかのどちらかであるかのような憂鬱でどす黒い雰囲気をまとっていた。理由は全く分からなかったが、それは全く日常的なものではなかった。

僕はすぐに話を切り上げて、この場を去ることにしようと思った。お互いに、話すことなど何もないはずだったし、横山の体から発せられているのは、あらゆるものに対する明確なネガティブのオーラだった。僕は今、せめてこの夜の闇よりは明るいものの傍にいたかった。

俺も一人なんだ、お互い大変だけど気を付けて、そう言って立ち去ろうと思った時、僕の言葉が始まるか始まらないかの内に、横山が遮った。

「中原、今ちょっと話せないかな」

ぼそぼそとした、雨音に踏みつけられて消えてしまいそうな声だった。

だがはっきりと聞こえた。僕の眉間に自然としわが寄り、首が傾げられた。

「話?」と僕は訊いた。

「大事な話なんだ」と横山は言い、周囲を見回した、「ここじゃ話せない」

廊下には、何人か毛布にくるまって眠っている人たちがいた。だが彼らと僕たちには隔たりがあり、横山の小さな声が彼らを起こすとは思えない。

「別にここで話せばいいんじゃないか?」

「ここじゃ話せない」と横山はもう一度言って、首を横に振った。

嫌な予感がした。僕はその話を聞くべきではないと思った。それは全くの非論理的な直感だったが、明確な拒絶反応だった。彼は既に僕から目をそらすのをやめ、その暗い目で僕を上目づかいに見つめていた。僕は横山と僕の間にこれまで存在した会話を思い出した。一年半前に中学校に入学して以来、朝、おはようと何度か声をかわしたのと、理科の実験のときに、そのシリンダーを渡してくれ、と言ったことくらいしかない。要は無関係の間柄なのだ。

「頼む。中原にしか話せない」

「なんで俺にしか話せないんだ?」

「日光仮面の話だから」

横山はそう言った。

「日光仮面?」

「中原、日光仮面と知り合いだろ? だから、ここじゃ話せない」

横山は踵を返し、ゆっくりと歩き出した。僕が彼の背中が廊下の向こうの暗闇に遠ざかっていくのを突っ立って見つめていると、暗闇と光の中間で彼は立ち止り、僕に手招きした。その姿はまるで幽霊のようだった。

迷った末に、僕は横山のもとへ向かった。今ここで彼を無視して立ち去れば、幽霊のような彼の姿が脳裏にまとわりつき、この夜じゅう僕を蝕むような気がしたからだ。

誰もいない階段の目の前で横山は立ち止った。曲がり角の向こう側、廊下を照らす明りが反射して、かすかに光は届いているが、そこはほとんど真っ暗闇に近かった。僕たちは向かい合った。

「日光仮面から聞いたんだろ?」

横山は僕にそう訊いた。彼の表情はほとんど見えなかったが、さっきより明るくなっていないことだけは想像がついた。

僕は返事をしなかった。

「中原、日光仮面から聞いたんだろ?」

「話があるって言ったのお前だろ。お前の話をしろよ」

僕がそう言うと、横山は微笑んだ。微笑んだように見えた。

「日光仮面は俺の親父を殺したんだ。中原が知ってる通り。それが本当だってことを伝えたかったんだ」

「嘘だ」と僕は反射的に言った。

「嘘じゃない。本当だ。誰も俺に本当のことを聞かないから、本当のことを知ってるやつに、それが本当だって言いたかったんだ。そして、どうして中原が今まで何も言わなかったのか聞きたかったんだ、俺や、日光仮面のことについて、警察とか教師とか、誰にも」

僕は首を横に振った。

「知らなかったから言うことなんかできない」

「なんで誰にも言わなかったんだ」

横山が再び訊き、僕はもう一度首を横に振った。

「知らないって言ってるだろ」

「中原、お前いいやつだな。それとも嫌なやつなのかな」

僕はまた首を横に振った。

その時、目の前の横山の体の形がゆがんだ。実際には、彼は深くうつむいて腕で自分の体を抱き、身をよじらせるという動きを取っただけだったのだが、暗闇の中では彼の体が変形したように見えた。彼は体を震わせ、真冬の外に吹く風のような息を漏らした。

横山は泣いていた。奇妙で、激しい泣き声だった。ボリュームは小さいのだが、極低音で腹に響く嗚咽だった。僕は唖然としてその様子を見降ろした。横山には悪いと思ったが、それは生理的な恐怖を覚えさせる不気味な泣き声と姿だった。

彼は大きく息を吸って、吐き出した。必死になって呼吸を整える彼を見て、僕は、大丈夫か、と声をかけざるを得なかった。大、丈夫だ、と彼はとぎれとぎれに言い、何度も深呼吸した。

「もう一つ、だけ、言いたいことが、あるんだけど、言っていいか?」

もう何も言うな、と僕は思った。

「俺、母さんを殺したんだ、今日」

横山は小さくかすれた声でそう言った。その声はすぐに、どこからか吹きつける微かな風の中に溶けて消えていった。

僕は横山の目を見ようとしたが、暗闇の中でそれがどこにあるか分からなかった。

「階段から突き落としたんだ。頭から血を流して、しばらくしたら死んでしまった。俺は母さんの死体を置いて家を出てきた。俺の家は日光川のすぐ傍にある。この雨できっと水没してしまう。母さんの体は水の中に浸かって、後から誰かが見つけても、きっと殺されたのか事故で死んだのかなんて、誰にも分からないと思う。誰にも本当のことは分からないんだ」

僕は首を横に振った。やめろ、と僕は思った。

「俺には分からないんだよ。本当に母さんは死んだのかな。俺が殺したのかな。分からないのは俺だけなのかな? 俺だけが、この世で起きるどんな物事にも現実感がないのかな。誰も俺にそれを教えてくれないんだ。親父も、母さんも、日光仮面も、他の誰も、現実感がないんだ。なんでみんなには分かるのに俺には分からないのかな。なんでこんなことになったのか俺には分からないんだ。分からないのが怖いんだ。殺したのが怖いんじゃない。分からないのに分かるふりをしてるのも怖いんだ。俺は本当に母さんを殺したのかな? 俺は本当に日光仮面に親父を殺してくれって頼んだのかな? 中原、どう思う?」

僕は首を横に振った。

「雨はただの雨だ。でも俺はこう思うんだ。この街と、ここに住む俺たちは、みんな大事なことを隠していて、知ってるふりと知らないふりを繰り返しているんだって。正気な振りと狂った振りを繰り返しているんだって。この雨はきっとそういうのを全部押しつぶしちまう。もう限界だよ。みんなで嘘を突き通すなんて無理なんだよ。俺にはもう無理なんだよ」

横山はそう言うと、再び体をくの字に曲げ、今度こそその場にくず折れた。その泣き声は、雨の音にかき消されて最早全く聞こえなかった。

僕には横山が何を言っているのかほとんど分からなかった。分かったのは彼の狂気だけだった。

そして同時に、奇妙な感覚が僕をとらえていた。彼が何を言っているのか全く分からないというのに、僕も長いこと横山と全く同じことを感じていたような気がした。そしてそう自覚した瞬間、僕は一段と強く首を横に振った。

横山は泣き続けている。だが僕は彼に声をかけることはできなかった。彼に掛けられる言葉がもし僕の中にあったとしても、それを口にするわけにはいかなかった。もう彼の傍にいたくはなかった。彼は今日という夜の闇をその一身に引き受けているように僕には感じられ、それを是が非でも遠ざけなくてはならないと思った。

僕はゆっくりと後ずさり、彼から離れた。踵を返して、振り返りながらじりじりと歩き、彼の姿が曲がり角の向こうの暗闇の中に消えてしまうと、僕は深く息をついた。

そして胸に手を当てた。全力疾走した後のように、心臓がばくばくと脈打っている。僕は何度も深呼吸したが、それは全く収まる気配がなかった。それどころか、刻一刻と、耳の奥で血の流れる音が聞こえるほど、拍動のリズムと音量は激しくなっていく。周囲の壁や天井が、学級新聞や子供たちの水彩画が貼られたコルクボードが、僕に向かって押し寄せ倒れ掛かって来るような感覚が僕をとらえて離さなかった。何度も瞬きし、息を限界まで深く吸い込んで、それは幻想だ、と自分に言い聞かせた。何もかも幻想だ。本当のことは、ただ、今外では激しい雨が降っていて、ここは僕が昔通っていた小学校で、僕たちはそこで夜を明かしている、それだけだ。それ以外には何もない。

僕の足は自然と、僕たちの荷物が置かれ、夏が眠っている、あの元いた教室に向かっていた。結局僕はあそこでじっと夜を明かすしかないのだと思った。体はへとへとに疲れ、脳は熱を発していたから、今あの場所で座り込んだら僕はすぐに眠りに落ちてしまうかもしれないと思ったが、行く場所などどこにもないのだから仕方なかった。教室の扉の前に立つと、僕はゆっくりと戸を引き、体を半身にしてその中に体を滑り込ませた。教室の中にいる誰もが眠りに落ちていたので、横たわる人の足や頭を避け、静かにおそるおそる歩いて行った。

だが、僕は自分たちが陣取っていた場所をすぐに見つけることができなかった。一段と濃度を増した暗闇の中で視界が見通せなかったからだったが、それ以前に、あるはずのものの姿がどこにもなかったからだった。

夏の姿がどこにも見えなかった。眠っているはずの彼女がどこにもいない。僕はやがて、教室の中央後方、ぽっかりと不自然に誰もいない空間、空っぽの寝袋だけが敷かれた場所を見つけた。確かにそれは僕が家から持ち込んだ寝袋で、隣に置かれたリュックや水筒やラジオは、僕のものだった。

僕はそこに腰を下ろし、水筒のふたを開けて、麦茶をごくごくと飲んだ。夏は眼を覚まして、トイレにでも行ったのだろうと僕は思った。よかった、と僕は考えた。彼女はここにやって来てから合計でもう7、8時間は眠ったのだから、もうこれ以上眠る必要はないだろう。朝まで起きていられるに違いない。僕は夏と二人で話をして夜を明かすことができる。この夜を、もうこれ以上、一人で過ごすことには耐えられそうにない、そう僕は思った。

僕は夏が戻って来るのを待った。

5分待っても、10分待っても彼女は戻ってこなかった。真っ暗い教室の真ん中、誰もが眠りに落ちた部屋の真ん中で、僕だけが目を覚ましていた。

僕は水筒のカップに、麦茶をなみなみと注いだ。そして一気に飲み干し、ふたたび注いだ。最後の一滴が水筒の口から滴り落ちた後も、僕は水筒を垂直に逆さにして振った。僕は震える手で水筒のカップを握りしめた。口の端からお茶がこぼれ、僕の胸を伝って落ちて行った。額にぽつぽつと汗が浮かびあがり、僕は微動だにしない教室の扉をじっと睨みつけていた。

大丈夫だ、と僕は自分に言い聞かせた。もうあと5分待てば、あの戸はゆっくりと横にスライドして、その向こうから夏が現れる。そして僕たちは話し合う。日光仮面について、家族について、秘密基地について。5分経ったが彼女は現れない。10分の間違いだった、と僕は思う。10分経てば彼女は必ず戻って来る。大丈夫だ、と僕は夏に言う。みんな無事だ。誠二だって無事だった。健一も、僕たちの家族も、全員無事だ。そして10分が経った。戸は壁のように硬直したまま動かない。雨の音だけが聞こえる。凄まじい勢いだ。今日この夜の中でも最も激しい、全てを破壊するような音だ。だが、雨は弱まったはずだ。さっき確かにニュースでもそう言っていた。さっき実際に、雨音は僕たちがかつて聞きなれた、日常に近い音に変わっていた。じゃあこの鼓膜を突き破るような轟音は何なんだ? どうしてこんな轟音の中でみんな平気に眠っていられるんだ?

そして僕は想像した。こなごなに砕け散って、濁流の中に吸い込まれていく、あの秘密基地の姿を。まぶたの裏で、克明に、ゆっくりと崩れ落ちる。最初に屋根が吹き飛び、壁が倒れ、周囲の敷石が押し流され、僕たちが持ち込んだ「武器」とかボールとか様々な全ての遊び道具が泥の中にうずもれていく。その全てがどす黒く変色して、ばらばらになる。僕たち四人はもう二度と、そこに座り込み、空を見上げることはできない。目を開くと、そこには何もない。目を閉じても、もう何の跡形もない。

僕は右手を口元に押し当て、叫びだすのを必死にこらえた。あの三年前の夏、僕は人生で最も恐ろしい体験をして、これ以上に恐ろしい思いをすることはきっと二度とないと思った。だが今僕を取り囲み、体中を満たす感覚は、その予測が間違っていたのだと僕に告げていた。今僕に突き刺さる恐怖は、あの時とは質も量も全く違う。怖い、と僕は思った。怖くて怖くてたまらなかった。雨も、その轟音も、すべてが寝静まっているこの場所も、時が止まってしまったかのようなこの光景も、夏がいなくなってしまったことも。

ごめん、と僕は口を押さえつける指の隙間で呟いた。

そして僕は立ち上がった。吐き気をこらえ、崩れ落ちそうになる膝をかばって、這い出るように教室の外へ出た。途中で誰かの体を蹴飛ばしてしまったかもしれなかったが、振り返る余裕もなく、その感触も体に残らなかった。

夏、と僕は声に出したが、かすれていてほとんど音にならなかった。夏がいない。僕は、午前1時を示す腕時計と、廊下の向こうの暗闇と、背後の教室とを何度も見比べた。

夏がいない。どこかへ消えてしまった。

僕は廊下を走りだした。僕に残っていた理性は、まず僕を保健室に向かって走らせた。彼女は体調が優れないのを自覚して、再び保健室へ行って薬をもらいに行ったか、それともよりよい寝床を求めてベッドを借りているのかもしれない。保健室のある廊下は明りが灯され、大人たちが談笑を続けていた。僕はその人波をかき分けて通り過ぎ、目的地のドアをノックした。

中には、先刻僕たちが頭痛薬を受け取ったのと同じ、白衣の中年女性保険医がいた。彼女は机に肘をついてうつらうつらしていたが、僕が入ってきたのに気付くと目をしばたたかせて振り向いた。

「女の子が来ませんでしたか。僕と同い年の」と僕は尋ねた。そして手を自分の肩の高さに添えて、これくらいの髪の長さで、と付け加えた。

保険医は眼を何度か瞬きさせた後、首を横に振った。「しばらくは誰も来てないわ」

僕はカーテンに囲われたベッドスペースを見やって、そこに寝ていたりしませんか、と重ねて訊いた。

再び保険医は首を横に振った。「ベッドは二床あるけれど、私くらいのおばさんと、おばあさんが寝ているから、違うわ。二人とも、ひどく体調を悪くしていて」

僕は閉ざされたカーテンの前に立ち、中を覗き込んだ。底に眠っているのは確かに老婆で、夏ではなかった。保険医が制止するのも聞かず、もう一方のベッドを覗き込んだが、そちらも彼女の言った通り、眠っているのは眉間にしわを寄せた中年の女だった。

誰を探しているの? と保険医が訊くのを無視して、僕は保健室を出た。

さもなくば夏は電話をかけているのかもしれない、と僕は考えた。両親と連絡を取ろうとして。僕は職員室に向かった。職員室は保健室のすぐ近くにある。僕はほとんど全力疾走しながら職員室の扉を開けた。部屋の中に残っていた教員たちが、一斉に僕の方に振り向いた。僕は部屋の中を右から左に一気に見渡した。

夏の姿はどこにもない。「女の子が来ませんでしたか。僕と同い年の」と僕は再び同じ問いを発した。だが僕を見返すばかりで誰からも反応はない。やがて、近くにいた若い教員が首を横に振って、ここには先生たちしかいないよ、と言った。

僕は振り返って再び走りだした。だが、もうどこにも当てはなかった。教室を一つ一つ覗いて歩き、理科室や音楽室や視聴覚室といった特別教室の扉を片っ端から開けた。だがどこも明りが消され、避難してきた人たちが眠っている。彼女がこの中にいても外から目ではとても分からない。あっという間に息が上がり、僕の額の汗は大粒となって滴り落ちた。

僕は叫びだしたかった。夏、と大声で彼女の名前を呼びたかった。そうすれば誰もが目を覚ますだろうが、そんなことはどうでもいい。僕がそうしなかったのは、僕がここで大声で騒げば騒ぐほど、彼女は見つからないのではないかという、何の論理性もない直感からだった。自分でも、そんな考えは馬鹿げていると思った。僕が馬鹿だったらいい、と僕は思った。きっと何もかも勘違いで、夏はどこか僕の気がつかない場所にいて、すぐに戻って来る、きっと間違いなくそうだ。だから叫んでも大丈夫だ。僕は走り続けていて、次の曲がり角を曲がった瞬間からそうすることにした。

だが、その直前に誰かが僕の腕を強く掴んだ。急に勢いを止められ、僕は転倒しそうになりながら足を踏ん張り、その誰かに振り向いた。「どうした」と彼は言った。

それは誠二だった。彼は僕の肩を支え、僕を見下ろした。裕司、なにかあったのか、という声とともに彼の唇が動くのを僕は見上げた。冷静ないつもの調子の声、そして常に二手三手先を読む落ち着いた眼差しが、僕の両足をその場に縫い付けた。僕の唇の端が震え、眉間にしわが寄った。

目の前にいるのは間違いなく誠二だったが、僕にはまるで夢のように見えた。誠二はその僕の心の動きを読んだかのように、言った。

「俺だよ。誠二だ。お前が廊下を走ってくのが見えたから追いかけてきたんだ。何があった?」

「夏がいない」と僕は言った。「どこに行ったのか分からないんだ」

「さっきのお前たちがいた教室に戻ってこないのか?」

僕は頷いた。

「いついなくなった?」

「俺が、ほんの十五分か二十分、校舎の中を散歩している間に、戻ってみたら、もういなかった」

誠二は唇に手を当てて眉をひそめた。こっちに来い、と彼は言い、僕の腕を引いて歩き出した。廊下の隅で彼は立ち止り、周囲に誰もいないのを確認した。

「どうしていなくなる理由がある? こんな天気で外になんか行けやしないし、あいつ、体調も悪そうだった。裕司、分からないのか?」

「分からない」と僕は言った。本当に全く分からなかった。「すぐに戻ってくると思ったんだけど、いつまで待っても戻らないんだ。保健室にも、職員室にもいなかった」

「お前がいないときに誰かに会ったのかもしれない。お父さんとかお母さんとかが、さっきこっちに着いて、合流したのかもしれない」

「誠二、どうしよう。夏が戻らなかったら。俺の責任だ」

誠二は握りこぶしで軽く僕の胸を突いた。そして僕の耳元で、落ち着け、と言った。

「落ち着け。絶対に見つかるに決まってる。俺に任せろ。俺は今から職員室に行って、校内放送を使わせてもらう。学校中に呼び掛ける。そうすればすぐに見つかる。お前は別の心当たりを探すか、元いた教室に戻ってろ。お前とすれ違ったら今度は夏がお前を心配する。俺も後でそっちに行く。俺に任せろ、大丈夫だ」

僕は頷いて、分かった、と言った。

「裕司、本当のことを言え」、と誠二は言った。「お前、理由が分かってるだろ? 夏がどこに行ったのか、想像がついてるだろ?」

僕は首を横に振った、「馬鹿げた妄想なんだ」

「それでもいいから言え」

「夏、さっき言ってたんだ。ひょっとして、あいつがまだ生きてるんじゃないかって。そして、俺たちの基地はもうぶっ壊れちまったんじゃないかって」

「あいつって誰だ?」

「あの鏡を探してたおっさんだよ」

「生きてるわけがない。それに、俺たちの基地がぶっ壊れても、それは当たり前だ。この雨でこの街のほとんどはぶっ壊れちまうんだから。だから、夏が戻ってきたら夏にもそう言え。全部当たり前だって。いいな」

僕は茫然と頷いた。誠二は僕の頬を軽くたたき、僅かに微笑んで、僕に背を向けて走り出した。

僕はその背中が消えるのを見送ると、ゆっくりと歩き出した。どこかへ向かおうというよりも、さっきまでフル回転で稼働していた筋肉と心臓が、まだ冷めきらずにその余熱を放出しようとするのに任せてのことだった。

階段を降り、元いた教室の扉の前に立った。だが僕は、その扉の前で立ち尽くした。窓から教室の中をのぞけば、夏がまだ戻ってきていないことが分かった。

僕は首を横に振った。夏はいない。この学校の中には、もういない。

廊下の壁にもたれかかり、僕は窓の外を眺めた。暗闇に自分の横顔が映る。その時、チャイムの音が廊下に響き渡った。そしてその後に誠二の声が続いた。

〈みなさんお休みのところ申し訳ありません。校内放送をお借りして、みなさんにお願いがあります。人を探しています。名前は上村夏。十四歳の女の子です。身長は百六十センチくらいで、ビートルズのTシャツを着ています。五年二組の教室にいましたが、先ほどから行方が分からなくなりました。見かけた方がいましたら、職員室か五年二組にいる中原裕司か、西島誠二までお知らせください。僕たちの同級生です。よろしくお願いします〉

誠二はそう言うと、もう一度全く同じメッセージを繰り返した後で、声の調子を変え、付け足すように言った。

〈それから夏へ。この放送が聞こえていたら、すぐに五年二組の教室に戻れ。裕司がお前を死ぬほど心配しているから〉

再びチャイムが鳴り、放送は終わった。

教室に明りが灯された。五年二組も、両隣の一組も三組も。人々が目を覚まし、ざわめきが広がった。何人かが廊下に出てきた。彼らは手に懐中電灯を持っていて三々五々散っていく。夏ちゃーん、と彼らは暗闇の向こうに声をかける。

僕の眼頭は熱くなり、耳から音が遠ざかった。

僕は首を横に振った。駄目だ、と僕は呟いた。夏はもうここにはいない。いくら探しても無駄なんだ。理屈では全く説明がつかないけれど、感覚で分かる。できることなら分かりたくなかったが、自分に嘘をつくことはできない。この夜の中で、自分が感じていることは全部僕だけの妄想であってほしかった。本当は今でもそうなのかもしれない。でももう、僕はそれを頭の中から消すことができない。

僕は五年二組の教室の扉を開け、自分の荷物のところまで歩いて行った。かばんの中を漁って、懐中電灯を見つけ出し、傍らのスニーカーをつかみ上げて教室を出た。そして、人の目を逃れてひっそりと階段を降り、一階のとある真っ暗な教室に入り込んだ。そこには誰もいない。一階は漏水が続いているので、数人の見張りを除いてみな二階より上に避難しているのだ。

僕は両足にスニーカーを履いて、靴ひもを限界まできつく縛った。雨水が叩きつける窓の前に立ち、鍵を開けた。そしてゆっくりと枠に手をかけ、窓を開いた。わずかな隙間が開いた瞬間、凄まじい勢いの風と雨が、轟音を立てて僕の顔に突き刺さる。僕は机の上に登り、窓枠に足をかけて立った。街灯の明かりは一切落ち、あたりを暗闇が包んでいる。それでも、校庭が河川と化して水がうねり狂っている様はよく見えた。ゆっくり体をかがめ、窓枠を握りしめながら、そろそろと足を外に向かって下ろした。

くるぶしの上まで水に浸かる。僕は背後の窓を閉め、額の上で手をかざして、あたりを見渡した。視界がとてつもなく狭い。雨そのものが風景を遮断しているのに加えて、その勢いが激しすぎて、目を大きく開けていられないのだ。懐中電灯のスイッチを入れて前方を照らしたが、光が雨粒に遮られて伸びず、視界には全く変化が無い。僕はゆっくりと歩き出した。水が重く、踏みしめる足元の土はぐしゃぐしゃで、流れてきた何かがコツコツと足に当たる。雨が跳ねて目に突き刺さり、僕の全身はあっという間に水と同化した。

夏、と僕は彼女の名前を呼んだ。一歩一歩足を踏み出すごとに、水位が上昇していき、膝の高さを超える。何度か彼女の名前を呼んだあと、僕はひときわ大きく、夏、と叫んだ。この常軌を逸した雨の中では、その声の射程は十メートルもないかもしれない。何度もバランスを崩しそうになりながら、僕は校門までたどり着いた。木々が倒れ、校庭を取り囲むフェンスはすべて押し倒され、かつて僕たちが授業後に駆け出して行った校門前の道路は、暗闇の中で完全な川と化しているのが分かる。遠くから押し流されてきたさまざまなもの、折れた木々やゴミや、暗闇の中で判別できない何かの破片が目の前を横切っていく。校門の柱に掴まっていないと、僕も倒されて流されてしまうに違いない。

こんな中を夏が出かけて行ったわけがないと、僕の理性は忠告していた。彼女も、そして今ここを歩いている僕自身も、どこへだって行けるわけがない。今からでも間に合うから、教室に戻って彼女の帰りを待つべきだと。僕は狂っているんだ。大体、僕はどこへ行こうというのだろうか。今夏が行こうとする場所など、この街に存在するのだろうか。僅かな可能性だけが無限に広がり、それが一つの現実の場所に定まるイメージなど全く感じられない。せめてあと数時間待てば、夜が明けて、そうしたら雨は上がり、誰かの助けを借りて、彼女がどこにいてもすぐに見つけられるだろう。

だが僕は濁流に向かって歩き出した。懐中電灯を放り捨てた。身をかがめ、股下まで達している水の中、細心の注意を払って一歩一歩足を踏み出した。まずは、僕の家へ行こう。ここからはそこがいちばん近い。彼女は僕の家に何か忘れものをしてきたのかもしれない。もし、そうではなかったとしたら、次は夏の家に行こう。彼女は両親の安全を確かめたくて、一人でそこに向かったのかもしれない。更にもし、そうではなかったとしたら、次は健一の家に行こう。夏は、体の不自由な母親と一緒にいる健一が心配だったのかもしれない。あり得ないとは言い切れない。夏は優しい女だ。誰よりも優しい女の子だ。いつも僕たち三人の傍にいて、昔から、嫌な役を買って出て、代わりに先生に怒られたり、一刻も早く僕たちが遊びに出掛けたいときは、面倒な当番を代ってくれた。お菓子は絶対に分けてくれたし、漫画の最新刊はすぐに貸してくれた。僕が悲しんでいるときは気遣い、僕が喜ぶことを自分のことのように喜んでくれた。でも重要なのはそれだけじゃない。もっと重要なことがあった。夏のような女は僕にとって他に一人もいない。彼女の絵にも、音楽にも、彼女の優しさが満ちていた。彼女だけの色、彼女だけの音、彼女だけの言葉だった。それは何よりも美しい。僕は夏のことが大好きだった。

そうだった。僕たちは友達なんかじゃない。健一にとっても、誠二にとっても、きっとそうだと思う。「一際仲のいい友達」だとか、「親友」だとか、そんなのは嘘だ。僕は夏のことをずっと前から愛していた。彼女は他の誰にも替えられない、この世で一番大事な存在だ。僕にとって、自分の命よりも大切な存在だ。絶対に彼女を傷つけることはできない。誠二が知性によって彼女を守り、健一が肉体的に彼女を守り、そして今それが叶わないのであれば、僕が想像力によって彼女を守るしかない。サタンの爪だろうと何だろうと、絶対に彼女を傷つけさせはしない。

彼女はこの暗闇の中のどこかにいる。本当と嘘の境目のどこかにいる。間違いならそれでいい。僕が馬鹿だったなら、それが何よりも一番いい。それでもいいから朝まで歩き続けて彼女を探し続けよう。

息が上がり、僕は急速な水の流れに何度も足を取られた。何度も水の中に手をつき、流れ来る残骸に体を突き飛ばされ、そのたびにふらふらと立ちあがって歩いた。そして彼女の名前を大声で呼んだ。

 

 

だが僕は夏を見つけることができなかった。夜が明けたとき、雨は上がり、僕は自分がどこにいるのか分からなかった。すべてが光に照らされた、水没した街が浮かび上がった。僕はどことも知れぬ場所の家の壁に体を持たせかけて、太陽を見つめた。僕は力尽きてその場に崩れ落ちて、少しだけ休憩することにした。眠るつもりはなかった。またすぐに立ちあがって、彼女を探すつもりだった。だがそうはならなかった。僕が落ちたのは深い眠りだった。

第四章 雨の後