第四章 雨の後

真中市に訪れた大雨は、この小さな街に甚大な傷跡を残した。二〇〇棟近い住居が全壊ないし半壊、床上浸水が六〇〇棟。九割以上の世帯が停電し、完全な復旧には二週間以上を要した。下水処理のシステムの一部も破壊された。直接の死亡者数は二十二名、けが人は二〇〇名以上。紛れもなく、真中市の歴史上最大級の災害だった。

もちろん傷ついたのはこの街だけではない。周囲の市も状況は似たようなものだった。特に、真中市と同様に日光川の決壊の影響を受けた街が悲惨だった。

雨の過ぎ去った翌日以降、水の中に沈んでしまった街の復旧が最大の懸案事項となったが、それと同様に問題となったのは、大雨の直後から各種の疾患、感染症が市民に蔓延したことだった。洪水の残骸の処理に立ち会った者を中心に、破傷風や腸チフス、低体温症や肝炎といった症状が多発した。数え切れないほどの人々が真中市とその周辺の街の病院に担ぎ込まれ、ベッドの数は幾つあっても足りなかった。その中に、僕の名前もあった。

 

 

全ての雨と雲が通り過ぎ、突き抜けるような青空と、四方八方に強烈な光を打ち下ろす太陽の下、濁った泥水に浸かりながら、僕は眼を覚ました。光があたりに敷き詰められた水の上で乱反射し、眩しくてまともに目を開けていられず、僕は自分がどこにいるのか全く分からなかった。見渡す限り360度、全ての風景が昨日までと違いすぎた。昨日までの、ごく普通の、何の特徴もない、何の凹凸もない、平凡な街と。そして、昨日この街を隅から隅まで覆って、二度と離れることはないかと思えた暗闇と。全ての家が灰色と茶色に汚れ、見渡す限り濁った湖面に沈んでいる。さらさらと水が流れる音が聞こえる以外、街は静まり返っており、僕たちの耳を殴りつけ続けた雨の音はもうどこにもない。だが僕の耳にはまだ大雨の残響があって、実際の静寂と記憶の轟音という両極端のどちらに落ち着いたらよいのかと耳が迷っていた。

僕は立ち上がろうとしたが、足に一切力が入らなかった。座り込んだ膝の裏をゆっくりと汚水が流れていく。僕は夏の名前を呟いたが、既にそれは意味を失っていた。昨日の夜の暗闇に向かって数え切れないほどその名を呼んだおかげで、意味が極限まで摩耗し、名前から言霊が消えてしまっていた。僕は自分がなぜここにいるのかも分からないほどだった。目を覚ましても、まだ意識が覚醒と眠りの間でゆらゆらと揺れ動いて、僕という人間を形作ることができなかった。

道の向こうから音がして、車輪の大きなトラックが、ゆっくり水をかき分けて進んできた時も、僕はぼんやりと見上げる以上の反応ができなかった。トラックは僕の目の前で停まり、中から迷彩柄の作業服とヘルメットを身に付けた男が降りてきた。

大丈夫か、と彼は僕に声をかけ、僕はぼんやりと頷いた。

私たちは自衛隊だ、もう大丈夫だ、と彼は言い、僕の肩に手をかけて、立ちあがらせた。その瞬間、僕の口からうめき声が漏れた。左足首に強烈な痛みを感じた。

足を怪我しているのか、と彼が訊くので僕は頷いた。

彼は僕をトラックに乗せた。そこには僕の他にも何人か先客がいた。彼らは一様に濡れそぼって悄然としていたが、どんな人々だったかはあまり記憶がない。僕を車に乗せた男は大きなタオルを寄こして、僕に名前を聞いた。

膝の上に広がるタオルを見下ろしながら、中原裕司です、と僕は名乗った。

既に車は走り出していた。彼は僕に、両親はどこか、家はどこか、体調に異常はないか、と訊いた。僕はその全てに対して首を横に振った。彼は僕の額に手を当てて、ひどい熱だぞ、と呟いた。

「夏という名前の女の子がいませんでしたか」

僕がそう尋ねると、彼は僕の顔をじっと見つめた後で、首を横に振った。私たちは知らない、だけどおそらく避難先の学校か、自宅にいるだろう。

僕は首を横に振って、そこはもう探したんです、と言った。「探したけど見つからなかった」

分かった、と彼は言った。「私たちが探すから、君はゆっくり休みなさい」

そして彼は僕の肩にタオルをかけた。僕は首を横に振りながら、再び眠りに落ちた。

 

 

そのまま僕は真中市内の病院に担ぎ込まれ、入院病棟のベッドをあてがわれた。

両親と再会したのはその日の真夜中だった。二人はどちらも、昨夜は仕事先から家に戻ることができずにオフィスに泊まり、翌朝合流して僕を探しまわったらしい。両親は僕を見つけて泣いて喜び、僕は微笑んで大丈夫だと言った。熱は刻一刻どんどん上がり、ぬぐい難い悪寒が全身を覆い、呼吸も喉につかえ、意識は幾分朦朧としていたが、そのダメージは僕にとって日常や過去の経験の範囲を大幅に逸脱するものではないことが、自分自身で分かっていたからだ。

僕は両親に訊いた。

「夏は見つかった?」

両親は、ああ大丈夫だ、お前を探す途中で、小学校で会った、と言った。

「本当に?」と僕は訊いた。何度も何度も訊いた。

本当だ、大丈夫、夏ちゃんは親御さんたちと一緒だ、と父は答えた。

僕には信じられなかった。事態のそんな簡単な解決を、すぐには受け入れることができなかった。だが同時に、そんな安易な決着こそ、現実の行きつくところなのかもしれない、とも感じた。何故ならもう夜は明け、この街を覆った想像力という魔法は解けているはずだったからだ。

夏に電話したい、と僕は言った。今どこにいるのか教えてほしい。

両親は首を横に振った。私たちにも分からない。夏ちゃんの家は被害が激しかったから、市外の親戚の家に避難するらしいんだ。

どうしてその親戚の家の電話番号を聞いてくれなかったんだ、と僕は言った。

二人は首を横に振り、そして、僕にとにかく今はゆっくり休むようにと告げ、落ち着かなくベッドの脇で立ちあがったり椅子に座ったりを繰り返していた。

僕は夢と覚醒の間で、夏のことを考えていた。どうやら見つかったのは本当らしい、見つかったのならそれでよかった、と。次に会うときは笑って、どこに行ってたんだよ、と彼女に訊けばそれで終わりだ。全ては僕の勘違いだったに違いない。だから僕は彼女には、お前を探して俺は大雨の中に出掛けて行ったんだとか、余計なことは何も言わなくていい。たった一夜だけの、たった数時間の錯乱だったのだ。

そう思いながら、完全に眠りに落ちてしまうと、誰かが夢の中で、それは嘘だと言った。その時僕が見たのは悪夢だった。どんな内容だったかは、次に目が覚めたときに一瞬で消えてしまい、今はもう全く思い出せないが、その夢が僕の心臓を握りつぶすような冷たい不吉な感触だったことだけはよく覚えている。夢の中で僕は恐怖に怯えていた。

 

 

診断の結果、僕は左足首を捻挫しており、おまけに肺炎に罹っていた。それに加えて肉体の耗弱が激しく、結局五日間も入院することになった。それだけ長期間になったのは、街の交通網や一部の電気、ガスといったライフラインが依然として復旧していなかったからであり、僕の自宅が人の住める状態でなくなってしまっていたからだ。雨は僕の家の床上まで浸水し、一階部分は水が引いた後も一面泥まみれになってしまっていた。諸々の事情を勘案した結果、僕が病院のベッドでおとなしくしていることが、両親にとって最も望ましい状態だったのだ。

そして両親が望んでも望まなくても、僕は最初の二日間、ベッドからほとんど動くことができなかった。全身から力が失われていて、起き上がろうとすると体中の筋肉や関節が悲鳴を上げた。だが僕は何としても病院の外の様子を知りたかった。ぎりぎり立ち上がれるまで体に力が戻ると、松葉杖を突いてよろよろ歩き、僕は体力の許す限りの時間をテレビの前で過ごしてニュースを見た。入院患者は誰もが僕と同じ気持ちだったらしく、ロビーのテレビの前はいつも物凄い人だかりだった。ヘリから撮影された映像で、茶色い水の中に水没した街の様子が映し出されていたが、見慣れた風景とは全く違ったので、あの雨を全身で浴びた僕ですら、それが今の真中市だと言われても容易には受け入れがたかった。報道では、これはこの地域における観測史上最大の雨であり、多くの市民が避難生活を余儀なくされていると伝えていた。水を捌けられた学校や公園などに避難キャンプが張られ、炊き出しを受ける人々の様子が映し出された。彼らは確かに真中市民に違いなかったが、疲れ切ったその表情と汚れたりくたびれたりしている服のおかげで別の世界の難民のように見えた。そして、そんなニュースが伝えられたのは、雨の後の三日程度までだった。何の特徴もない地方都市群を襲った大雨のことなどニュースとして継続して報道する価値はないらしく、被害地域の大半で電力系統が復旧したという善き知らせの後は、真中市がテレビに映る機会は全く無くなった。

テレビに何も映らないのに苛々するうちに、僕の体力は徐々に回復し、自分の望みを抑えることができなくなった。三人の友達と連絡を取りたいという望みだ。誠二はおそらく大丈夫だろう。でも健一はどうだろうか。両親に訊いても彼の安否を知らなかった。夏が無事なら、あの時結局、彼女はどこに行っていたのか確認しなくてはならない。

誠二と連絡を取るのが最優先だ、と僕は考えた。彼は他の二人の居場所や状況を知っているかもしれないし、知らなかったとしても今の僕よりは早くそれを調べられる環境にあるだろう。僕はテレホンカードを手に、公衆電話の前に形作られた長大な行列の最後尾に並び、ディズニーランドのアトラクション並みの待ち時間を経て、誠二の家に電話をかけた。

だが電話は繋がらなかった。呼び出し音やNTTのアナウンスさえなく、返答は沈黙だけだった。健一の家に掛けても、夏の家に掛けても同じだった。僕は小学校に電話をかけ、西島誠二がそこにまだ避難しているかどうかを尋ねた。電話先の教員は、分からない、と応えた。雨が明けた翌日以降、学校には新たに避難してくる人々と自宅に戻る人々とが一気に大量に交換されたことから、名簿の正確な管理ができなくなっている状況らしかった。時間や手間をかければ調べてもらえるかもしれなかったが、たとえ僕の背後に並ぶ長大な行列のプレッシャーを無視したとしても、刻一刻と点数が減っていくテレホンカードがその猶予がないことを僕に告げていた。僕は、もしも西島誠二がまだそこにいたら、中原裕司は今は病院にいるが、元気でいると伝えてほしい、と言い残し、それ以上は諦めるしかなかった。僕は受話器を置いて、松葉杖を突いて歩き出した。

そして僕は夏のことを考えた。両親が僕に言うには夏は既に市外に避難しているらしいから、電話が繋がらないということはそれが本当だったという裏付けではあるのだ。彼女は無事に違いない、僕はそう自分に言い聞かせた。そう言い聞かせながら、自分が楽天的になるべきなのか、悲観的になるべきなのかが判断できなかった。

僕は一刻も早く退院しなくてはならない、と考えた。とにかく僕に必要なのは「事実」だった。友達の無事という事実だ。それをこの目で確認しない限り、僕は結局いつまで経っても安心できないだろう。

高熱と足首の捻挫によって全身の機能には制限がかかったままだったが、食欲はかなり回復し、僕の頭の中には完全な回復までのイメージが描かれていた。脳細胞には熱の幕が掛かっていたが、そのすぐ裏側では血が脈動しているのが感じられた。病室の窓から外を見やる限り、水は真中市の主な通りから消え去りつつあった。残っているのは泥だけのはずだ。僕は退院までの数日間、ひたすら友達のことを考えて過ごした。そして医師に会うたびにいつ退院できるのかと訊いた。彼はもうすぐだと言った、「君みたいな元気なやつには早く退院してもらわないとこっちも困る」。

遂に退院の日がやってきて、父が運転する車の後部座席に乗り込んだ。

そこで僕は、砕け散った街を目の当たりにした。衝撃的な光景だった。道の端に泥が押し寄せられて山積し、全ての街路樹は押し倒され、家々は古いものから順番に崩れ落ちて、人々がその復旧に当たっている。剥がれ落ちた瓦や、砕け散った窓ガラスや、種々雑多な判別しがたい大量のゴミたちは、空き地や全ての稲穂が押しつぶされた水田に一時的に積み上げられている。何より僕の視界を埋め尽くすのは、全体的な灰色だった。街の全てがグレー以外の色を失って沈黙に覆われている。もともとなんの面白みもなかったこの街も、確かに何かが生きていたのであって、そして今確かに何かが死んだのだということが、どんな言葉で説明されるよりもその色を見ればはっきりと分かった。僕の五感と精神はそれらの破壊の情報を物凄い勢いで体内に吸収していった。

その情報量は僕にとってはあまりに過剰だった。だから僕には、その破壊を解釈して別のものに置き換えたり、それが広がっていく先の事を考えることまではできなかった。破壊は破壊のままで、そこから先には一歩も進まずに止まっていた。

僕は、肝心なことは何一つ感じ取ることができていなかった。まだ僕は、自分にとって一番重要なことを分かっていなかった。

徹底的な破壊の痕を目前にしても、僕はまだ、自分が生き残れたことに安堵し、仲間の無事を無邪気に信じていた。僕はこの時まだ、あの暗闇の半日間だけが特別で、全ては放っておいてもやがて元に戻っていくものだと思っていた。僕はこの街に起こったことがどういうことなのか、現実というのが一体どういうものなのか、全く分かっていなかった。雨がこの街を破壊したということは、その破壊が僕たちにも直接降り注いだということで、起こった現実には一切の容赦はないのだ。だから、その破壊が仲間たちを傷つけたところで何の不思議もない。そういった論理的に訪れ得る現実を、僕は全く理解できていなかったし、想像できなかった。それは愚かなことだし、みじめなことだ。後に事実を知った僕に、後悔という二文字に埋め尽くされた感情がやってきた。

そもそも既に間違いを犯していた僕が、起こってしまった破局について想像することができなかったとしても、それはやむを得ない帰結だったのかもしれない。何故なら、不幸なことなど何も起こらず、友達が無事だと思いこむことは、既に現実が起こってしまった今、僕にとっては現実逃避でも思考停止でもなく、切実な祈りだったからだ。

 

 

 

僕が健一に再会し、彼が負った重大な外傷について知ったのは、彼の母親の葬式に出席した日のことだった。健一の母親が亡くなったことを知らせたのは僕の両親だった。僕が病院にいるうちに、二人は僕に代わって友達の行方を追ってくれて、早い段階でその事実を知った。僕たち四人が長い付き合いであるから、互いの両親たちにもそれなりの関係があったのだ。僕は両親とともにその葬式に出席したのだが、僕はこれほど陰鬱で悲しい葬式に立ち会ったのは初めてだった。

健一の自宅は、決壊した堤防から押し寄せた多量の水に押し潰されて全壊した。骨組みと一部の壁と屋根だけが残り、健一の母親はその時に亡くなった。健一の母親にはずっと以前から半身麻痺と腎不全という重い持病があり、自宅で安静にしているのが常だった。食前にインスリン注射をして、母親を二階まで運んで眠らせた後、健一は判断を誤った。一刻も早く自宅から離れるべきだったのに、彼はそこに留まったのだ。その時既に押し寄せた雨水は家の周囲を取り囲み、母親をおぶってでは避難できない段階に達していた。

それとも、そうはできない事情があったのかもしれない。健一の母が、普段とは異なる重篤な状態にあって、どうしても家から動かすことができなかったということも考えられる。僕にも、他の誰にもそれは分からない。健一はこの後もずっと、その生と死の境目で何があったのかについては誰にも話そうとしなかったからだ。

真中市の外れの葬儀場で、健一の父親が、自分の涙でかき消されそうな声で弔辞を読み上げた。息子の健一は今ここにいませんが、息子は本当によく頑張った、と健一の父は言った。息子は大雨の中、妻を背負って逃げようとしたんです。

そして二人は暗い水の中に飲み込まれた。健一の母は亡くなり、健一は重傷を負って病院に運び込まれた。

葬式の後、僕は健一の父に声を掛けた。彼の全身からは精も根も全く感じられず、近づくことも憚られたが、それでも僕は健一の居場所を聞かなければならなかった。

あいつはひどい怪我をして、ひどく落ち込んでいるから、ぜひ裕司君に見舞いに行ってほしい、と健一の父親は言った。健一がいるのは、僕が三日前まで入院していた病院だった。

行かなければならないのは間違いないことで、どうしても会いたいのも本当の気持だった。だが僕の心は果てしなく重かった。バスに乗って病院へ向かいながら、一体自分が健一に何を話すつもりなのか、全く想像ができなかった。

健一の病室まで続く廊下が、ひどく暗かったのをよく覚えている。そして物音がほとんどしない。僕が入院していた部屋とは階が異なっていたとは言え、僕がいたときには常に誰かが騒がしくしていたのが、まるっきりの正反対の静寂しか存在しないために同じ建物とは思えなかった。

健一の病室は、その静寂の延長線上にあった。だが外の廊下と違って、大量の光が窓から射し込み、部屋全体が真っ白い空気に覆われていた。僕は額に手をかざしながら、部屋の奥にある健一のベッドに近づいた。

「健一」と僕は声を掛けた。

健一は窓の外に顔を向けていて、僕の声に反応して振り向いた。彼の顔は治りかけの擦り傷でいっぱいで、あの雨の日の最後に別れたときに比べて痩せていた。

「裕司、久しぶり」

健一はほんの少しだけ唇を曲げてそう言った。会うのはたったの一週間ぶりだったが、それまではほぼ毎日顔を合わせていたのだから、僕も同じ気持ちだった。僕も、久しぶり、と言った。

座れよ、と健一は言って、ベッドの横に立てかけられたパイプ椅子を指し示した。僕はそこに腰かけながら、傷の具合はどうかと訊いた。

健一は首を横に振った。そして僕たち二人の目線が、半分しかない健一の右足で交わった。

「母さんの葬式に出てくれたんだろ。ありがとな」

僕は首を横に振って、残念だ、と言った。

「うん、残念だ。心の底から残念だ」

健一はそう言って唇を噛んだ。

「裕司の家族は大丈夫だったか?」

大丈夫だ、と僕は言って頷いた、「俺が足を捻挫しただけで、それと家の一階が水浸しになっただけで、後はみんな無事だった」

「そうか、よかったな。本当によかったな」

僕は頷いた。

「誠二と夏は? 二人とも無事か?」

僕は首を横に振った、「まだ分からない。連絡が取れないんだ。誠二の家に行ってみたら雨でやられていて、窓がガラスの代わりに板で閉じてあって、誰もいなかった。夏は市外に避難しているらしくて、連絡先が分からない」

「探して、見つかったら教えてくれ。頼む」

「分かった。ここに連れてくる」

「必ずだぞ」と健一は言った。「約束しろ」

僕は、約束する、と応えようとした。

だがその、約束する、という短いセリフの最後で、突然喉に音が詰まって、正確に発音することができなかった。

僕の頭の中に突然現れた、一つの映像のせいだった。それは何年も昔の、僕達四人がサッカーをしている風景だった。僕たちはいつも必ず健一にボールを集めた。彼は相手が何人いようとその両足を駆使した美しいドリブルで抜き去り、ゴールに向かって行く。彼を止めることは誰にもできなかった。そしてボールが完璧な弧を描いてゴールに吸い込まれる。僕たちは健一に駆け寄ってゴールを祝福する。健一がいる限り、僕たちは同年代の者に負けたことは一度もなかった。

一瞬で頭の中を覆い尽くそうとするその映像を、僕は途中で振り払った。そして咳払いをして、約束する、と改めてはっきり言った。

健一はそこで初めてにっこりと笑った。その目を見て初めて、僕は彼も感情をこらえているのだということ、特に涙をこらえているのだということが分かった。だとしたら僕も笑うべきだった。うまく笑えたかどうかは分からないが、健一に顔をまっすぐ向けて、またすぐに会いに来る、と僕は言った。

だが僕は約束を守ることができなかった。誠二も夏も、僕の力ではこの病室に連れてくることができなかった。

 

 

 

誠二に会えたのは、雨が止んでから一カ月近くも経った後だった。そのころになると、大雨の爪痕はまだ街のあちこちに刻まれて残ってはいるものの、既にほとんどのインフラは回復し、学校の授業も再開されていた。僕の足も治り、どこまで歩こうが走ろうが何の問題もなくなっていた。表面的な日常は、自分自身や身内に被害があった人を除き、市民の下に戻りつつあった。

もちろん僕にはまだ、日常など戻って来はしなかった。

再開された学校に健一と夏の姿は無かった。他にも県外に一時的に避難したり、引っ越してしまったりして、何人かの生徒の姿が無かった。あの横山一紀もいなくなっていた。ホームルームで担任教師が、彼は母親を亡くして一人になり、親戚の下に身を寄せることになった、と説明した。

僕はそれを悼むより、あの夜のことを思い出し、心底からただ暗い気持ちになった。母親を殺した、と横山は言った。あの時それが本当なのかどうか僕には分からなかった。横山自身にも分かっていないようだったが、どちらにしても僕は考えたくもなかった。だが彼の母親が亡くなったことは少なくとも本当だったと示されたのだ。これで、一つの事実が逃げ場のない方向に塗りつぶされたのだ、と思った。彼の言った一つの事が本当であったのなら、他の言葉も本当であった可能性は高いということなのではないだろうか。僕はこのことを誰にも喋るつもりはなかった。そして深く考えることを引き続き拒否した。これについて考えていくと、僕の頭は本当におかしくなってしまいそうだったし、正直なところ、深く考えている余裕がなかった。今ここにいない横山のことまで、自分に関係があるように考えることができなかった。友達の事を考えているだけで精いっぱいだった。

健一は間もなく退院することになっていたが、どちらにしても元の学校に通うことはもう無いだろうという話を僕は彼から直接聞いていた。全壊した家を建て直すよりも、父方の実家に身を寄せてその近くの中学に通うことになるのだと彼は言った。

それを自然な正しい選択だと思う僕と、拒否する僕がいた。四人の無事が確認できないうちに、一人が真中市からいなくなってしまうことが、僕にはさみしくてたまらなかった。

「その方がいいんだ」

そう健一は言った。なぜその方がいいのか、彼は詳しく話さなかったから、僕も問いただしはしなかったが、彼が一つの道を選んだのだということは分かった。健一にあったのは二つの道だ。自分のことを知っている者がいる場所で傷を癒すか、誰も知らない場所でそうするかという二つに一つで、彼は後者を取ったのだ。

夏については、何の情報もなかった。学校にも全く連絡がなく、彼女がどこにいるか知る者は誰もいなかった。僕は担任の教師に、本当に夏のことを何も知らないのかと尋ねたが、逆に彼女の行方を中原の方こそ知らないかと訊き返された。僕は首を横に振った。僕が知っているのは、それが本当のことだとしてだが、夏は雨の翌日に両親に連れられて隣町の親戚の家に避難しているということだけだった。そしてその家の連絡先は誰も知らない。

誠二の状況も同じだ。むしろ夏以上に、一つの手がかりさえない。

つまり、僕にとってはまだ最も重要なことの三分の二が明らかになっていない状態だった。そんな僕が学校の授業などに集中できるはずがない。僕は一日中上の空で、授業中も、家に帰ってからも、夢の中でも、二人の行方を捜していた。僕は警察に行き、誠二の通っている私立中学に行き、夏の通う音楽教室を尋ねたが、手がかりはゼロだった。僕はあの大雨の真夜中の悪夢がまだ終わっていないことを受け入れざるを得なかった。目は間違いなく覚めているのに、走っても走っても目的地にたどり着けない悪夢を見続けているような気がした。僕の全身は完全に恐怖の虜だった。この夢から覚めたいという強迫観念が僕の背中を押し、ほとんどの時間じっとすることを許さなかった。

ある日僕は健一の病室に訪れ、彼にそうした報告――前回と全く変わり映えのしない報告――をした後で、病院のロビーでコーラを飲んでいた。今日も暗い嫌な一日だったと、僕はため息交じりの息をついて俯いていた。誠二との再会は、その時唐突に訪れた。

何人かの患者達がいるロビーで、僕の隣の、茶色い長ソファに、誠二が腰かけていたのだ。彼は白いパジャマを身にまとい、NHKの大相撲を映し出すブラウン管テレビを眺め、僕が隣にいることに気がつかなかった。

僕は誠二の横顔をまじまじと見つめた。あまりにも自分にとって予想外のタイミングだったため、僕は隅から隅まで彼を見つめて、それが間違いなく誠二だと、僕がこの世で最も頼りにする友達だと確かめる間が必要だった。

誠二、と僕は声をかけた。

だが彼は振り向かなかった。彼はテレビに映る大相撲の中継映像に意識を集中しているようだった。誠二、と僕はさっきよりも大きな声で彼に呼び掛けた。

ゆっくりと誠二が振り向いた。

彼の目は虚ろだった。真っ白い顔で、筋肉が半分くらい溶けて無くなってしまったような表情だった。僕の方を向いているが、僕を見ているのかどうかよく分からない。惚けた顔で、あの思慮深く眼光の鋭い彼とは全くの別人だった。

僕は反射的に、人違いをした、と思った。表面的には誠二と瓜二つだったが、誠二がこんな顔をしているはずがないと思った。ひょっとしたら、彼のことを知らない人であれば、彼本人と全く変わらないように見えたかもしれない。だが僕には一瞬で、誠二とは別人だと分かった。僕は言葉に詰まり、目の前の少年の顔を見つめた。すみません、人違いでした、と言って立ち去ろうとした。

だができなかった。

形があまりにも似すぎていた。

僕の表情は凍りついていた。呼吸もほとんど止まっていた。頷いて、ゆっくり肺に力を入れて呼吸を取り戻し、誠二、裕司だ、と彼に確認するように言った。

「裕司か」と誠二は言った。

張りのない、柔らかすぎる声だった。

僕は頷いた。

頷くことしかできなかった。

僕は沈黙した。ただ目の前の誠二を見つめた。誠二も、口を半開きにしたまま、沈黙した。

彼の眼がきょろきょろと左右に動き、やがて僕を見つめて、右掌を軽く上にかざした。

僕はその動作をじっと見ていた。そして彼が喋るのを待った。

だが彼は喋らなかった。右掌をかざしたままだった。

暫くして、その右手も下ろされた。僕は彼の膝の上に戻ったその手をじっと見つめていた。

「俺、健一の見舞いに来たんだよ」

僕はそう言った。誠二の表情はぴくりとも動かなかった。

「あいつもこの病院に入院してたんだ。知ってた?」

誠二は僕の顔を見返した後で、ゆっくりと首を横に振り、知らない、と言った。

僕は、そうか、と言った。その「知らない」というのが、入院していることを知らないのか、健一のことをそもそも知らないというのか、どちらの意味なのか確認することができず、僕は、そうか、とだけ言った。

「健一」と誠二はつぶやいた。口の中でその言葉の感触を確かめるようだった。

「後で、会いに行こう。今日じゃなくて、明日でもいい。あいつもお前に会いたがってたんだ」

誠二はまた僕の顔をじっと見返した。そしてまた同じように首を横に振った。

「いい、会わない」

「そうか、分かった」

「裕司、お前」

誠二は僕に指をさしたまま、口を開閉させた。そして左手を自分の胸にあてた。

「俺は大丈夫だよ。誠二、俺は大丈夫だ。なんともない」

僕がそう言うと、誠二はにっこりと微笑んだ。よかった、と誠二は言った。

「でも、まだ夏が見つかってないんだ。探してるから、見つけたらここに連れてくる。そうしたら四人で話そう」

誠二は首をかしげて僕を見つめた。分かった、と誠二は答えた。僕の方を見ているのだが、彼自身、目の前の男が僕だと識別できているのかどうかよく分かっていないような視線だった。

僕は誠二の顔を見つめ続けていたが、彼はやがて眼をそらして再びテレビの方に顔を向けた。

僕の全身に、いつの間にか鳥肌が立っていた。体が内側から揺れるようにざわつき、得体の知れない感情が喉から溢れそうになって吐き気がした。心臓が全身を揺らす勢いで鳴り響き、体の先端から熱が急速に引いて行った。

止めてくれ、と僕は思った。

ただそう思った。僕は何度も瞬きをした。そうすれば目に映る現実の形が少しでも変わるとでもいうように。

後になって、僕は誠二の両親に彼の病状について聞いた。あの大雨の数日後、誠二は髄膜炎から連なる脳症を起こし、この病院に入院した。痙攣や発作、錯乱を経て、症状は落ち着いた。だが、脳には重い後遺症が残ったままだった。主に記憶と言語野にその影響が強く残り、それが今後完全に回復するかどうかは全く未知数だということだった。正確な原因の特定は難しかったが、彼は荒れ果てた自宅とその周辺の片づけをするうちにそれに罹ったのだ。医師によれば、不幸な偶然が重なった珍しいケースだということだったが、現に起こってしまったことはどうあがいても取り返しのつかない現実であり、それがたとえ数万分の一の確率だったとしても今更何の関係もなかった。

僕は誠二の横顔を見ながら、体の中のざわめきに必死で耐えていた。長い時間動かずにじっと耐えた。テレビで繰り広げられる大相撲の取り組みが結びの一番まで終わった頃にそれはひとまず収まったが、代わりに自分の感情が完全に停止してしまっていることに気がついた。彼の目には、あの理知的な鋭さも、僕をいつも助けてくれたあの力強さも感じられなかった。それについてどう考え、感じたらいいのか全く分からなかった。

 

 

それから、僕にとって時間の流れはそれまでと全く違う動きを見せるようになった。昨日と今日が連続しておらず、今週と来週の区別がつかない。今日の次に何も変わらない明後日が来る。ひどい時には明日の次に昨日が来ているようにさえ感じられた。街の風景はどんどん以前と同じに戻っていくのに、僕の日常はそれとは全く逆に、自分自身から日に日に離れていくからそういうことになったのだ。僕はその齟齬を建て直し、正常な関係にすり合わせることがどうしてもできなかった。僕は毎晩悪夢を見てうなされた。悪夢の定番、走り続けているのにどこにも辿りつけない夢と、真っ暗闇の中を真っ逆さまに落ちていく夢の二種類だ。それが眠りに就くごとに交互に僕の頭の中にやってきた。僕は眠ることにも起きていることにも疲れ切っていた。

この時自分が何を考えていたのかは、今でもはっきり覚えている。僕はたった一つのことしか考えていなかった。

それはもちろん、夏はどこにいるのかということだ。

僕は夏を探し続けていた。あまりにも手掛かりがなさすぎ、僕は毎日ひたすら真中市じゅうを自転車で走って回った。何の当てもない、無意味な捜索だった。何の収穫も得られずに家に帰ると、僕は風呂に入って、悪夢を見て、目覚め、翌日学校で茫然と授業を受けると、また自転車で真中市じゅうを走りまわる、という生活を繰り返した。このころの僕はほとんど夢遊病者と何も変わりなかった。

既に健一は真中市を去って北隣の県に引っ越しており、誠二は退院して、同じく県外への転居の準備に入っていた。今の彼が進学校の授業についていけるはずがなく、彼のリハビリテーションを中心にカリキュラムを組むことができる学校は、真中市の遥か西にしか存在しなかった。僕には、二人が去っていこうとするのを止めることなどできず、完全な一人ぼっちになろうとしていた。

僕の中には、互いに全く矛盾する、二つの直感があった。自分は永久に夏を探し続けることになるだろうという直感と、自分は近いうちに必ず彼女を見つけるだろうという直感の二つだ。僕は後者を信じた。論理が保証するのはそちらだったからだ。既にあの大雨から一カ月以上の時が経ち、これにまつわる死亡者の身元は判明されつくしていた。その事実から導き出される論理を僕は頼みとしたのだ。彼女がもし死んでいたとしたら、それを隠すことなど誰にもできない。夏が生きているのは間違いないのだ。そうであれば僕はいつか必ず彼女に再会する。念仏のように僕は自分にそう言い聞かせていた。

夏を探して真中市のありとあらゆる場所を走りまわったため、僕は街が日に日に復興していく様をその目に焼き付けることになった。昨日までは倒れていた街路樹が一本一本片づけられたり立ち直ったりし、閉じていた店が再開し、道が舗装され、街灯に明りが戻っていく様子を、まるで朝顔の観察記録を書くように、眠る前に日記として書きとめた。一方で、荒廃したままいつまでたっても元に戻らない場所もあった。僕達がかつて通った駄菓子屋や本屋などの商店、いくつもの住居からは、人の住む気配が消え、次にやって来る誰かが現れない限り打ち捨てられたままだった。そこには閉店を告げる張り紙もなく、ただ唐突で半永久的に続くグレーの色があるだけだった。

時間が経つにつれて街に戻って来るのは光や景観だけではなく、そこに住む人々も同様だった。道を行き交う車の数はかつての勢いとほとんど同じに戻り、公園で遊ぶ子供たちの数も、道端で談笑するおばさんたちの数も、やがて全てが雨の前と変わりなくなった。いかに凄まじい水害だったとはいえ、六万五千人が住むこの街で、先の大雨で亡くなった人は数で言えば数十なのだ。街を行き交う人の様子は元の通りになるのが当然だった。

傷跡は街の中になじみ、元からあった風景と、新しく建て直されたものと混ざり合い、どこからが過去で、どこからが変更されたものなのか、最早見分けることは困難になりつつあった。

僕はそんな光景を眺めながら、何かが足りない、と思った。この街を構成する決定的な何かが足りない。自意識をほぼ喪失してひたすら夏を夢中で探していた僕にとって、その違和感ははっきりとした意識にまでは到達しなかった。それは無意識の中にぼんやりと揺蕩って、僕の中の漠然とした不安感と混ざり合って全く区別がつかない感覚だった。

その何かが何なのか僕に気付かせたのは、あの雨の後で、最初に再会したあの人たちだった。それでようやく分かった。彼らがいなかったのだと。彼に会うまで、僕はあの人たちがこの街から一人もいなくなってしまったことに気がつかなかったのだ。

僕は彼と、かつて僕達が秘密基地を建てた場所で出会った。その場所には、雨の後、体調が回復した最初の段階で訪れていた。僕達がかつてそこに築いたものの全てが砕け散っているのを確認する必要があったからだ。そして、予想した通りそこには何もなかった。雑草も、雑木林も、何もかもがなぎ倒され、水に押し流されて地面はぐしゃぐしゃになったままで、僕達の基地の一片の痕跡も残っていなかった。僕はそれがどこにあったのかさえ、自信を持って特定できなかった。僕は立ち尽くして、何もないその光景を眺めていたが、心臓が内側から破れそうな気がするほど胸が痛くなって5分と耐えることができなかった。

だから僕は最初、この場所にはもう二度と訪れることはないだろうと思った。だが実際には、僕は時間を空けて、もう一度だけ戻ってきた。戻って来ざるを得なかった。夏がいる場所の見当がつかない以上、彼女と少しでも繋がりのあった場所であれば、いつまでも素通りすることはできなかった。行けばただ胸が締め付けられるだけだというのは分かっていた。あんな寂しい場所には夏はいないだろうと思った。何もないのを確認してすぐに立ち去るだけのつもりで、僕は奥歯を噛みしめてそこに向かった。

だがその日この場所にやってくると、そこは「何もない」空間ではなくなっていた。木々が排除されてできた広場に、小さな小屋が建っていたのだ。厳密には、小屋と呼べるようなものですらない。木片や段ボールや鉄パイプや土管を集積させた、ゴミの山だった。ゴミたちが寄り集まって、オブジェの如きがれきの塔を形作っている。僕がそれを「小屋」と認識したのは、しばらく立ち尽くすうちに、そのゴミの隙間から一人の男が這い出てきたからだった。

純白の衣服の男だった。

彼は空を掻き、ゆっくりと土を掻くような動きをして片膝立ちになり、少しの間俯いて動かなかった。呼吸を整えるような間合いの後、一気にすっくと立ち上がり、あたりを見回して、僕を通り過ぎて一周した後で、もったいぶって僕に視線を戻した。芝居がかった動きだった。

僕はその小屋と、現れた男を眺めながら、自分の頭を埋め尽くす感覚が既視感(デジャヴ)なのか未視感(ジャメヴ)なのか、判別することができなかった。

彼は真っ白い綿製のぴったりした服を身にまとい、真っ白いマントを羽織り、頭には真っ白いタオルを巻き、真っ白いマスクで顔を覆っていた。頭の先からつま先まで、一か所を除いて全てが純白で、目元を完全に覆い隠すサングラスだけが漆黒だった。

その姿はどこからどう見ても日光仮面だった。

僕は開いた口がふさがらないまま、彼のサングラスの向こうの瞳を見とおそうとした。日光仮面の素顔をそもそも知らない僕にとっては無意味な行為だったが、そうせざるを得なかった。

どう見ても目の前にいるのは日光仮面なのに、僕はその男に違和感しか感じなかった。僕は反射的にこう思った。日光仮面が生きているはずがない。彼は雨の中で死んだはずだ、と。

「あんた誰だ?」

僕は、目の前で手足のストレッチ運動を繰り返している男にそう訊いた。

彼はすぐには返事せず、首を何度か左右に傾けた後で、僕の真正面に体を向け、両手を腰に当てて言った。

「私は月光仮面」

そして彼は腰のベルトに垂れ下がったホルスターから二丁の拳銃を引き抜き、ばん、ばん、と声に出しながら何もない中空に向かって引き金を引いた。

「何仮面だって?」

「私は月光仮面」

彼はもう一度そう名乗った。そして歌いだした。

 

 

どこの誰かは知らないけれど

誰もがみんな知っている

月光仮面のおじさんは

正義の味方よ よいひとよ

疾風のようにあらわれて

疾風のように去っていく

月光仮面は誰でしょう

月光仮面は誰でしょう

 

 

「知ってる」

僕はそう呟いた。もともとこの歌はこういう歌詞だった。だが同時に僕は知らなかった。「月光」仮面など知らない。少なくともこの街の中でだけは、この歌詞は正確でない。

単なる日光仮面の物真似だ。そう僕は思った。もともとの本物の名前を名乗る者が偽者、というのはややこしかったが、真中市において日光仮面のインパクトは強烈だった。彼がいなくなった今、この街で勝手にその後を継ごうとする追随者が現れたということ自体は、別に不自然なことではないと思った。

だが、月光仮面と名乗る彼の歌声を聞きながら、僕の胸の中に制御しがたい感情がふつふつと込み上げてきた。それは怒りに近い感情だったが、何に対するどういう名分での怒りなのかが自分でも全く分からなかった。

「知っているのか、では話は早い。君に頼みがある」

僕は沈黙したまま彼を睨みつけていた。

「この街に潜む悪を見つけたら私に知らせてくれたまえ。私がやつらに天誅を下す。この街の平和は私が守る。それが私の任務なのだ」

「必要ない」

僕がそう言うと、彼は首をかしげた。

「君は気が付いていないようだが、この街に危険が迫っているのだ。悪は今、この街に潜み、何食わぬ顔で生き延びている。しかしやがてやつらは恐るべき手段を持ってして、この街を破壊し、殺戮の限りを」

「必要ない」と僕は言って遮った。「この街には日光仮面がいる」

「日光仮面? 何者だ?」

「この街を守る正義の味方だ」

「それは偽者だ」と月光仮面は言った。「正義の味方は月光仮面ただ一人」

「正義の味方のルールは知らないけど、日光仮面は偽者じゃない」

「では彼はどこにいる? 荒れ放題で、貧しく、笑顔の消え去ったこの街で、真の正義の味方たる彼はどこにいる?」

「いつか戻って来る」

僕はそう言った後、首を横に振った。馬鹿馬鹿しい会話だった。この月光仮面が何者であれ、あの人たちの一人なのは間違いないと分かった。今の僕は彼らとは別のところにいた。別の世界の住人と意思を通い合わせようとするのは、それがまともな会話であれ荒唐無稽であれ、どうあってもまともな行為と言えない。僕はあっという間に彼に一切の興味を抱くことができなくなった。

僕は軽く手を挙げて、その場を立ち去ろうとした。

待ちなさい、と月光仮面が呼び止めた、「何か困っていることがあるだろう。私に相談するといい。君の助けになる」

僕は首を横に振った。

「俺はもうあんたたちの助けは要らないんだ。日光仮面はあの時俺に、もう守ってやれないって言った。だからもういいんだ」

僕はそう言って今度こそ月光仮面に背を向けて去った。

そして僕はもうこの場所に訪れることはなくなった。ここはもう僕達の場所ではなく、彼の場所だった。

 

 

 

何の収穫もない毎日が過ぎ去っていった。僕の頬は痩せこけ、眼だけがギラギラとして、人相が数か月前までとまるっきり変わってしまった。いつも腹を空かしていたが、食欲は全くなかった。僕は常に何かを探し続けていた。具体的にはたった一人の女を探していたのだが、長い時間と集中力が費やされた結果、その対象は次第に僕の心の中で世界全体そのものと同一化してしまった。

その時間は永遠のように感じられた。だがもちろん永遠などない。それどころか、振り返れば誠二と再会した後のほんの数週間だった。僕はやがて夏を見つけ出した。彼女は日光川のほとりにいた。

 

 

 

僕はその瞬間を自分の中で予期していたように感じた。秋の涼しい風が僕のシャツをばたばたとはためかせ、背中に夕暮れの太陽光が突き刺さった。僕は自転車に乗っていて、これまで数百回渡ってきた、日光川をまたぐ橋の上にいた。

僕の目に最初に映ったのは木製のイーゼルだった。視線の下方、日光川の河川敷のコンクリートの上にそれは据えられていた。それは一瞬、誰かが川岸に立てた看板のように見えた。しかし直後、背後に誰かが座っているのに気がついたとき、僕の自転車のペダルは自分の意識を超えて自動的に踏みしめられ、猛烈な勢いで回転した。

橋を渡ると、引き倒すように自転車から飛び降り、転げ落ちそうになりながら堤防を駆け降りた。そこはかつて日光仮面が住んでいた河川敷と全く同一の地点だった。もちろん既に彼の住処も彼の姿もない。ドナルドダックの落書きも、「日光仮面参上」の落書きもない。補修されたコンクリートに塗りつぶされてしまったのだ。僕達の秘密基地と同じく、そこは既に過去の面影を全く残していなかった。ただ静寂と空白があるだけの無味乾燥な空間だった。僕はそこに降りてきて、バランスを崩しそうになった体勢を、膝に手を突いて支えた。最初に僕に見えたのは折りたたみ式のキャンプチェアに座る後ろ姿だったが、それが夏だということはすぐに分かった。彼女の髪は短く切り揃えられており、幾分背が痩せ、まるで小学生に戻ったような雰囲気だったが、彼女だということは分かった。

「夏」

僕はそう呼んだ。

反応はなかった。夏、と僕はもう一度呼んだが、それでも彼女は身じろぎもしなかった。彼女はイーゼルに立てかけられたキャンバスに向かって、筆を握りしめて静止していた。

僕は彼女の隣に立って、そこにある絵を見つめた。

既に堤防下の河川敷は影に包まれていて、キャンバスの全体は灰色に沈んでおり、そこにある色はほとんど判別できなかった。何が描かれているのか、その輪郭を辿ることは難しく、ぼんやりとしか見えない。だが十分な太陽の光があったとしても、ほぼ同じことだったろう。それは具体的な形を取り出すことのできる絵ではなかった。ただ、ぐしゃぐしゃな混沌が叩きつけられているようにしか見えない。無軌道な曲線と、規則性のない種々の絵の具がその空間に飛び交い、空気の流れをそのまま布に写したような渦があるだけだった。

でも僕にはそれが何の絵なのか分かった。不思議なのだが、一目見た瞬間に、僕はその絵が何なのか分かった。それは僕の勘違いで、ただの思い込みに過ぎなかったかもしれない。彼女は答えを自分の口からは教えてくれなかったのだから、そうであっても仕方がない。だが僕には見間違いようもなく、自分があの日見たものと目の前の絵が全く同じものに見えた。

「あの夜の雨の絵だ」

僕は呟いて、夏の横顔を見つめた。短く切られた髪の下で、彼女のまつ毛が風に震えるのが見えた。夏は僕の方を向こうともせず、じっとキャンバスを見つめたままだった。

彼女はずっと無言だった。

僕は身をかがめ、椅子に腰かけた彼女と目線を同じにした。彼女の唇はひび割れ、固く閉じられていた。筆を握りしめる細い手指は震えていて、イーゼルと彼女の体の中間で、どちらに行くべきか揺れ動いていた。すぐ傍に僕が立っていることなど全くどうでもよいことのようだった。彼女の意識が僕には無く、キャンバスに描かれた絵の中にしかないということを、僕は直感で理解した。

あっという間に日が暮れていき、あたりはほとんど暗闇に包まれた。最早画板には渦の痕さえ見えない。彼女の目に何が映っているのか分からなかったが、もう今日ここで色を塗るのは無理だった。

「帰ろう」

僕はそう言って、彼女の右手にそっと触れた。川の水のように冷え切った手だった。そして夏の反応は全くなかった。僕がその手に触れていることに気付いてさえいないような風だった。僕は夏の手を両手で包みこんでもう一度、帰ろう、と言った。

夏はその時初めて僕の方に振り向いた。暗闇の中で彼女の表情はほとんど分からなかった。だがその目が僕の顔を全く見ていないということだけは分かった。

僕は微笑んだ。

夏は立ち上がり、画材を片づけ始めた。僕はそれを手伝い、大きなキャンバスバッグに荷物を詰め込み、イーゼルを脇に抱えた。夏は歩いてここまで来ていたので、自転車を押しながら彼女の隣に付いていった。彼女がどこに行くのか初め不安だったが、見知った道を歩んでいると分かるとほっとした。夏が向かっているのは僕がよく知る彼女の自宅だった。

辿りつくと玄関で夏の母親が出迎えた。彼女は夏を抱きしめ、家に上げると、僕の顔を見て驚いた。

僕はそこで夏の母から、簡単に夏の身に起こったことを聞いた。夏の両親は、あの雨の夜の後、小学校にいる夏を見つけた。だが娘の様子が異常なことは一目で分かった。彼女の顔からは表情が消えていて、一切口を利かなかった。親戚の家にいったん避難したが、そこで夏は暴れ狂った。手近なものを投げつけて回り、暴力をふるった。医者に連れて行っても暴れて押さえつけることが難しかった。全く口を利かないので、何が彼女の望みなのか誰にも分からなかったが、ある日紙とペンを見つけると、そこに猛烈な勢いで絵を描き始めた。わけの分からない、ただ線をぐしゃぐしゃに走らせただけのでたらめな絵だった。家の中に拘束すると暴れ、付き添っていても暴力を振るったが、画材道具一式を渡すと静かになったので、両親はそのままにさせた。そして夏は昼間の間、一人で外に出て絵を描き続けることになった。迎えに行ったり見張ったりすると怒り狂うので、医者とも相談した結果、彼女は一人で自由に絵を描くことになった。そして昨日、夏の一家はこの真中市に戻ってきた。

だから、夏の母親にとっては、僕が夏を伴って歩いてきたことが驚きだったのだ。あの夜以来、夏が誰かを傍に置いて暴れないのは初めてのことだったらしい。

これからも夏に会いに来てほしい、と夏の母親は言った。

僕は頷いた。頼まれなくともそうするつもりだった。

夏の母親に会釈して去り、自転車を押しながら僕は家路に就いた。その途中、僕の頭の中で幾つもの思考が渦を巻き、言葉が浮かんで消えた。自室の明りを消して、ベッドに腰掛け、しばらくの間、僕は夏の顔を思い浮かべ、夏の描いていた絵を思い出した。僕は知っていた。僕だけでなく、僕たち四人とも、夏のような人間をずっと以前から良く知っていた。そして僕はその事実を受け入れた。

夏はあの人たちになったのだ、と。

 

 

僕は毎日、授業が終わると日光川の河川敷に通うようになった。夏はいつも既にそこにいた。僕は絵を描く彼女から数メートル離れた場所に腰を下ろし、文庫本を開いて読んだ。日が暮れると僕は夏の手を取って家に帰った。場所が変わっただけで二人ともやっていることは以前とほとんど変わらなかったわけだが、もちろん僕の心の中では何もかもが違った。僕は以前よりも遥かに集中して本を読んだし、以前よりも遥かに夏のことを想った。

僕は健一に電話をし、誠二に手紙を書いた。

内容は同じだ。「夏は見つけた。僕が傍にいることにする」。

健一との会話はごく短いものだった。来週の土日に会いに行く、と彼は言い、僕は、分かった、と応えた。

誠二からは、やはり返事は返ってこなかった。彼は言葉を連続して伝えることができなくなっていたのだから当然だった。僕の手紙を読むことができたのかどうかすら分からない。彼の病状が少しでも回復に向かっているのか、僕には知ることができなかった。僕が誠二に送った手紙を彼の両親が読み、代わりに返事を書いてくるという可能性も考えられたが、そうはならなかった。いつまで経っても返事は返ってこなかった。

結局僕は電話をした。だが僕にとってはそれは辛いことだった。電話をしたところで誠二は出られないだろうということは分かっていたからだ。話す相手は誠二の両親になる。友達に会いに行くのにその許可を両親に得るなど、僕達にとってはそれまで絶対にあり得なかった異常な行為だった。電話に出た誠二の母親に、僕は、誠二に会いに行きたいんですが会えますか、と相談した。

「誠二と話したいことがあるんです」

電話の向こう側でしばらく沈黙が続いた。それは誠二の母親が首を横に振る間合いだった。

誠二の母は、それはできない、と言った。誠二は今、誰かと会ったり話したりできる状態ではない、と。

「そんなに悪いんですか」

体も重症だけどそれよりも、と誠二の母は言った、〈あの子はあなた達のことも、自分のことも、半分くらいしか覚えてないの〉

それは記憶喪失ですか、と僕は半分自分に向けて言うように呟いた。

〈だからしばらくはゆっくりさせたいの。そして少しずつ思い出してほしい。あなた達が来て、自分が本当にたくさんの事を忘れてしまったと気がついたら、誠二はつらい思いをすると思うから〉

僕はその後ほとんど何も言えなくなった。電話が切れた後、僕は受話器を強く握ったまま、俯いて、しばらく動けなかった。

何故こんなことが起きたのか、と僕は考えた。健一も、誠二も、夏も、その両親も、僕達の友達はみんな、何故よりによってこんな目に遭っているのか。僕ではなく彼らだった理由は何なのか。これに一体何の意味があるのか。

理由はないし意味もない、僕の理性はそう告げていた。起きたことは起きたことでしかない、と。それだけなのか、と僕は自分に向かって問いただした。だが、こだまになって疑問のまま跳ね返ってくるだけだ。僕の体は恐怖におびえていて、想像力を起動させられなかった。想像力は、自分を今以上に混乱させるに違いないと思い、それに頼ることを僕は断固として拒否し続けていた。

健一は約束通り、週末の休みを使って真中市に帰ってきた。彼の右脚は義足で支えられており、歩かずに直立している限りは不具と分からなかった。松葉杖を補助に持っていたが、ほとんどもう用は無くただの保険だと彼は言った。

「普通の生活だけをするなら、もう以前とあまり変わらない。俺は今まだ成長期だから義足を合わせるのに苦労するけど、それが終われば自分の足とほとんど同じになると思う」

僕達は二人で並んで歩いて夏のいる日光川の河川敷に向かった。少し右足を引きずるように歩く彼と、誠二の事について話した。誠二の母が言ったことを伝えると、健一は表情を変えずに頷いた。そして小さな声で、おじさんとおばさんは辛いだろうな、と言った。僕は頷いた。誠二の両親が彼の身に起きたことへのショックから立ち直っていないのは明白だった。あのずば抜けた秀才、どこまで知性を伸ばしていくのか想像もつかなかったほど、可能性の塊だった息子が突然その能力を失ったのだから、それも自然なことと言えた。僕達やこの街のことなど彼らはもう思い出したくもないかもしれない。

僕は夏の状態について話した。夏はあの人たちになった、僕達の事を覚えているかどうか分からない、と言うと、健一は、生きてればそういうこともあるだろう、と応えた。

「俺が今回分かったのはそういうことだ」

夏が川に向かってひたすら絵を描き続けている間、僕と健一は少し離れた場所でキャッチボールをした。もう何年も使っていないぼろぼろのグローブ二つを、家の押入れの中から引っ張り出してきたのだ。それは既に僕達の手には小さすぎ、手首がむき出しになった状態だったが、事は足りた。健一は足を踏ん張れないので上半身だけでボールを投げたが、彼のコントロールは以前と変わらず完璧だった。僕は悪送球をしないよう細心の注意を払ったが、結局多少送球が逸れても彼は美しいグラブ捌きと僅かなステップでボールを受け止めた。やがて僕はほとんど彼の足の事を気にせずにスローイングするようになった。

その間、ほとんど会話は無かった。夏は休みなく絵を描き続け、僕と健一は延々とキャッチボールを続けた。それは何時間も続いた。風と、橋の上を通り過ぎていく電車と車、そして鳥の鳴き声が、無音と等しいBGMとなり、ボールは僕と健一の間でメトロノームのように規則正しく行き交った。

日が陰り、前触れもなく夏が立ち上がった。それが同時にキャッチボールの終わりだった。画材を片づけ、僕と健一は夏を家まで見送った。

別れ際に、健一が夏に声をかけた。

「じゃあな夏。裕司をよろしく頼む」

夏は、僕に対してそうであるのと同じように、健一の方を見もしなかった。

健一は一晩僕の家に泊まることになっていた。僕の家族とともに夕食を取り、風呂に入った。一応補助の為に一緒に風呂場に入ったが、義足を外した彼の挙動は既に手慣れたものだった。風呂に入る時と出る時以外、彼は僕の助けを必要としなかった。

僕達は寝る前に僕の部屋で映画を観た。

「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」だった。健一が観たいとリクエストしたのだ。

主人公たちがエンドクレジットとともに荒野に向かって去っていくと、僕はビデオを止めて、健一の布団を用意し、部屋の明かりを消した。僕はベッドに横たわり目を閉じた。

健一は眠る前に、呟くように僕に声をかけた。

「裕司、お前、あの夜のこと覚えてるか? あの雨の夜のこと」

ああ、と僕も小さな声で応えた。

「俺は覚えてないんだ。全く思いだせない。何が起こったのか未だによく分からない。誠二も夏もそうかもしれないよな。だからお前には覚えておいてほしいんだ」

「分かった」

「受け入れるしかないんだ。大したことじゃない。毎日自分にそう言い聞かせてる。その通りかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でもどっちにしてもこれが現実だ」

健一はそこで一旦言葉を止めた。彼の深呼吸する音が静寂の中で聞こえた。

「俺はインディ・ジョーンズじゃなかったんだ」

そう言うと、やがて健一は眠りに落ちた。僕もしばらくして寝入ったが、途中で目が覚めた。僕の隣で、健一がうなされている声が聞こえてきたからだ。体を起こし、暗闇の中で目を凝らすと、眉間に皺の寄った苦しげな彼の表情がぼんやりと見えた。その彼の声を聞くと、僕はもう眠ることができなかった。僕も同じような夢を観てうなされているかもしれないのを、彼に知らせたくなかったからだ。

夏と再会して、僕が悪夢を観る頻度は減っていた。だが消滅はしていなかった。

それまでと違い、夢の内容はいつも異なっていたが、どれも悪夢には変わりない。ある夜は、真中市から人が一人もいなくなる夢であり、別の夜はこの街が崩れ落ちる夢だった。僕以外の誰かが追われたり殺されたりして、僕自身は何もできない。僕は健一や誠二や夏が殺される夢も観た。そういう夢を見て目覚めた朝は、目に映る街の光景がひどく歪に、まるで出来の悪い映画のように非現実的に見えた。そしてやがて悪夢が脳裏に残らなくてもそうした気持ちの悪い朝の方がほとんどになり、僕は自分の住む街がかつてと同じとは思えなくなった。僕にとって恐ろしいことに、それが自分の感覚のせいなのか、実際に本当に変わってしまったのか、どちらなのか全く見分けがつかなかった。

僕は最初、そうした話を健一としようと思っていた。僕は彼に訊きたかったのだ、「この街は前と同じに戻ったと思うか」と。

だが結局訊けなかった。同じだと言われても変わったと言われても、僕にとってはどちらにしても恐ろしい回答だったし、何よりもその質問が彼の悪夢の勢力を助長するとしか思えなかったからだ。彼の観ている夢が僕と同じだったかどうかは分からない。しかし間違いなくその地平の先で僕の夢と繋がっていただろう。だとしたら僕は友達の前でだけはできるだけ平気な顔をしていたかったのだ。

 

 

僕と夏はこの真中市で二人きりになった。それとも、夏の意識が僕の目の前にあるとは言えなかったから、僕は一人きりになったのかもしれない。

毎日の生活には全く変化がなかった。僕は放課後になると河川敷にやってきて本を読み、夏はひたすら絵を描き続けた。彼女がそれを破り捨てたりしていない限り、彼女の部屋には既に凄まじい量の絵が完成して重なっていただろう。彼女の絵はいつも同じだった。少なくとも僕にはそう見えた。ただ、どす黒い水のうねりのようなものが、正体のつかめない何物かを押しつぶしてばらばらにし続ける絵だった。

短い秋が終り、真中市に冬が訪れた。僕が最も忌む季節だ。周囲を山脈に囲まれた真中市には、山から吹き下ろす冷たい風がやってきて、朝から晩まで凍てついている。その年の冬は一段と寒かった。

そうした冬でも、夏は毎日河川敷に通って絵を描き続けた。風の逃げ場がないそこは真中市で最も寒い場所と言ってよい。夏はそんな場所で、学校にも戻らず、相変わらず毎日絵を描き続けた。だが、歯をがちがち言わせながらキャンバスに向かう彼女の筆の動きは、明らかに鈍かった。絵の具さえ凍ってしまいそうな寒さだ。僕も多くの日には悠長に文庫本のページを繰っていられず、手をこすり合わせてその場で足踏みをした。僕は家から毛布を持ってきていて、夏の肩に掛けてやり、話しかけた。

「絵を描くななんて言わない。でも、どこか別の場所にしないか? ここは寒すぎる」

夏は僕を無視してキャンバスに筆をぶつけた。

「分かった」と僕は言った、「付き合うよ」

僕は夏の背後に立ち、彼女の肩に触れた。そして彼女を抱きしめたい衝動に駆られ、それを堪えた。僕がそうしたら、彼女は筆を取り落としてしまうだろう。

抱きしめることと、お前の声が聞きたいと口にすることを、僕は何百回押し留まったか分からない。実際そうした方が良かったかもしれない。しかし僕は、僕達があの夜の前まで一度もしたことのないことを、今の彼女に対してする気にどうしてもなれなかった。

健一が言ったように、受け入れる、ということが既に僕の生活にとっても最も重要なものとなっていた。健一と誠二がいなくなったことも、夏があの人たちになってしまったことも、この街が以前と別の街に変わってしまったように見えることも、それにまつわるこの生活の何もかもも、僕は受け入れる必要があった。これは現実で、泣いても喚いても事態は何も変わらないのだ。この状況についての整理はついておらず、諸々がこれからどうなるのかの予測も全く無かったが、これからも僕はここで暮らしていくと決めていた。夏の傍には誰かが必要だと思った。今は他に誰もいないし、何よりも僕がそうしたいと望んでいる。僕はこの街で夏と二人で生活していかなくてはならない。その意識においては、むしろ僕の生活は以前よりも遥かにはっきりとした意味を持つようになった。僕の精神は最早昔とは違っていた。昔は困ったら逃げれば済んだが、今はそうはいかないし、そうするつもりもない。

だから僕は、自分の全身を何重にも包む重苦しい閉塞感にも抵抗しなくてはならなかった。僕と夏は二人ともこの日光川の河川敷に影を縫い付けられていて、日が沈んで影が溶けてしまった時だけ家に帰ることができる。そして日が昇ったらまたここに戻らなくてはならない。そういう、自分の人生が牢獄に囚われているという感覚から逃れられないのを、僕は必死になって乗り越えようとしていた。こんな生活がこれからどれくらい長い時間続いて行くのか、という自分からの問いに、永遠に続くわけがない、とほとんど根拠もなく言い張り続けた。どうなるかは分からなくても、これまでもそうだったように、少なくともずっと同じ生活が続くわけがない。

そしてその通りになった。僕は最初、その存在に気がつかなかった。先に気が付いたのは夏で、彼女が指差す方を見やっても、それが何なのかまだ分からなかった。

彼女はキャンバスから視線を外して、日光川の汚い川面を指差していた。

昔から日光川はあらゆる種類のゴミを上流から下流に運んできた。工場の排水に始まり、廃材や、朽ち果てたボートや、折れた木々や、腐った魚や動物の死体や、ありとあらゆる家庭のゴミを。何らかのゴミが漂っているのが通常の状態なのだった。

彼女が指差す先にあるそれも、そうしたいつもの何かに違いなかった。汚い川の水に隅々まで汚されきった大きな布袋が、ぷかぷかゆっくりと河口に向けて流れ落ちていくのを、僕は夏と並んで見つめた。彼女がしばらくして再びキャンバスに目線を戻すと、僕もそれから目を離した。僕はそれが何なのかをほとんど考えさえしなかった。

あえて最初に目に映った瞬間の印象を言うなら、それはまるで人間の死体に見えた。本当にそうだったと僕が知ったのは、翌朝のテレビニュースでだった。そして死んだのは、横山一紀だった。

 

 

 

報道によれば、その死体の身元は真中市からほど近い街に住む十四歳の少年で、名前を横山一紀と言った。横山少年は一カ月以上前から行方が分からなくなっており、捜索願いが出されていたところだったという。死体は日光川の下流で桟橋に引っ掛かっているのを付近の住民によって発見された。後頭部に鈍器で強く殴られた痕があり、警察は殺人事件として犯人の行方を追っている。

僕はこのニュースを見た時、全ての判断を停止するよう自分に命じた。何故なら、テレビニュースではその横山少年の顔写真はまだ公開されておらず、殺された少年が本当にあの横山かどうかはまだ断定できなかったからだ。

登校すると、校内はそのニュースをめぐって騒然としていた。クラス内に、事件を知らぬ者は一人もいなかった。情報源は皆僕と同じだったはずだが、全員が、殺された横山少年はあの横山だと信じて疑っていなかった。男子生徒達は声高に噂話をし、女子の中には既に泣いている者もいた。何故誰に殺されたのか。一か月も前から行方不明だったとはどういうことか。答えが全くないまま、何度も繰り返し疑問だけが提示され、クローズアップされた。哀悼よりも明らかに興奮の濃度の方が上だった。正直に言って、その感覚は僕にも分かる気がした。横山には友達が一人もいなかった。いつも一人でウォークマンを聞いていて、誰とも会話することが無かった。普段も、そして以前その父親が亡くなった時も、一切詳細を開示しない男だった。そういう彼の人となりから言って、同情よりも謎への疑問の方が先立つのは自然な流れだった。それにただでさえ、これは真中市にとって大事件だった。以前の横山の父親の時とは違い、これは最初から殺人事件だと断定されていたのだから。誰一人具体的な情報は持ちえない中、ホームルームが始まった。

担任教師の顔は、今まで誰も見たことがないほど暗かった。

知っている者もいるかもしれないが、と前置きして彼は話し出した。

「九月に転校した横山一紀君が、亡くなりました。これから体育館で緊急の全校集会を行います。そこで校長先生から詳しいお話があります。先生もさっきこの知らせを受けたばかりで、本当に驚いています。とても悲しい知らせです」

彼は今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。教室の中はしんと静まり返って、もう誰も騒がなかった。

そして体育館で始まった全校集会の間中、僕は自分の心臓が猛烈なスピードで拍動する音に意識を吸い寄せられていた。校長の話の内容は、担任教師が言ったことのほぼ繰り返しに過ぎなかった。わが校の生徒だった、横山一紀君が亡くなりました。警察から今朝連絡がありました。殺人事件として捜査が始まっています。詳しいことはまだ分かっていません。突然の事件と知らせで、私もただ皆さんと同じように驚き、悲しんでいます。とても悲しい、許されない事件です。事件の一刻も早い解決を願い、亡くなった横山君のご冥福を祈り、黙祷を捧げましょう。

横山が殺された、と僕は考えた。死んだのは本当に彼だった。その事実はぐるぐると全身を駆け巡って回転し続け、何の回答も導き出さなかった。僕も周りの生徒たちと状況は同じだった。全く訳が分からなかった。正直に言って、僕は仮に彼が自殺したという知らせを受けたとしても驚きはしなかっただろう。だが殺されたというのは、その理由が全く見当もつかない。横山の暗い顔が脳裏に浮かんで、僕の中に悲しみが充満しようとするのだが、謎で頭が混乱しているせいで、その感情が一塊になることができなかった。

全校集会の最後に、用なく街をふらつかないように、また帰宅時には複数人で一緒に帰るようにという指導がなされた。

もちろん僕はそれを無視せざるを得なかった。夏のところへ行かなくてはならなかったからだ。

その日から事件捜査のため、日光川の左右両岸は真中市の全域に渡って封鎖された。僕は臨時休校となった学校から帰ると、すぐにいつもの河川敷に向かったが、警察官が点々と立っており、この付近は立ち入り禁止だから近づくなと言った。日光川の上流から下流にかけて、捜査班たちは川に潜って犯行にかかわる物品を捜索しているようだった。想像を絶する過酷な作業だと僕は思った。あらゆるものが沈殿しているこの川で、一体何を探せばいいのだろう。

とにかくそのような状況だったから、夏の姿はどこにもなかった。自転車にまたがり、彼女が行く可能性がありそうなところ、公園や、神社や、小学校を走って回ったが、彼女はどこにもいなかった。やがて、僕は試しに夏の家を訪ねた。夏の母親が出てきて、あの子は今日はずっと家にいた、と告げた時、僕の肩にどっと疲れが押し寄せてきた。

「あの子に会っていく?」

僕は頷いて、夏の部屋まで上がっていった。彼女の部屋を訪れるのはかなり久しぶりのことだった。最後に来たのは少なくとも一年以上前だ。その時は確か健一も誠二も一緒で、夏が描いた絵を観て、彼女が弾くピアノを聴き、彼女が好きな音楽CDを聴いたのだった。

夏の母が部屋のドアをノックしたが、返事はなかった。夏の母はゆっくりとドアを開け、僕を部屋の中に通した。窓が開けられていても、絵の具の匂いの充満した部屋だ。夏はいつもと変わらない姿勢で、僕達に背を向けて絵を描いていた。裕司君が来てくれたわよ、と夏の母が声をかけても、彼女は振り向かなかった。

僕は部屋の隅にあった椅子に腰かけた。夏の母は僕にオレンジジュースを出してくれた後買い物に出かけ、僕たち二人だけが部屋に残されると、ほぼ完全な静寂が部屋を包んだ。普段の日光川での空間と違い、川の流れる音も風の音も行き交う車や列車の音もしない。

僕は部屋の中を見回した。その光景はかつて見たものとはずいぶん違っていた。もともとあまり少女性の無い部屋ではあったが、最早完全に消滅して、むき出しになった彼女の精神が部屋全体を覆っていた。とにかく目に入るのは、予期していた通り、壁じゅうに立てかけられ重なった大量の絵だった。ざっと見ただけでも四、五十枚はある。しかもそのほとんどは灰や黒っぽい色で埋め尽くされているため、部屋全体が陰鬱に暗い。床には絵の具のチューブや画用紙が転がり、カーペットはあちこちが絵の具で汚れている。ベッドにはめくれ上がったシーツの上にぐしゃぐしゃの毛布が乗っかっていた。

僕は、横山が殺されたことを夏に告げるべきかどうか、一瞬だけ考えた。そして、そうするべきではないと判断した。今の彼女にその意味が伝わるようには思えなかったし、もし伝わるとしても、それは夏にとって良い知らせでもなければ、彼女の精神を良い方向に回転させるものでもあるわけがない、と思ったからだ。

僕は夏の少し後ろに立って、いつものように、彼女が描く絵を見つめた。相変わらず黒く暗い。僕の胸は締め付けられた。あまりにもきりきりと胸が痛むので、まっすぐ立ったままの姿勢でいられなかった。胸に手を当て、少し俯いて、いつまで彼女はこんな時間を過ごし続けることになるのだろうと考えた。しばらく前からそうだったが、僕はとにかく彼女が生きてさえいればよく、彼女の好きなように自由にさせるのを自分はずっと見守っていればよいとは考えられなくなっていた。たとえ僕がよくても、こうした時間を夏が心から望んでいるとは到底思えなかった。

僕は壁に立てかけられた大量の絵を、一枚一枚取り上げて眺め始めた。多くはどれも同じ、僕がこれまで河川敷で描かれるのを見てきた黒い川と大雨の絵だった。筆致は荒々しく、色はどこまでも暗く、形はどこにもなかった。イメージだけの絵で、どこまでも広がっていき、すぐにでも別の何かに変換可能な絵に見えるのに、過去にも未来にも現在にも、どこにも進んで行かない絵だった。僕はその絵を一枚ずつ、奥歯を噛みしめながら見ていった。

そして唐突にその絵は現れた。黒ばかりの絵の海から突然、極彩色の空間が現れた。僕はその一枚を取り上げ、両手で持って、目の高さまで掲げた。黒から一転、赤と黄色に埋め尽くされたその絵は、だが、決して輝かしい何かを描いたものではないということは一目で分かった。二人の人物が向かい合っていて、一人の人物は真っ白い衣装を身にまとい、もう一方は黄色と緑のまだら模様の服を着こんでいる。真っ白の衣装を着た方は髪の毛がぼさぼさに伸び、まだら模様の服の方は、頭に白いタオルとサングラスを付けている。真っ白い服を着た男は、片手に白く円い何かを空に掲げている。二人とも、互いを抱え込んで、崩れ落ちそうな体を支えている。平面に戯画化されたその絵はまるで古い宗教画のように見えた。

僕は茫然とその絵を見つめた。

描かれた二人が誰なのかはすぐに分かった。日光仮面と、あの神社の男だ。

そしてこの絵が何を描いているのかも分かった。

これは二人の体が入れ替わる絵だった。

神社の男が持った鏡に照らされて、日光仮面と男の体が入れ替わる瞬間の絵だ。

僕は絵の表面に触れ、この絵があの大雨の前に描かれたものだと直感した。夏が言ったことを僕は思いだした。あの人は生きていたんじゃないか、と夏は言った。この絵を描かなければ夏がそんなことを言ったはずがない。

しばらくの間、僕は絵の色と線を辿り、立ち尽くした。頭の中で黄と赤と白の色が氾濫した。

そしてやがて首を横に振った。僕は夏に、止めろと言った。あの夜だけでなく、それまでも折に触れて何度も言った。描いたことは本当になるかもしれないから描くなと言ったのだ。他の誰にも分からなくても、夏にはその意味が分かっていたはずだった。

「描くなって言ったのに」

息が漏れるようにそう声が漏れた。振り返って夏を見つめた時、彼女も僕を見返していた。それは死体のように冷たい目で、再会して以来初めて僕達の視線が交わった瞬間だった。

その彼女の目を見た時、僕に湧き上がってきた感情は、激しい怒りだった。その感情は瞬間的に僕の全身を覆い尽くした。それが彼女に対してのものなのか、今僕達が置かれた現実に対してなのか、それとももっと別の何かに対してなのか、僕には分からなかった。分かっていたのは、こんなに激しい怒りを感じたのは生まれて初めてだということだけだった。僕は一瞬で自分が全く別の人間に変わってしまったように感じた。

僕は夏を睨みつけ、傍らにあったペインティングナイフを取り上げた。そして日光仮面と神社の男が描かれた絵に振り返り、逆手に握ったナイフを高々と掲げ、全力で振り下ろした。

ナイフがキャンバスに突き刺さり、僕はその絵をまっすぐ縦に切り裂いた。ナイフを放り捨てて、その裂け目を両手でつかみ、思い切り左右に引き裂いた。その瞬間に、僕の背中に夏が飛びかかってきた。彼女は僕を絵から引き離そうともがいたが、僕は構わずにその絵をびりびりと引き裂き続けた。とても人間とは思えない夏の叫び声が僕の耳に突き刺さったが、僕の方も彼女と全く同じような、自分でもよく分からないうめき声をあげていたからまるで気にならなかった。僕は言葉にならない大声を上げながら絵を引き裂いた。

二度と原型に戻れないほど絵が散り散りになってしまった頃、夏が僕の左耳に噛みついた。彼女の唸り声とともに強烈な痛みが僕の耳を貫き、僕は夏の横顔を右手で思い切り平手打ちした。耳の一部が千切れる感覚がして、夏は倒れ、僕は彼女の体を組み敷いて馬乗りになった。彼女の肩を押さえつけ、額を彼女の額に押し付け、動きを封じた。夏は激しく首を横に振ってそれから逃れようとしたが、僕はごりごりと額を彼女の顔に押し付け続けた。僕の血が彼女の顔に滴り落ちた。

「馬鹿野郎」と僕は言った。

長い時間が経って、夏の抵抗が止んだ時、彼女は泣いていた。どこにも焦点の合わない目からぽろぽろと涙が落ちていくのを見下ろしていると、僕の目から同じような涙が零れ、僕の血とともに彼女の頬を伝って流れ落ちた。

 

 

警察による日光川の全面封鎖は、それほど長くは続かなかった。せいぜい一週間ほどだ。しょぼくれた小汚い川とは言え、その流れの全てを攫うには短すぎる期間だった。僕達市民には何らの新情報ももたらされなかったが、警察はおそらく何かの証拠や手掛かりを見つけ出したのだろう。さもなくば、これ以上ここを探しても何も見つからない、と見限ったかのどちらかだ。少なくともただ単に諦めたのではあるまい。

しかし横山を殺した犯人は、依然として見つからなかった。捜査の実際がどうであれ、市民には犯人につながりそうな手がかりさえ全く開示されなかったため、漠然とした不安だけが街に留まり続けた。学校の授業もすぐに再開された。悲しみと疑問と不安の混沌はあっても、図形の合同証明や酸化反応や英語の受動態と言った明確なルールはそれとは無関係に進んで行った。じたばたと悩んでも事態は一切解決しないのだから、その無関係性を僕たちは歓迎した。それは少しずつ、僕達を事件から遠ざけ、隠した。実際、数週間を過ぎると、捜査が続いているのかどうかさえ僕達には分からなくなってしまった。人が死に、犯人は捕まっていない、それはつまり、僕達はことによると殺人犯が今も潜む街に生活しているのかもしれないということだったが、その恐怖がリアリティを伴うことはほとんどなかった。それは決して僕一人だけの感覚ではなかった。もしあったとしても、巧妙に、周到に隠されていて、誰一人普段の生活の中でそれを口にしなかった。確かに不安はあるが、生活を止めるわけにはいかない。ある日突然殺人鬼が現れて殺されるかもしれないという想像がリアルだったとしても、それに対して現実的に何をすれば良いのか。今はまだそれは起きておらず、兆しもない。可能性が何パーセントなのか誰にも分からない。僕達は結局、その現実を意識するかしないかに依らず、受け入れて生活するしかなかったのだ。

捜査の進捗の有無とは何の関係も無く、僕と夏の生活は変わった。夏は、日光川が封鎖された日以来、そしてその封鎖が解けた後も、一切外出をしなくなった。彼女はひたすら家に引きこもって絵を描き続けるようになり、僕が彼女とともに過ごす時間は大幅に減少した。僕は彼女の元に毎日通ったが、長い時間あの部屋にいるのは居たたまれなかった。部屋の空気は依然として重苦しく、彼女は僕を二度と見ようとはしなかったのだ。事象は以前と同じでも、その理由は違った。少なくとも僕にはそう思えた。事情はどうあれ僕は夏を殴ってしまった。他の誰を殴っても、彼女にだけは一生暴力を振るうことはないだろうと思ってきた女が、人生で初めて本気で殴った相手になってしまった。その感触は僕の体の中に重く残り、夏の家の敷居を高くさせた。僕はそうした自分の罪悪感をどうにか叩き伏せて、毎日夏の家に通った。

僕の耳の傷が完全に治った頃、僕は夏の母と話した。

夏の母が、夏を連れて家族皆で県外に出ようかと考えている、と打ち明けた時、自分がどんな顔をしたのか思い出すことができない。僕の心の内にあったのは二つの感情だった。それが正しい道だと思う感情と、彼女と離れたくないという感情の二つだ。どちらも、いずれがより正直か比べることができない強い思いだった。

「でもあの子はこの街から離れたがっていないかもしれない」

だから迷っている、と夏の母は言った。僕は彼女に対して、どっちが正しいのか僕には分からないです、と言った。

「でもこの街に残るんだったら、俺がきっと何とかします」

何の根拠もない台詞だった。僕の言葉を頼りにしたわけではないだろうが、結局夏の家族は真中市の外へ引っ越すことはなかった。家族と僕以外とは同じ空間にいることが一切できない夏が行く場所を、夏の両親は見つけることができなかったのだと思う。

実を言えば僕の家族も同じ問題を抱えていた。両親は、真中市を出て別の地に居を構える計画を立てていた。ダメージを受けた家と、街を包む漠然とした不穏なムードと、人が変ってしまったような自分たちの息子を見て、二人がそう考えたのも、理解はできた。だが僕はそれには真っ向から反対した。今この街を出て行くことだけは僕はどうあっても了承できなかった。二人が出て行くのはいいけれど俺だけでもここに残らせてほしい、と僕は言った。それによって僕と母は大いに喧嘩したが、結局は両親が折れた。今ここでこの街を出ていけば一生後悔することになると、僕には分かっていたし、両親にもその僕の意志は伝わった。

そうした日々を過ごす中で僕は中学三年生になった。1996年だ。高校受験は目前に迫っていて、クラスの雰囲気は引き締まり、誰もが来るべき別れの時に備えようとしていた。

クラスメートとは動機が違ったかもしれないが、僕もそうだった。僕は茫漠とした気分で授業を受けることを止めていた。一分一分集中し、教師の言うことに耳を傾け、机の上に広がるテキストに意識を集中した。そこに意味があるかどうかは分からなかったが、これはこの後に続く未来において、前提的に知っておくべき情報なのだと自分に言い聞かせた。知っていてもメリットはないかもしれないが、知らなければ不利になる可能性が高い。完全に意味がないのであればそうと分かった後で捨てればいい。僕は成長することを欲していた。ずっとそうだったが、それまでに決してなかったほど、僕は一刻も早く大人になりたかった。僕はことによると、これからの人生では二人分を生きなければならないのだ。そうだとしたら僕は一般的な他人にビハインドを背負うことはできなかった。僕の成績表にぽつぽつとではあるがついに「5」がつき始めたのはその頃からだった。

そして僕は毎週、健一と誠二に宛てて手紙を書いた。

今読んでいる本や、聴いている音楽、少し前に観た映画、そして夏のことを書いた。表面的には、夏についての描写も含めて、まるで全てが何事もなく順調に進んでいると錯覚しそうなほど、平和で穏やかな手紙だった。事実そうだったのかそうでなかったのか、自分自身にも分からなかった。しかし正直に言って僕は意識してそのように印象を誘導しようとしていたとは思う。僕の中で言葉というものの影響力が日に日に大きくなり、暗いことや忌まわしいことを書けば、事実はどうあれ自分自身もそちらに引きずり込まれることになるのだと感じていた。友達から元気を取り去るような言葉を書くくらいなら、黙っていた方がましだった。僕が二人に伝えたいのはとにかく、僕は元気でやっているということだった。

毎日勉強し、本を読み、夏の元に通うという日々は夏休みになっても全く変わらなかった。授業があろうがなかろうがどうせやることは同じだ。僕は夏に向かって、健一と誠二に手紙を書くのと同じような調子で、読んだ本や観た映画のことについて話し、時々は今読んでいる本を朗読して聴かせたりしたが、彼女の様子は去年の十一月の終わりに再会した時から全く変わらなかった。

僕の生活に唯一変化をもたらしたものと言えば、九月の末に僕が通う中学で催される文化祭に、文芸部の引退に合わせて出し物を用意するよう求められたことだった。そう言えば僕は文芸部に所属していたのだが、このころには完全にそのことを忘れていた。僕はもうあの閑散とした文芸部室にほとんど出入りしていなかったし、去年はあの大雨の影響で文化祭自体が実施されなかったから、猶のこと僕の記憶にとどまりようがなかった。夏休み前、同級生の部長が僕の席にやってきて、何か発表できるものを用意するように促した。僕は頷いたが、何を出すのかは全く考えていなかった。

短い小説を書くことにしようと決めたのは、既に夏休みが半分以上終わったある日のことだった。僕は夏の家に行き、彼女に内容のほとんど無い話をし、そして彼女の隣で絵を描いた。彼女とは比べるべくもない、とても他人には見せられない下手くそな絵だった。しかも夏にとって申し訳ないことに、僕が描いていたのは彼女の横顔だった。仮面のように、朝から晩まで一切表情が変わることがないその顔は、僕の脳裏に既にはっきりと焼き付いていたから、モデルがたとえそこにいなくても僕はその絵を描くことができたぐらいだ。僕は何日も、鉛筆で彼女の顔を何度も何度もデッサンした。僕の絵の中の彼女は、時々は目の前の現実の通り、無感動で無表情だったが、多くの場合は笑顔だった。だがなにしろどうしようもなく下手な絵だったから、大体の場合自分自身に対して不愉快な気持ちになって彼女の家を後にするのだった。

そうしたある日の帰り道、僕は何か別のことをやるべきだと考えた。絵を描くことは残念ながら自分には向いておらず、これ以外なら何でもいい。そしてその瞬間に直感が現れた。おそらく何か文章を書くのがいい、と。文章を書くのも得意ではないが、少なくとも絵を描くよりはましだ、と考えた。

僕は机の上に大学ノートを開き、右に90度傾けて、縦書きに文章を書き始めた。どういう話にするのか全く考えずに、一行一行ゼロから考えた。やり始めてみると、それはまるで、恐ろしく霧の深い崖を身一つで少しずつよじ登っていくような感覚の作業だった。手の届く範囲のぎりぎりに触れる岩をつかんで、体を引っ張り上げて少しずつ進んでいく。次の場所に登るまで、そこに何があるのかを予め知ることはできない。僕は小説の書き方など知らなかったので、知っていることだけを文章にするしかなかった。知らないことを描かなければならない場合は、仕方がないので想像力でその空白の輪郭だけを覆い、後は余白とするという方法を取った。結果出来上がったのはノート15ページ分という非常に短いテキストだったが、どうにか物語と呼ぶべきものとなった。僕はほとんど一日中机にかじりついて文章を書き続けたにもかかわらず、それを仕上げるのに2週間もかかった。

粗筋はこうだ。あるところに少年と少女がいる。ごく普通の、中学生くらいの男女だ。二人は恋人同士でもないし、友達同士でもない、どう名付けたらよいのか分からない関係にあり、長い間つながりが続いている。おそらく少年は少女を愛していることが示唆されるが、少女の方が少年をどう思っているのかは分からない。ある日少年は、自分の身に特別な力が備わったことに気がつく。空を飛ぶ能力だ。自由に空を駆け巡るその能力を使って、少年は旅に出ることにする。少年は少女に言う、「この力でいなくなった友達を探してくる」、と。しかし、どれだけ空を飛びまわって遠くへ行っても、いなくなった彼らの友達は見つからない。少年は思う、「友達がいるのはもっと遠くだ」と。彼は世界の果てまで旅をする。世界の果てまで飛んでも見つからないので、今度は反対側の世界の果てまで飛ぶ。それでも結局見つからない。彼の体はぼろぼろになる。少年は気がつく、「もっと遠くというのは、時間も空間も超えた、今の僕には分からないどこか遠くだ」と。その時、彼の体はその場所から消えてしまう。そして、長いのか短いのかどれだけ時間が経ったのか分からないある日に、少女は友達に囲まれて談笑している。少年がずっと探し追い求めていた友達に。その輪の中に、少年の姿はない。彼らは少年の事を決して口にはしない。彼らが少年のことを覚えているかどうかも分からない。彼らの頭上に影が落ちる。ふと空を見上げると、鳥の一群がはるか上空を横切っていく。

そんな物語を、文化祭にコピー本にして提出した。それは何人かの人の手に取られ、いくつかは残った。しかし、もとより全く期待していなかったが、僕にその物語の感想を告げる者はほとんどいなかった。根本的な文章の精度の問題はさておき、自分で振り返ってみても、この物語はあまりにも個人的過ぎたから当然だった。僕と僕の友達にとっての意味はあったかもしれないが、それ以外の人たちにとっては実体のない、現実的な意味でも物語的な意味でもリアリティに欠けた妄想にしか見えなかったことだろう。しかし僕にとっては切実な物語だった。書き始める前はこれが自分にとって切実かどうかなど全く考えていなかった。そもそもどんな物語を書くのか考えていなかったし、より正直に言うなら自分が書こうとしているのが物語なのかどうかすら考えていなかった。だが書き続けると、そこに刻まれた一文字一文字の意味がどんどん膨れ上がっていった。僕は自分が、物語に描いた少年と同じように、たとえ代償があっても、空を飛んで、それでも足りないくらいに果てしない成長とか突破を求めているのだと感じた。

たった一人だけ、僕の小説に感想を送ってくれた人がいた。文化祭が終わると三年生の文芸部員は自動的に引退となったが、その時に一人の女子生徒から手紙を渡されたのだ。彼女は、一年前にあの雨が降るまでは、僕とともにいつも部室で本を一緒に読んでいた数少ない部員の一人で、同級生だった。部員達には予め、文化祭での発表物は共有されていたから、彼女はとっくに僕の小説を読み終えていたわけだ。

僕は、ありがとう、と言って手紙を彼女から受け取った。彼女は微笑んで、恥ずかしいから後で一人で読んでね、と言った。手紙の前半部分に僕の小説の感想が書いてあった。とてもいい小説で、あなたの気持ちがとてもよく分かる、とそこには書かれていた。

「私も同じようなことを思います。今の自分じゃない誰かになって、ここじゃないどこかに行きたいといつも願っています。主人公の少年が愛する人の為に、見返りを求めないで飛んでいく気持ちが、私にもよく分かります」

そして、後半に書かれていたのは僕への告白の文章だった。

僕のことがずっと好きだった、と手紙には書かれていた。

「中原君のことがずっと前から好きでした。あなたが私のことを好きじゃないのは知っています。でも、このまま何も言えずに後悔したくないから、この気持ちはどうしても伝えたいと思います」

僕はその手紙を何回も読み返した。そして茫然とした。心底から戸惑ったし、ショックさえ受けたと言っていい。全く予想もしない初めての経験だったし、自分のことを誰かが好きになることがあるなどと、僕はそれまで可能性すら考えたことがなかった。笑えない冗談ではないかと現実逃避しそうにもなったが、手紙に刻まれた切実な雰囲気はどう読み取っても真実だった。いつも部室で静かに本を読んでいた彼女の姿が瞼の裏に浮かび、僕は記憶の中で彼女の感情の根拠を探ろうとしたが、兆しさえ見つけ出せなかった。僕はこの時、自分がいかに周りのことが見えない、自己中心的な男かということを実感した。

結局、他には一つも方法が思いつかず、僕は手紙の返信を書くことにした。

僕は最初に、ありがとう、と書いた。感想を書いてくれて本当にうれしかった、このことは忘れない、と。そしてその後に、ごめん、と書いた。俺には好きな子がいて、自分のことをどう思っているのか分からない相手だけど、その子から離れることはできない。

大体そういう内容の、短い手紙だった。僕はその手紙を彼女の下足箱に投函し、僕達はその後二度と話し合うことはなかった。

僕は自分の小説が書かれた冊子を健一と誠二にも郵送することにした。僕は彼らにも読んで欲しかったし、彼らの感想が聞きたかった。彼らにはこの物語に書いたようなことは、改めて文章にするまでもなく既に伝わっているような気はしたが、読んでもらうということそのものが重要だと思った。

だが僕は結局それを直前で取りやめることになった。文化祭の数日後、僕が郵便局に行こうとしたその日に、僕達の街で第二の殺人が起こったからだ。

 

 

 

僕は横山が殺された時と同じように、朝、テレビニュースでその事件を知った。

リビングから会話が消えた。暫くして母が、ええっ、と声を上げた。母は何度も、ええっ、とだけ言った。

僕は無言だった。ただ目を見開いてニュース映像を見つめた。

殺されたのは四十八歳の女性だった。彼女は生まれも育ちも真中市で、この街から一歩も出たことがなく、日々のほとんどの時間を自宅の軒先で過ごしていた。友達や知り合いは多くはなく、彼女自身口数も少なかったから、彼女の周囲に立ちこめる孤独は壁画のようにその地に固着した。彼女には夫がいたが、子供はいない。いつも同じエプロンを身につけて、風が吹こうが雨が降ろうが雪が降ろうが必ず玄関前の同じ場所にいた。時々野良犬や野良猫が彼女の前を通りかかると、彼女は餌を投げてよこしてやったり、何もせず無視したりした。

こうしたことは、新聞やテレビで報道されたわけではない。最初にニュースが僕に知らせたのは、彼女の顔と名前、そして彼女が後頭部を鈍器で殴られて死に、神社の裏手の林の中で倒れていた、という情報だけだった。それなのにどうしてそんな彼女のプライベートについて説明できるのかと言えば、僕は彼女の事を前から知っていたからだ。僕だけではない。健一も誠二も夏も同じように、殺された女性のことを知っていた。

彼女はあの人たちだった。僕達が小学生の時に出会って回った真中市に住む多くのあの人たちの内の一人だ。彼女は僕達に「料理おばさん」と呼ばれていた。その名の由来は至極単純で、彼女がいつも自宅の玄関の前で、燃え盛る薪にくべられてぐつぐつと煮立った鍋を、いつまでもいつまでもかき混ぜていたからだ。断続的に食材がその鍋に投下され、そしてドロドロに溶けてしまうまでかき混ぜる。彼女がその料理を完成させて食べているところも、誰かに食べさせているところも、僕達は見たことがない。僕達は一度だけ鍋の中身を覗き込んだが、僕達が昔、公園の砂場で作った泥の料理にそっくりの姿形だった。それはまるで魔術的な儀式のように見えないこともなかった。

その「料理おばさん」が殺された。僕はもちろん、真中市に住む誰もが、一年前の殺人事件を思い出した。横山を殺した、あの事件の犯人は相変わらず捕まっていないのだ。直接の死因は二人とも同じであったから、犯人は同一人物であると誰もが考えた。もちろん二件目が模倣犯という可能性もあったのだが、一人が二人を殺すだけでも十分すぎるほど異常なのに、二人も殺人犯がこの街にいるなどということはそれ以上に狂った事態であったから、誰もその可能性については考えなかった。

殺された二人の人物に共通項がないかと警察もマスコミも探ったが、そういったものは全く見つからなかった。二人には過去に何の関係もなく、共通の知人もなく、年齢や性別も全く違うし、社会的な立場にも全く共通点がなかった。

殺された理由も、彼らを殺した犯人も、誰にも全く見当がつかなかった。

この事件によって真中市は瞬く間に一種の恐慌状態に陥った。誰一人授業に集中などできず、休み時間の間は常にその話題で教室全体が埋め尽くされた。僕は無言で、同級生たちが繰り広げる、延々と同じ仮説と噂話が循環する渦の中にいた。テレビのニュースコメントでの一言、週刊誌の記事の切れ端、関係者の噂話。教師もそれを制御することなどできなかった。彼らとて同じように、意味不明な事態の原因が全く分からず、不安に駆られていたのだ。殺された女性があの人たちであることを知っているのは僕だけだったようだが、僕は一言も喋らなかった。

そうした恐慌が起こったのは学校の中だけではなく、街全体だったが、外で起こったのは、学校の中とは全く別の現象だった。それは急速に、空気となって僕の肺に染み込んだ。道という道から人の気配があっという間に減少し、音が遠ざかったのだ。誰もがいそいそと歩いていき、誰の声も聞こえない。一年前の時とは違った。あの時はどこか非現実的な雰囲気が事件全体を覆い、それが日常を生きる人々の生活にまで害を及ぼすものかもしれないという想像力はぼんやりとしか存在しなかった。横山少年は、何らかのトラブルの結果、真中市の日常を生きる人々とは無関係なところで、たまたま殺されてしまったのだと思われていた。だが今回は違う。現実感があろうとなかろうと現実に次の殺人は起こり、さらに犯人がどこかにいて今後も誰かを殺す可能性があることがはっきりしたのだ。一度だけの例外ではなく、続いていくかもしれないと示されたのだ。小学生は保護者の同伴での帰宅が義務付けられ、中学生以上も複数人で下校し、寄り道せずに十七時までに必ず帰宅することが厳命された。市民がいなくなった一方、連日マスコミが街を闊歩し、あちこちで私服制服を問わず警官を目にした。

僕は夏の家に通わなくてはならなかったし、両親が二人とも働きに出ていたから、十七時以降も少しは街を出歩くことになった。その時僕が目にした夜の街の風景は、かつての真中市の様子とは完全に違っていた。人通りが無いのはもちろん、車さえほとんど通らない。遠くから電車の走る音が聞こえるだけで、動くものの姿がほとんどない。虚無的な光景だった。この時点での真中市は、僕の目にはどう見ても普通の街ではなかった。僕がかつて夢に観た光景に近かったが、空虚さという意味ではそれよりもひどい。僕はそうした街の様子を目にしながら、自分の書いた小説に思いを馳せること、この文章を書いた時の感覚を他人と共有したいと思うことがあっという間にできなくなった。既に物語よりも現実の事態の方が先に進んでいて、僕の現実感を上書きしてしまったのだ。僕は健一と誠二に、小説を送るのではなく、手紙を書いた。

 

「二回目の殺人が起きてから、街中が静かになった。

神社の前のたこ焼き屋だけは相変わらず繁盛しているけど、出入りする客は子供とか家族とかじゃなくて、取材や捜査をしている真中市の外から来た人たちだ。

夏の様子は何も変わらない。家から出ていないから、あいつが街の状態を知っているわけはないけど、それにしても変わらなさすぎるくらい何も変わらない。毎日ひたすら絵を描いているだけだ。

受験が目の前に迫っているから、僕は家に帰ると毎日勉強しているけど、こんなことをしていていいのかどうか分からなくなる。

どうも変な感じがするんだ。それをどう説明したらいいのか分からない。住んでいる街で人が殺されたんだから、二人とも自分が知っていた人間なんだから、そしてその犯人が誰だか全く分からないんだから、不安なのは当たり前かもしれない。でもそういうことだけじゃなくて、この街でこんな事件が起こることが変に思えて仕方ないんだ。だってそうだろ? 昔から、僕達にとってはこの街は何も起こらない街だった。それが今、事件のど真ん中にいる。一番変なのは、それと同時に、俺がもう、どうして何も起こらないと信じていられたのかが、分からなくなってしまったことだ。

犯人が早く捕まってほしいけど、捕まらない気がする。どうしてそう思うのかも分からない」

 

そういう内容の文章を、健一と誠二両方に送った。

そして僕の理由の無い直感の通り、犯人が捕まることはなかった。テレビのワイドショーで犯人のプロファイリングが試行されたり、殺された「料理おばさん」の人となり――非の打ちどころのない、近所でも評判の穏やかで優しい人物像――が明かされたが、犯人の具体的な情報は、一週間たっても、一ヶ月経っても、一切示されなかった。そしてやがていつもの通り、報道から真中市の情報は消え去った。新しい情報がないのだから、消えていく以外に仕方なかった。

しかしもちろん真中市の住民たちの頭の中から消え去ることはなかった。戦争中の日本本土というのはこれに似た雰囲気だったのではないだろうかと僕は思った。日常はぎりぎり保たれているが、いつどこに非日常が出現してもおかしくないと、皆が想像している。あるいは、日常と非日常が混ざり合って、その境目が全く分からない。真中市には、空襲警報が鳴るわけでもないし、防空頭巾も竹槍もない。しかし携帯用の防犯ブザーを持たない小学生は最早一人もいなかったし、家の扉にチェーン鍵を必ず掛けることは習慣化し、街のスポーツ用品店で金属バットが売り切れた。殺人犯も、空のどこかを飛んでいるB‐29も、脅威の正体が一切僕達の目に見えないという点においては変わらなかった。

そうした生活の中では、日を追うごとに、精神的に衰弱したり、うつ病を発症したりする人が異常に増えた。学校を休む同級生や下級生が何人も現れ、県の教育委員会から派遣された心理カウンセラーが真中市内の学校を順繰りに回って生徒たちのケアを行った。授業の合間に、同級生たちの間で冗談を言い合う声にも空々しい響きがある。誰もがそれを自覚していたと思う。恐怖が頭の中で増幅する、その気持ちは僕にもよく分かった。僕がその恐怖を堪え、生活から足を踏み外さずにいられたのはおそらく夏がいたからだ。彼女が事件が起こる前と後とで全く変化がなく超然と絵を描き続けていることが、僕の気持ちをいつも落ち着かせたのだ。

精神に負担がのしかかっているのは子どもたちだけではなかった。教員にさえ失調を訴える人がいたし、この街で生活を営むありとあらゆる人にその火種があった。そしてその症状は、僕の母にも顕れた。

ある日母は、父と僕に向かって、断固としてこの街を出るべきだ、と言った。

母に言わせれば、既にこの街に住む理由は何一つなかった。仕事場からも遠く、生活にも不便で、娯楽も少ない。去年の大雨の後でその不便さには拍車がかかっている。家もダメージを受けたし、何よりも、人殺しが住む街にどうして好き好んで住み続けなければいけないのか、と。

その母の意志は、以前に同じ計画を立てた時とは切実さが違った。母は僕や父の了解を得ようとすることもなく、次に移り住む街を決め、賃貸のマンションを探し、引越しの準備を進めていった。その母の表情には鬼気迫るものがあり、僕の反論を許さなかった。真中市からの転居はあっという間に中原家にとって既定事実となり、全てに対する最優先事項となった。

父は僕に、静かな声で話した。いつも静かな声で話す人だったが、この時は一段とそうだった。

「俺からも頼む。もういろいろと潮時だと思わないか。事件のことはきっかけにすぎない。いつかこうなったんだ。今を避けても、それはすぐ後でまたやって来る」

父が訥々とそう話しかけるのに対して僕は、頷くことも首を横に振ることもできなかった。

実際に、僕は迷った。母のことは心配だった。だが、母には父がいる。夏には僕しかいないかもしれない。遅かれ早かれこうなった、という父の言葉が頭の中でリフレインした。しみじみと呟くように言ったその言葉には、理屈を超えた説得力があり、僕の中で静かに揺れ動く感覚にそっと触れた。確かに、夏の様子はどれだけ時間が経っても何一つ全く変わらないように見える。しかし、変化を全く求めない人間が絵を描き続けることなどできるのだろうか? 彼女は実は変化を求めていて、そのためには僕がいない方がいいのではないだろうか? 僕は長い静寂の中で、何度もそう思うことがあった。だが今、正直な回答を自分に求めようとしても、どこまで行っても最終的には沈黙しかない。自分がどうしたらいいのか分からなかった。

とは言え、事は僕がどう考えるかという次元の話ではなかった。母は誰が何と言おうとこの家を売り払って出ていくことを決めているのだ。

結局ただ一つ、僕は母に頼んだ。それは、今通う中学は、ここで卒業させてほしい、ということだった。

協議の後、父も母もそれに同意し、引っ越しはそれまで先送りされることになった。高校入試まであと数カ月、今ここで急に環境を変えるのは、僕にとって良くないことと判断したからだが、僕がそう頼んだ理由はもちろん受験とは全く関係なかった。夏と一緒にいる時間を、できる限り引き延ばし、結論を先送りにする。そして同時に「来年の三月まで」と期限を決める。そのためだった。そこまで待っても何も起こりはしないかもしれない。僕は自分に対してはともかく、夏に対して性急な変化を望んではいなかった。僕が見定めようとしていたのは、今後も夏のすぐ傍にいることが彼女にとって良いことかどうか、という一点だった。距離を置くのが良いのであれば、一生会えなくなるわけでもなし、僕は両親についてこの街を出ていく。そして傍にいるべきだと思うのなら、僕は家を出て、真中市に留まる。十六歳、一人立ちするには早すぎる年齢でもない。あるいはそこまでしなくとも、真中市にも幾つか高校はあるのだから、ただ外の街からそこに通うだけで、今とあまり変わらない生活が実現するだろう。

こうした自分の考えを僕は一切両親に話さなかった。誰にも、健一にも誠二にも、毎日顔を合わせる夏にも話さなかった。ただ自分の中でその考えは分かりやすい指針となった。僕は再び猛烈な勢いで勉強を始めた。それは、殺された二人や殺人犯についての想念が僕にまとわりつくのを取り払うためでもあった。見知った二人の死を悼もうとすれば、その感情はやがて、その死をもたらした者の正体を詮索することになる。その、姿の知れない殺人犯について想像を巡らせることを僕は避け続けていた。具体的な情報は何もなく、イメージが雑然とあちこちに散らばっているだけの状況で、それについて考えようとすれば、その姿はどんなものにでも形を変えてしまうことになる。道を歩いているただの隣人も、同級生も、教師も、警官も、誰もかれもが殺人犯に見えてくる。だから、僕は考えなかったし、考えることができなかった。夏のことについてさえ、彼女が傍にいない時は考えなくなりつつあった。それは死と殺人の想念とは逆で、彼女の存在は僕の体の中にイメージとなって住みつき、限りなく実体に近い姿で動いていたので、わざわざ頭で思わなくてもいつも彼女の存在を感じることができたのだった。

そうしていると、時間は閊えるものなくどんどん過ぎ去っていった。秋がやってきて、真中市に吹く風が冷たく鋭くなり、夏と再会してからちょうど一年が経った頃に、誠二から手紙がやってきた。

 

 

 

朝、起きてすぐにポストから新聞を取り出すのは僕の役割だったから、手紙が届いているのに気が付いたのも僕だった。僕はそれを手に取り、書かれた住所と名前に目を奪われた。一瞬で眼が覚めた。何の変哲もない、ごく普通の茶封筒に普通の切手が貼られ普通のサインペンで宛名が書かれた手紙だったが、だからこそ僕は息を飲んだ。

封筒に書かれた宛名は僕の名であり、裏面に書かれた差出人は間違いなくあの西島誠二だった。最後に彼の直筆を見たのは一年以上前で、その時のものとは筆圧や文字のバランスなどが少しずつ違ったが、確かに彼の筆跡だった。

手が震えた。

僕は胸元に手紙を差し込み、玄関のシューズラックの上に新聞を置くと、すぐに二階の自分の部屋に上がって、カバンの中に手紙をしまい込んだ。そして急いで顔を洗い、朝食を摂り、学生服に着替えると、始業の1時間以上前に家を出た。

普段の通学ルートを離れ、まだ人気のない中古車ディーラーの裏手の道で自転車を停め、カバンから手紙を取り出して読んだ。

 

「裕司へ

 

電話だとうまく話せないから手紙を書く。

人が二人も死んだがもっと死ぬかもしれない。

お前たちが心配だ。

お前の言うとおり事件が起きてるのは変だ。

しかし現実に起きてるのだから変じゃない。

いきなり始まることなんかない。

ずっと前から始まってる。

横山とかいうやつは犯人を知ってたはずだ。

あいつには金も地位も何もない。

だから殺された理由としてはそれが一番自然だ。

料理おばさんもそうだ。何もない。

だから犯人は日光仮面かもしれなかった。

しかし日光仮面が殺すのは変だ。

最初から日光仮面の身元は警察に知られてる。

ずっと昔からだ。

これまで何度も警察に捕まった時に確認されたはずだ。

日光仮面が殺したならすぐに容疑者になって捕まる。

日光仮面のはずはないから変なんだ。

犯人は日光仮面じゃない誰かだ。

他に横山が知っているやつがいないか?

お前が考えた方がいいのか考えない方がいいのか分からない。

お前に関係なくもうすぐ解決するかもしれないから。

でもお前に伝えたかった。

日光仮面が犯人じゃないぞ。

だから安心しろ。

でも別にいる。

前から町に住んでる誰かだ。

この手紙の返事は書くな。

すぐに焼いて捨てろ。

犯人が分かったら警察に知らせろ。」

 

読み終わると、僕は周囲に誰もいないことを確認してもう一度最初から最後まで読み、手紙を折りたたんでカバンの奥深くに突っ込んだ。

自転車にまたがって、中学校に向かって走っていくと、気が付かないうちに、僕の目に涙が滲んでいた。

間違いなく誠二の手紙だった。彼らしくない文章の飛躍や字の崩れはあっても、張り詰め過ぎていて性急な余裕のない文章ではあっても、間違いなく、論理的で冷静で、最後にはいつも僕を思いやる言葉は、誠二のものだった。手紙に書かれた内容のほとんどは不吉で重苦しいテーマだったのだが、その意味を咀嚼する前に、ただ彼が回復しつつあることを喜ぶ感情が僕の中で溢れ返った。とても短い、ほとんどただ一つの用件だけの手紙だったが、彼がとても長い時間を掛け、何度も書き直してこれを書き上げたであろうことが僕には手に取るように分かった。指で文字に触れると彼の感情が伝わってきそうな気がした。手紙には、すぐに焼いて捨てろ、とあったが、僕にはそんなことはできなかった。もう少しだけ待ってくれ、と頭の中で誠二に返事した。もう一度だけ、家に帰ってもう一度だけ読んだらそうするから、と。

頭の中で何度も手紙に書かれた文章が繰り返され、学校にたどり着いて深呼吸して息を整えた頃に、ようやく言葉の意味が身の内に染み込んで、それについて考えることができるようになった。

だからその日は久しぶりに全く授業に集中できなかった。僕は誠二の言葉について考え続けていて、ノートに言葉にならない文字をうねうねと書き連ねていた。

日光仮面が犯人じゃないから安心しろ、と誠二は書いていた。

何故いつも、この男は俺の気持ちが分かるのだろう、と思った。それこそまさに、僕が誰かに告げてもらうことを求めていた言葉だった。僕が押し隠し、夏が不吉に思い描いた想像をくぐりぬけて生き残る言葉だった。誠二の言う通りだと思った。日光仮面の正体が未だに謎であるのは僕らにとってだけで、過去何度も交番にしょっぴかれた日光仮面は、住所不定無職無名で押し通せたはずはなく、警察にはとっくにその正体を明かしていたに決まっているのだ。かつて流布した、横山とその父と日光仮面の噂は誰もが知っていた。警察も知らないわけがない。だから今も日光仮面が生きていれば、既に容疑者になって捕まっているか、参考人として召喚されている。

僕は深いため息をついた。

日光仮面は死んだのだ、と僕は思った。それは論理としての理解と、感覚としての理解の両方だった。僕と彼が最後に交わした妙な約束によれば、彼はあの雨の日に死んだのであり、僕の心の奥底はあの時既にそれを事実として受け止めていた。しかし日光仮面の本名を知らない僕は、雨の後にこの街で見つかった死体の中に彼がいたのかどうか分からず、その死に現実的な根拠を与えられなかった。そして街に原因不明な忌まわしい事件が起こり、解決の兆しも見えないことが、僕の中に彼の影を留まらせ、僕たちの約束を行き場もなく孤立させていたのだ。僕は、あの雨によるこの街の数十人の死亡者たちの名前の中に、日光仮面の本名が埋もれていることを確信した。

悲しくはなかった。ただ、僕の体の中で、日光仮面のイメージが魂のような漠然とした塊に変化して消えていくような感覚がした。

誠二は手紙に書いていた。犯人は日光仮面じゃない誰かだ、他に横山が知っているやつがいないか?

誠二も分からないと書いていたが、僕も、自分が引き続き考えを推し進め、それを探求するべきなのかどうか分からなかった。まだ分からない。むしろ、漠然とした言葉にならない妄想がかき消され、これで僕と殺人事件との距離は遠ざかったのだ。横山についても料理おばさんについても、僕は彼らのことをそのほんの一部しか知らない。彼らが共通して知っている誰かがいて、その誰かが彼らを殺したのだとしても、僕にその誰かが確定できるはずもなく、想像力の中であまねく誰かが殺人犯になり得る状況に今も変わりはない。僕にとってこの事件は、真中市で生活する他の六万五千人の人々と何ら変わりがない、謎と不安を抱くだけの対象に戻ったのだ。

それに、僕の胸は一人の人間の死で一杯になっていて、それを受け止める以外に体の機能を使うことができなかった。雨の後、数多くの人が死んだというのに、その死が実感として僕の胸を満たすのはこれが初めてだった。

日光仮面は死んだ。今この瞬間、それだけでたくさんだった。

 

 

 

秋にしては寒い日で、冬と呼ぶにはまだ風に容赦があるその日、僕は放課後に担任教師と進路相談をしていた。

県外の高校に進む予定があるのはクラスで僕だけだった。概ねの方針は両親との三者面談で共有済みだったのだが、入学願書や調査書などの細々とした書類の申請や準備については少々面倒で、個別に随時行わねばならず、その段取りを確認したのだった。

一見、僕は教師のレクチャーにひたむきに頷いていたが、我ながらそこには真剣味が無かった。進む高校が決まろうとしているということは、僕の退路は刻一刻と断たれようとしているということだったが、進学先などいざとなればどうとでもなると思い、決定的な瞬間までは両親と担任の言うとおりにただ頷いていればよいと思っていたのだ。

その日何度目か「分かりました」と言った時、担任が僕の目をじっと見つめて言った。

「中原、お前本当はどうしたいんだ?」

僕は担任の目を見返した。真剣な眼だった。

「本当にこの高校に行きたいのか? それとも別にやりたいことがあるのか?」

僕は答えに窮した。

何故担任が僕にそんなことを聞くのか、正確な意図は分からなかったが、僕の迷いか、あるいはいい加減さが伝わったのには違いない。

彼は真面目な教師で、僕に真面目に訊ねていた。だから正直に答えたかったが、全てを話すことはできない。

「自分でも分かりません。この高校がいい高校なのか悪い高校なのか、まだ見たことが無いので、分からないですから。でも、どっちにしてもあまりこだわりは無いんです」

そうか、と教師は言った。顎に指を当て、僕が言った言葉の意味を考える風だった。

「どんな道を選ぶのもいいけど、よく考えた方がいい。よく考えておけば、後悔が少ない。お前には、後悔してほしくない」

僕は頷いて、ありがとうございますと言って立ち去った。

既に日が傾いていて、廊下はほとんど静寂に包まれていた。木々を揺らす風の音と、遠くからカラスの鳴き声が聞こえる。

僕はぼんやりと進学先について考えた。両親の計画通り県外に進むにしても、この街にとどまるにしても、どちらの道にもまだ現実感が無かった。どちらにしても今の生活とは大きく変わる。習慣が変わってしまうことに対する現実感が無いのだ。

下足ロッカーで上履きからナイキのスニーカーに履きかえようとした時、少し隔たった場所から聞こえてくる男子生徒たちの会話の中の一言が、僕を振り向かせた。

「日光仮面に殺されるぞ」

それは笑い声の中に混ざってすぐに消えて行った。

僕はスニーカーを二本の指にぶら下げたまま立ち尽くし、その笑い声が遠ざかっていくのに耳を澄ました。おそらくほんの数秒間のことだったが、僕の足はその場に釘づけにされた。

辺りが完全な静寂に包まれた時、僕は我に返った。スニーカーをロッカーに入れ直し、校内に戻った。廊下の左右を見渡したが、そこには既に談笑していた生徒たちはもちろん、他の誰の姿もなかった。

誰かが通りかからないかと、僕はしばらく廊下に留まった。誰でもいいから、今僕が確かに聴いたはずの一言について真意を問いただすつもりで。だが待つうちに、最初に現れたのは教師だった。眼鏡をかけた額の広い数学の教師で、彼は僕の姿を認めると、どうしたんだ中原、と声をかけた。

教師に訊くわけにはいかない、と僕は反射的に思い、今帰るところです、と応えた。

「気を付けて帰れよ」

僕は頷いて下足ロッカーに向かった。スニーカーを履き、校門まで歩いて行く途中、周囲を見まわして誰でもよい誰かの姿を探したが、生徒の姿は何故かどこにも一人も見つからなかった。学校全体がまるで廃墟のような静寂に包まれ、コンクリートの壁は影の色が濃すぎる夕闇を纏おうとしていた。僕は自転車のペダルをこぎながら、自分の頭の中に巨大なクエスチョンマークが点灯しているのを自覚した。

どうして日光仮面に殺されるんだ?

僕の幻聴だったとしてもおかしくないほど一瞬だけ聞こえたさっきの言葉が、どういう筋道からやってきたものなのか、僕には全く分からなかった。だが、それが明らかに何らかの物語的文脈を伴っていて、しかも会話の中にごく自然に登場していたことは分かった。ということは、それは複数の誰かに予め共有された情報だ。僕にとって全く唐突であっただけで、僕以外のこの学校の生徒たち全員にとって周知の事実にすぎない、そういったニュアンスさえ感じた。まるで、昨夜のテレビ番組で、日光仮面が誰かを殺してしまうドラマなりコントなりが放送されでもしていたような、軽い響きだった。

毎朝、新聞だけは必ず一通り読んでいたから、それが公になった事実であるということはあり得なかった。噂だ。以前、根も葉もなく断続的に蔓延ったものと同じように、今、日光仮面が生きていて、誰かを殺しているという噂が流通しているのだ。

それはあり得ないことだ、と僕は考えた。日光仮面は死んだのだ。あの雨の夜の中で、彼はその力を使い果たして消え去った。彼自身がそう言ったからというだけなく、論理的に僕はそう考えた。誠二の手紙だけが理由ではない。そうでなければ夏を探してあれほどこの街を走り回ったあの時に、僕が彼に再会しなかったはずはないのだ。

唯一いたのは「月光仮面」とかいう彼の紛いものだけだ。その月光仮面にも、一度出くわしたきりでその後の消息は知れない。皆ひょっとして、あの偽者が日光仮面だと勘違いしているんじゃないだろうか、と僕は考えた。そうに違いない。本当のことを知る者はどこにもいない。皆好き勝手に、情報の断片をつなぎ合わせて、想像力でその空白を無理やり埋めて、戯れているだけだ。

目の前の信号が赤になり、僕は自転車にブレーキを掛けた。太陽が西の山の向こうに隠れ、一分ごとに辺りを覆う暗闇の幕が一枚一枚増えてゆく。フロントライトを点けた一台の車が僕の目の前を横切って行った。車の窓ガラスに僕の顔が一瞬写り、その瞬間、全身に鳥肌が立った。

関係ない。

最初にその一言が僕の頭の中にやってきた。僕は自分に向かって首を横に振った。何度も首を横に振り、何が関係ないのかと、自分自身に尋ねた。

あの偽物が日光仮面だろうと月光仮面だろうと関係ない。

あの偽者が日光仮面だったとしても月光仮面だったとしても、蔓延る噂には何の関係もない。

俺は馬鹿だ、と僕は思った。

誠二が言っていたじゃないか。犯人は日光仮面かもしれなかった。しかし日光仮面のはずはない。犯人は日光仮面じゃない誰かだ。横山が知っている誰かだ。

誠二には見当が付いていた。しかしこの街に住んでいない彼には具体的にそれが誰なのかまでは分からなかった。だから僕に手紙を書いたのだ。僕にならそれが分かるかもしれないと思って。

俺はどうして考えもしなかったんだろう。

日光仮面じゃない誰か。

誰かを殺すのに、偽者も本者もない。勘違いかどうかなど関係ない。あれが月光仮面だろうと日光仮面だろうと、見たままは日光仮面そのものだった。みんなが話している日光仮面が、もし本当は月光仮面のことだったとしても、話に、噂に、矛盾は一切発生しない。横山もそうだ。最初から、横山が日光仮面と月光仮面を取り違えていなかったと、どうして断言できる? 月光仮面は、僕が知らないうちに、あの雨の前からこの街に棲んでいたのかもしれない。そして、横山にとっての日光仮面は、実は最初から月光仮面だったのかもしれない。日光仮面はいなくなった。代わりに日光仮面そっくりの月光仮面が現れた。日光仮面に殺される。もしこれらがすべて正しい情報だとしたら、つまり、あの男が、月光仮面が殺人犯だ。

腹の底が冷えるような感覚がして、僕は深呼吸した。両手をこすり合わせて、息を吹きかけた。信号が青になり、僕は再びペダルをこぎ始める。動悸が猛烈に早い。それに気がつくと、馬鹿馬鹿しい、と僕は自分の心臓に向かって語りかけた。いつもの僕の悪い癖だ。たったの一言だけで、ほんの僅かな兆しだけで、確かかどうかも分からないものを、一度に拡大解釈して全部の事実に転用させようとするのだ。馬鹿げている。仮定に仮定を積み重ねた幼稚な憶測でしかない。大体、月光仮面とかいう男が殺人を犯さなければならない理由が全く分からない。するべきことは明日学校で、あの一言が本当に噂となって流通しているかどうかを確認し、そしてその源を探ることだ。

僕はそう考えながら、夏の家にたどり着いた。明日確認すればいい、そう自分に言い聞かせていたのに僕の頭の中はまるでもやもやとしたままで、インターホンに呼ばれて出てきた夏の母の言葉が最初、全く耳に入らなかった。

「夏は出かけてるわ」

頷きかけて、言葉の意味が分からなかった僕が訊き返すと、夏は出かけてるわ、と夏の母は繰り返した。

どこへ出かけているのか、と僕が訊くと、夏の母は首を横に振って、分からない、と言った。

「分からないってどういうことですか」

「いつもそうだったじゃない。あの子が行くところが分からないのは」

「でもこんなに暗くて寒いのに」

「でも、久しぶりに外に出たのよ、あの子が」

僕は首を横に振った。僕は唖然としていたと思う。そういう問題じゃない。そんなことは、よりによって今日である必要は全くない。この、真夜中よりも暗い夕暮れに外に出ていく必要は、誰が何と言おうとこれっぽっちもない。

僕は夏の母の顔を覗き込んだ。何も感じないのだろうか、と思って。今この街を包んでいる、誰にも説明も解決もできない空気を感じないのだろうか? そんな中に娘が一人で出かけているのに何も感じないのだろうか? だが彼女の表情はまるで、夏にそっくりだった。何を考えているのか全く読み取れない、考えることも感じることもずいぶん前から放棄しているような顔だった。そう言えばかなり以前から、夏の母の顔はこんな風になっていた。僕の母の顔とまるっきり逆だが、昔の表情から隔たっているという意味では同じようなものだった。

探してきます、と僕は言い、踵を返して自転車にまたがった。

そして僕は学生服姿のままで真中市中を走り回り、僕達が通った幾つものいつもの場所を一つずつ辿った。日光仮面のいた橋の下、川の傍の公園、小学校、既に潰れてしまった駄菓子屋、そして、今はもう誰も住んでいない誠二の家、跡形もない健一の家の跡を。

だが夏はどこにもいなかった。夏どころか一人の人間の姿さえなかった。呼吸の間隔が自分でも気がつかないうちに少しずつ短くなっていき、僕は彼女の名前を呼んだ。あの凄まじい轟音に包まれた雨の夜と違い、街は静寂に包まれていて、僕の声はそこら中に響いて遠くどこまでも飛んで行くように感じた。しかしどこからも跳ね返って来る気配がしないのは全く同じだった。僕に備わった彼女を探すための道具は目と声と耳しかなく、目に映る街の光景は暗黒のみになりつつあり、どれだけ耳を澄ませても風以外にはせいぜいカラスの鳴き声しかしない。そのため僕はどれだけ反応が無くとも声のボリュームを上げるしかなかった。

自転車にまたがって、僕は茫然と街中を走り続けた。何時間も走り続け、風はどんどん凍てついていく。夏は既に家に帰っているかもしれない、と思った。だが、もし帰っていなかったら、と思うと僕は戻れなかった。この町には殺人鬼がいて、今夜1パーセントの確率でそいつと夏が出会い、彼女は殺されるかもしれない。その1パーセントは僕が夏を見つければゼロパーセントになるが、見つけられなければ永久に残り続ける。

自転車の灯火以外に何の明かりもない暗闇の中で、その想像はどんどん膨れ上がっていった。今ここではない、誰もいない道を夏が一人でぽつぽつと歩いている。その彼女に誰かが背後から忍び寄る。そいつは右手に金槌を持っていて、ゆっくりと彼女に近づいていく。足音はまったくしない。男が腕を振り上げ、夏が振り返る間もなく、彼女の体はがっくり崩れ落ちる。

僕は大声で夏を呼んだ。恐怖が体中に染み渡って、まるで抑えられなかった。昨日までは夢で済んだ。でも今は何もかもが現実に起こるかもしれない。数時間後に目を覚まして胸を撫で下ろすというわけにはいかず、もう二度と取り戻すことができない。目に涙が滲んで、心臓が異様な速度で打ち鳴らされた。時折車が横を走り抜け、高架の上を電車が走って行き、ぽつぽつと民家の明かりは点いている。だが僕は、生きているのが僕だけのように思えてならなかった。全てが凍りついていて、死んでいるか、殺されるのを待っているような気がしてならなかった。

受け入れるしかない、と健一が僕に言った。どうあがいても現実なのだから受け入れてどうにかするしかない、と。

僕は今、それは嫌だ、と思った。他の何もかもを受け入れなくてはならなくても、それだけは嫌だ。何もしないまま、何もできないまま、彼女を見つけられないまま帰るのは絶対に嫌だ。

真中市の神社の入り口前にさしかかったとき、僕は両手のハンドルブレーキを握りしめた。

鳥居の目の前を通る道を挟んで向かい側に、僕たちが昔何度も通ったたこ焼き屋の明かりが点いている。

僕は深く息を吐いた。

店の前のベンチに腰掛けてたこ焼きを突いている夏の前に立った時、僕の顔は汗と頬に滲んだ涙でぐしゃぐしゃになっていた。彼女は頬を膨らませて、はふはふとたこ焼きを食べながら、僕の姿に気がつくと顔を上げた。

「お前、たこ焼き食う金なんて持ってたのか」

僕がそう呟くと、夏は僕を無表情に見つめたまま、たこ焼きを頬張り続けた。

僕は夏の隣りに腰かけ、深く背を倒して、ため息をついて空を見上げた。月の周りに星が瞬いている。そのすぐ外側には雲が薄くかかり、僕が呼吸を繰り返すたびに月を避けるように通り過ぎて行った。たこ焼きのソースの甘い匂いが僕の鼻をくすぐり、思い出したように猛烈な空腹感がやってきた。

「一個くれよ」

僕はそう言って、夏の膝の上に置かれた、発泡スチロールの容器に敷き詰められたたこ焼きを指差した。

夏は頷いた。

ありがとう、と僕は言って、指でたこ焼きをつまんで口の中に放り込んだ。星の塊のように熱いそのたこ焼きを、僕は夏と同じように口の端から息を漏らして食べた。全身の水分が口の中の涎に集中するほど旨かった。

もう一個くれ、と僕が言うと、夏は再び頷いた。

僕と夏は交互に一つずつたこ焼きを食べて、あっという間に平らげた。食べ終わった後、夏の顔を見ると口の端にソースと青のりが付いていて、僕は彼女の顔に手を伸ばしてそれを指先で拭き取った。

夏は僕の顔をじっと見返して、僕の顔に手を近づけた。そして僕がしたのと同じように、僕の唇の端をそっと指で撫でた。

僕は右手で夏の肩を抱き寄せて、髪を撫で、彼女の頭に頬を寄せた。夏は僕にされるがままでじっと動かなかった。夏の髪は凍りつきそうに冷たく、僕は右手でごしごしとこするように彼女の頭を撫でた。空っぽのたこ焼きの容器をまだ抱えている両手も冷え切っていた。僕は容器を受取って脇に置き、彼女の両手を重ねて左手でまとめて握りしめた。

全ての呼吸が落ち着いた時、背後でたこ焼き屋の明かりが消えた。

帰ろう、と僕は呟いて、夏の手を取って立ち上がった。片手で自転車を押し、もう片方の手で夏の手を引いて歩いた。

遠くからサイレンの音が聞こえた。一台ではなく、何台もの音だった。遠くから恐竜が押し寄せてくるような、不吉な響きだった。僕はその音に耳を澄ました。今夜また何かが起こり、また何かが変わるのかもしれなかったが、僕は考えるのを止めた。何も考えずに夏の手を握って歩きたかった。

 

 

翌朝のTVニュース、僕はリビングのソファに腰かけて、画面に映し出される情報を食い入るように見つめた。

それは既視感を覚える、おなじみの殺人事件のニュースだった。僕は昨晩このニュースを既に夢の中で見ていたような気さえした。

だが、だからこそ僕にとって恐ろしいニュースだった。

リポーターが深刻な表情で伝えている。昨夜未明、真中市の路上で新たに二人の遺体が発見されました。亡くなった二人はいずれも後頭部を鈍器で強く殴られた形跡があり、二件の殺害現場は互いに一キロほどしか離れていないことから、警察は同一犯の犯行とみて捜査を進めています。

ニュースは引き続き、真中市で連続している殺人事件を簡単に振り返り、付近の住民へのインタビューを映し出し、日光川を映し、僕の家のすぐ近所の水田を映した。ただごく普通の街を映しているだけなのにもかかわらず、部分的にモザイクのかかった映像全体が、この町は最悪の不幸に見舞われていて、完膚無きまでに呪われているのです、と宣言するかのようだった。

僕の開いた口はしばらく塞がらなかった。

二人が同時に殺された。そのことに打ちのめされているのではなかった。ショックではあったが、既に二人が殺され、犯人もその目的も分かっていない以上、そういうことも起こり得るだろうと心のどこかで思っていた。

しかし新たに死んだ二人がどちらも僕の知っている人間だったというのは完全に予想外だった。

亡くなった一人は、僕たちが「軍隊じいさん」と呼んでいた老人だった。彼はカーキ色の古臭いぼろぼろの軍服に身を包み、日光川の堤防の上で、背筋を伸ばしてたった一人毎日ひたすら行進を続けていた。彼はかつて僕たちが「どこへ行くんですか」と声を掛けた時、ただ一言、戦争はやめろ、とだけ言った。それ以外のことは、どう話しかけても一切口にしなかった。戦後ほぼ50年が経って未だに軍服を着ていたのだから、おそらく生粋の愛国者で日本軍の完全な復活と大東亜共栄圏の完成を望んでいたのには違いないが、その達成は平和的な手段でなされるべきだと考えていたのだ。いかつい顔をして、全身に緊張感をまとわせてはいたが、誰かを殴ったり怒鳴ったりすることは絶対になかった。その「軍隊じいさん」が殺された。

そしてもう一人は「エイリアンじいさん」だった。あの、毎日日光川のすぐ傍の公園で、「メニアル星人」を呼び寄せる祈祷を繰り返していた老人だ。彼はいつの日かメニアル星人がやってきて、自分を宇宙に連れ去ってくれることをずっと待ち望んでいた。僕は彼の殉教者じみた表情をよく覚えていた。穏やかで、一つのことをまっすぐに信じきった顔だ。僕たちが彼に出会ったのはもう六年以上も前で、いつまでも事態の進展しない彼との付き合いに飽きて、彼のもとを訪れることは早い段階でなくなってしまった。でも僕は彼のことを忘れたことはなかった。彼が死んだということを、僕はリアルな事象として咀嚼することができなかった。

二人とも、少なくともあの雨の後には一度も見かけたことはなかった。あの日以来、あの人たちは根こそぎこの町から消えたのだ。皆家に閉じこもったか引っ越してしまったか、どちらだったのか僕には分からない。何故いなくなってしまったのかも、なぜ彼らが殺されたのかも分からない。ほとんど全て分からない。今テレビに映し出されているレポーターやコメンテーターと全く同じように。

だが僕は、ニュースで伝えられない事実を一つだけ理解した。

それは、この一連の殺人が、あの人たちを標的にしている、ということだった。

この期に及んでそれは明らかだった。僕がこれまでそれに気付くことができなかっただけだ。六万五千人の住む町で、そうでなければせいぜい十数人しかいない彼らがたまたまターゲットに連続してなることなど考えられない。理由は全く分からないが、犯人は彼らを狙って殺しているのだ。

そうしてテレビの画面に目を奪われていたのはほんの数分のことだったが、このままじっとしていたらやがて、キッチンでがしゃがしゃ音を立てて洗い物をしている母の発狂を真正面から受け止めることになるだろうと思った。リビングのソファから立ち上がり、学校へ向かおうとした。だが、上着を羽織った時に電話が鳴った。

電話は、休校の知らせだった。もちろん事件を受けてのことだ。明日の登校がどうなるかは明朝再び連絡する。母が緊急連絡網でそれを次の家に伝えると、絶対に今日一日家の外に出るな、と言い残して仕事に出て行った。父は仕事に向かう前に、僕の肩に手を置いて、気をつけろ、とだけ言った。

誰もいなくなった平日の家、僕は自室のベッドの上に仰向けになった。風で窓枠ががたがたと震え、その外は目に突き刺さるような青空が広がっている。胸の中で何かが抑え難くざわついた。事件に対する恐怖も、死者に対する哀悼も、この時僕の胸の内には無かった。ただ疑問とそれに対する試論だけが行き交った。天井を見上げながら、僕の頭の中で、光が明滅して導火線が結線するように、思考がぱちぱちと爆ぜた。

殺されているのは真中市のあの人たちである。

二人目に料理おばさんが殺された時、僕には気付きは何もなかった。最初に殺された横山はただの僕の同級生だと思っていた。だから僕は今日までその傾向に気が付かなかった。だがこの連続性は最初に殺された横山もあの人たちだったことを示唆している。僕が認識する暇がなかっただけだ。その萌芽はあの雨の夜に確かに僕も目にした。一度認識してしまえば、見間違いようがない。あの人たちは互いの生活、性別、職業、年齢、その他社会的な身分にも一切共通点はなく、彼ら同士の交友関係も全く存在しないことを、僕はよく知っている。横山も含め、彼らは彼らであるということ以外に共通点は全くないのだ。そんな被害者が四人も偶然して続くのは極めて不自然だ。

だがその動機が分からない。なぜ彼らを殺さなくてはならないのか。

もし、彼らが彼らであるという理由だけで殺されているとしたら、あえてあの四人が選ばれたわけではないということなのか。あの人たちであれば誰でも良かったのか。それはつまり、今まで死んだ四人だけで殺人が終わらないということなのか。

そうだとしたら、僕が気にかかるのは、犯人がどこまであの人たちを「あの人たち」と捉えているのか、だ。「あの人たち」とは、僕とその仲間たちの間だけに定められ流通する、極めてローカルな人種区分のルールであって、僕らの間では厳密に運用されていても、明文化されているものなど何もない。この町には僕の知っている限りでも十数人のあの人たちが残っているが、犯人にとってのあの人たちの定義が僕たちと同じである保証は全くない。彼にとっての殺害対象の定義が、もし、単なる精神薄弱者や人格障害者や、もう少し広い範囲を示すものならば、殺す対象もより多いということになる。それが分からなければ僕は、次に殺されるのが誰なのか正確に把握できない。

僕は首を横に振った。それは止むを得ない。犯人の頭の中を覗くことなどできないのだから、結局それは諦めるしかない。

知るべきことと、分かっていることを整理するよう、僕は自分に言い聞かせた。

僕が分かっていることは、ほんの僅かしかない。

だが同時に、知るべきことも決して多くはない。

犯人の動機は、不明。

犯人の目的は、あの人たち、もしくはそれに類する人たちの殺害。もしそうだとしたら、この殺人はまだ続く。犯人が捕まるまで、あの人たちを全員殺し尽くすまで続く。そう仮定する方が、途中で止めなければならない理由がまだ見つからない以上、現時点でリアルだ。

犯人は誰か。

僕はそれを知っている。

それは月光仮面だ。

その名前は僕の中にほとんど自動的に現れた。あいつしかいない。それは昨日とは違う確信を伴っている。もう噂を確かめる必要はない。何故なら、殺されているのがあの人たちだと分かったからだ。動機は分からない。彼が何者なのかも分からない。だが彼は確かこう言った。

「正義の味方は月光仮面ただ一人」

そして、自分が天誅を下す、と言った。この街に「悪」が隠れ潜んでいて、生き延びている、と。月光仮面にとって「悪」とはあの人たちのことだ。あの日から、真中市から姿を消してしまったあの人たちのことだ。僕は横山のことを思い出した。横山は「日光仮面に父親を殺してもらうように頼んだ」と言った。無論それは本当は日光仮面ではなく月光仮面のことだった。横山はあいつを知っていた。だから最初に殺されたのだ。あの人たちになり、且つ、あいつを知っていたから殺された。それで全ての物語が一本に繋がる。

僕の頭の中で、既にそれは仮定ではなかった。記憶と想像力が僕の体の中に瞬く間に強固な城を作り上げ、怒りが僕の全身に充満して、事実よりももっと強く僕の背中を押す何物かになった。

僕は立ち上がり、部屋を出た。

 

 

 

自転車に乗って真中市の中心街に向かった。市の警察署の入り口をくぐり、受付で、今起こっている連続殺人事件の情報を提供したくて来た、と話した。

僕はしばらくロビーの長椅子で待った後、廊下を曲がった奥の会議室まで通された。煙草の匂いがかすかに残っていて、二人掛けの茶色いソファが二つ向かい合っている。二人の警官がテーブルを挟んで僕の目の前に座り、名前や住所といったプロフィールを尋ねた。両親はどうしたのかと訊かれたので、両親は仕事に行っていて、自分は今日学校が休みで、一人で来た、と答えた。

そして僕は自分の中にある情報を全て話した。殺されているのは全て、この町に住む「あの人たち」と僕が呼ぶ人々であること。あの人たちというのは、この街を奇抜な衣装で徘徊したりあるいは一地点で独特の行動を繰り返す人たちのことで、僕が把握しているだけでも十数人は存在する。何故彼らが殺されているのかは分からないが、犯人は無差別に殺しているのではなく、彼らだけを狙っている。一人目は横山、二人目は料理おばさん、三人目は軍隊じいさん、四人目はエイリアンじいさん。おそらく犯人は月光仮面と自称する男で、一年前の雨のあとにこの町に現れた。僕も一度しか会ったことはなく、その後姿は見かけていない。本名も分からない。

警官二人は僕の話をじっと聞いていた。一人は若くせいぜい20代後半で、もう一人は腹の出て禿げ上がった中年だった。二人とも、表情から感情が読めなかった。それは普段からそうなのか、僕の話が荒唐無稽すぎてそうなっているのか僕には分からなかった。

いつこのことに気が付きましたか、と若い警官が聞くので、ついさっきだと僕は答えた。

そして彼は、どうして月光仮面という男が犯人だと思ったのですか、と尋ねた。

「彼が、正義の味方は一人でいい、と言ったからです」

僕はそう答えた。重ねて彼はその言葉の意味を尋ねてきたが、僕にはそれは説明できなかった。僕の想像の中ではそれは明確な殺人の意志そのものであったわけだが、言葉の意味としては要するに彼が何らかの排他的で不寛容な信念を持っている証明であること以外には、何も分からない。だから僕は別の言葉を付け加えた。

「あいつは『悪に天誅を下す』と言っていました」

僕が当初に予期していたよりも、警官二人の僕への聴取は熱心だった。門前払いされてもおかしくないと思っていた僕にはそれが驚きだった。僕は、僕に限らず中学生の時分にありがちなことだが、公職を生業にする人々とその組織に対してあまり信頼感を覚えていなかったし、何より自分の頭がおかしくなって、ありもしない事実をでっち上げているだけなのではないかという自分自身への疑念に囚われていたのだ。警察署にやってきたのはほとんど自暴自棄であり、また誠二がそうしろと言ったからというだけだった。

だが考えてみれば、四人が共通してあの人たちであることは、僕が敢えて言い張るまでもないことだった。周囲に住む住民に聞き込みをすればそれが事実であることはすぐに分かる。おそらく警察にも既に断片的に情報は集まっており、間もなくその事実にはたどり着いただろう。

彼らが何より注目したのは、僕が殺された四人全員のことを既に知っている、という事実だった。つまりそれは、これから殺される可能性があるのが誰なのかをも知っているということだったからだ。

「君の言うあの人たちのことを教えてください。他に誰がいるのですか?」

僕は頷いて、答えようとしたところで、その説明が厄介であることに気が付いた。

僕は彼らのことを、その行動や習性については知っていても、それ以外のことは何も知らなかった。

彼らの名前も住所も顔写真も、僕は何一つ知らないし持っていないのだ。そして彼らがどこかに閉じこもってしまってからもう一年数か月が経っている。今もまだ彼らが真中市に住んでいるのかどうかすら僕には分からなかった。

それでも僕は記憶の中から、一人一人のあの人たちについて語った。彼らそれぞれの行動様式、出没した場所、目撃した時間帯、身にまとっていた衣装の傾向を。

それには長い時間がかかった。警官二人はボイスレコーダーとメモを使って僕の言葉を聞き取り続けた。僕の目には、熱心にそうしているように見えた。彼らはおそらくきっとこの情報を捜査本部に伝え、それは今後の捜査に多少の影響を及ぼすだろう。どこまでのシリアスさで伝わるかは僕には想像もつかなかったが、他に何も明らかになっていない以上、事実を完全に無視することなど出来はしない。

長い時間連続で話し過ぎて、僕が声を掠れさせながら喋り続けていると、警官がお茶を出してくれた。

そのお茶を飲み干して、話を続けようとした時、僕は唐突に言葉に詰まった。

「どうしましたか」と警官が尋ねた。

「あの人たちのことだけじゃなく、犯人の話をしてもいいですか。月光仮面のことを」

二人の刑事は顔を見合わせ、腹の出た中年の刑事の方が言った。

「いいえ、結構です。そのお話はもう分かりましたから」

「でもまだほとんど説明できてません」

「大丈夫です。捜査上の秘匿事項ですから詳しくは申し上げられませんが、犯人については我々の方で捜査が進んでいますから」

そして彼は僕に、あの人たちのことについて話し続けるように促した。

そんなはずはない、と僕は思った。だが、よく考えてみれば、月光仮面のことを話そうとしたところで、僕が彼について語れることはほとんどなかった。一度しか会ったことがないのだ。さっき彼らに伝えたことが全てだ。僕は止むを得ず頷いて、話を再開した。

だが、既に僕はどこか上の空だった。口は勝手に動き続けたが、自分の意志とはほとんど関係が無かった。僕の意識は立ち止まってしまっていた。何かに引っ掛かって動かず、自分で自分を呼んでいた。振り返って見てみると、そこにあるのは疑念だった。それは空になった湯呑の中から突然現れ、抑えることができなかった。自分の意識が自分から遠ざかり、喋っている僕を背後から見ていた。

犯人は捕まらないのではないか、と僕は思った。

今ここで、僕がどれだけ話しても。

彼らは殺されるかもしれない人については心底熱心に聴いているように見える。しかし、それは僕が本当に話したいことではない。彼らは、もっと重要な、犯人については全く聞こうとしていない。あの人たちの年齢や顔形、話した言葉や交友関係について細かく尋ねても、冒頭以後、彼らが犯人について僕に追求する気配はない。

「のび太おじさん」の容姿や言った言葉について話しながら、どうしてなのか、僕は考え続けた。彼らはどうして「月光仮面」について興味を示さないのか。彼らは月光仮面という人物の存在を、僕から聞いて初めて知ったようだった。なのに何故気にならないのか。結局、僕の言い分は推理にもなっていない出鱈目で、人を納得させられるような論理性は皆無だったのだから、彼らが無視するのも当然なのかもしれなかった。だがそれだけではない気がした。何かが変だった。この違和感は何なのだろう。

「変ですね」と若い警官が言った。

僕は話を止め、目線を上げて警官を見た。

「何がだ」と中年の方が訊いた。

「聞き込みで街を回った時には、出てこなかった話ばかりだ」

「誰もそんなもんに関係があると思ってなかったんだから仕方ない」

「そうなんですけど、確かにこんな人たちが以前この街には結構いて、でも私もそんな人たちのことはすっかり忘れてたんですよ。言われてみて思い出したんです。それが変だなって」

そしてまた僕の話を催促した。僕が話を再開すると、私もだんだん思い出してきた、と若い警官は言った。

「知ってますか、のび太おじさん」と僕は訊いた。

「知ってるよ。すげえ短い半ズボン履いてて、すね毛濃すぎで。でも見た目は面白いけど、ヤバそうでお近づきにはなりなくなかったね。君よく話しかけたなって感心するよ」

そう言って彼は笑い、僕も微笑んだ。

僕は話を続けた。

頭の中で、口の動きとは全く別の思考が、かちりと音を立てて嵌まった。

そうか、と気付いた。

当たり前だ。

変に決まっているし、違和感があるのは、当たり前だった。

最初から話がずれていたのだった。

あの人たちがこの街にいたことは多かれ少なかれ皆が知っている。僕は月光仮面のことを話した。彼らは月光仮面のことを知らなかった。それ自体がおかしい。僕しか月光仮面のことを知らないのは、どう考えても変だ。

疑問が腑に落ち、更なる疑問になって跳ね返ってきた。

何故僕しか彼のことを知らないのだろう。

つまりそれは、彼について警察に一件の目撃情報も入っていなかった、ということだ。彼らは彼らが言うとおり、僕がかつて別の目的のためにそうしたように、事件の解決のためにこの街中を走り回って手がかりを探しただろう。彼らは彼らのやり方で、この街の全てを知り尽くしたと思っていることだろう。しかしその捜査の間に彼らが月光仮面に出会うことはなかったのだ。彼らは興味を示さないのではなく、示すことができないのではないか。月光仮面の存在は誰にも知られていない。彼らにとってそんな人物は存在するはずが無い。存在の可能性がゼロのものに対して興味を持つ者などいない。だからひょっとしたらこの僕の証言だけは捜査本部に伝わらないかもしれない。それは何の証拠もない、誰にも確認されていない情報だから、他人の目には狂気としか映らない。真実の中に狂気が混ざっていたら、真実の真実性が侵されてしまう。だから彼らは伝えないのではないか。少なくともそこに深刻さは伴わないのではないか。それが僕の最も伝えたいことだというのに。

僕の頭の中からその疑惑が離れなかった。

彼らには何も分からない。

犯人は月光仮面だ、と僕は言った。そして今もそう思っている。でもそれだけは、殺された人々や殺されていく人々とは違って、根拠が何もない。僕の記憶と直感の中にしか存在しない。誰か僕以外に彼を見たものがいれば、と僕は思った。僕以外に誰かたった一人でも月光仮面に出逢っていれば、きっと全てが明らかになるのに、と。僕の頭から離れないのはあの噂のことだ。「日光仮面に殺されるぞ」というあの言葉が本当に噂として流通しているとして、学校に行って誰かに尋ねれば、僕と同じように、日光仮面によく似た別の者を誰かが目撃しているのだろうか。僕はまだ何も確認できていない。だが既に僕にはどうしてもそうは思えなかった。いつもそうだ。噂の情報源が明らかになったことなど、これまで一度もない。そこにたどり着くことは、日光川に潜って犯人の遺留品を探す作業に等しく困難なのではないかと思った。話せば話すほど、僕の中だけで恐怖が増殖していき、それが決して外には出て行くことのできない分厚い壁に阻まれているのを感じる。

何故自分の中ではこんなにもリアリティがあることが、言葉になって少しでも外に出ると一瞬で無価値な妄想になってしまうのだろう。何もかもが馬鹿げていて、一瞬後には全てつまらない冗談になってしまうように思えてならなかった。

サタンの爪の前には公権力など無力だ、というかつてどこかで聞いた言葉が僕の頭の中に響き、何度も跳ね返った。僕はそれでも一つ一つ事実を話し続けた。

 

 

 

家に帰ったころには既に夕方になりかけていた。僕は話し疲れてリビングのソファに深く腰掛けて、頭を後ろに倒した。外では冷たい風が吹き続けていて、僕の喉は猛烈に渇いていた。何度か深呼吸した後、体を起こして、キッチンでグラスに水を注いで飲み干した。

電話が鳴った。

僕は口元を手の甲で拭って、受話器を取り上げた。

〈もしもし、裕司か?〉

健一の声だった。僕の顔は自然にほころび、ああ、と言った。

〈話が聞きたくて電話したんだ。事件のこと。お前は大丈夫か〉

ああ、と僕は言った。

〈お前も気が付いてるんだろ。殺されたのはみんな『あの人たち』だ〉

僕は頷いた。百キロ以上離れた場所から聞こえてくる健一の言葉が、僕の耳に沁みた。もし妄想だったとしても、それを見ているのが僕だけではないと分かって。

「さっき警察に話してきたよ」と僕は言った。

〈警察は何て言ってた?〉

「ご協力感謝しますって。僕は、まだ事件は続くに違いないって言った」

〈信じると思うか?〉

「分からない」

〈裕司、お前誰が犯人なのか知ってるのか?〉

月光仮面だ、と僕は答えた。彼はあの雨の後にこの町に現れた。前から潜んでいたのかもしれないが、僕の前には雨の後に現れた。日光仮面と同じ格好をして、僕たちの秘密基地があった場所に現れたが、今は姿を隠していて、僕以外にはこの町の誰に知られているのかも分からない、と僕は話した。

〈それは誰だ? 中身は誰だ?〉

「分からない」と僕は答えた。

どれだけ考えても分からなかった。分かるわけがないのだ。彼らの行動規範の第一条には「正体を明かすべからず」と太い大文字で書いてある。月光仮面は日光仮面がそうであったように、誰でもない誰かなのだ。

中身はきっと、ただの親父だ。明かされたところで誰もががっかりし、納得も感動もない。理屈も同情もない、ただの殺人鬼だ。僕は自分にそう言い聞かせた。

〈なあ裕司、お前大丈夫か?〉

「大丈夫だよ、さっきもそう言ったろ」

〈声が疲れ切ってる〉

「警察署で何時間もぶっ続けで喋ったからな」

〈それだけじゃないだろ。夏は大丈夫か?〉

「夏?」

〈まだ家で絵を描いてるのか?〉

僕は答えようとして、口を開いたまま、その瞬間に何も言えなくなった。

僕は息を飲み、受話器を握って立ち尽くした。

それは完璧に突然だった。予感も前兆もなかった。いきなり空から飛来した隕石のような気付きが巨大な鉄槌となって僕の後頭部を殴りつけた。頭の中が一瞬でホワイトアウトして、その衝撃だけになった。それは実際は唐突な知らせでも何でもなかった。既に僕の中にあり、僕が認識するのは遅すぎた。僕は警察に行って証言をするような暇があれば、先にそれに気が付くべきだった。

それは後にも先にも、僕の人生において最も恐ろしい気付きだった。足元のすぐ傍に、奈落の底まで通じる巨大な穴が開いていた。

夏が殺される。

〈もしもし? 裕司。夏はどうしてる?〉

健一の声がよく聞こえない。彼は、自分の言葉が落雷となって僕の頭を殴りつけたのに気が付いていなかった。僕は必死に呼吸を整えて、夏は大丈夫だ、と言った。

「夏は大丈夫だ。今から会いに行く」

真中市に住むあの人たちが殺されていく。夏はあの人たちになった。

つまり、夏は殺される。

一度認識してしまうと、なぜ今までそれに思い当たらなかったのかが理解できないほど単純で明確な論理的帰結だった。

〈まだ絵を描いてるのか?〉

健一はもう一度僕にそう尋ねた。

僕はゆっくりと何度も首を横に振った。そして、ああ、と答えた。

「昨日も今日も描いてる。たぶん明日も」

 

 

 

夏はもう絵を描いてはいなかった。それどころか家にもいなかった。夏の母は相変わらず彼女の行方を知らず、僕は昨日と全く同じように、また夏を探して自転車で町中を走り回ることになった。僕が行く場所はいつもと同じで、彼女がどこにいるのか分からないのも同じだ。全てが既視感に包まれていて、それだけでも僕の頭はおかしくなりそうだった。一年以上経っても全く前進せずに同じことを繰り返している。

だが、僕の全身を覆う恐怖は、昨日の比ではなかった。昨日までは破滅の可能性は1パーセントだと思っていた。今はそれが100パーセントに変わってしまったのだ。なんとしても今すぐに彼女を見つけなければならないのだと思うと、恐怖を通り越して吐き気がした。

だが僕は昨日のように彼女を見つけ出すことができなかった。完全に町が夜の闇に包まれ、星の光が僕の全身に降り注いで、自転車のハンドルを握りしめる僕の両手からは感覚が失われていった。たこ焼き屋の前はもちろん、他のどの場所にも夏はいなかった。僕は探す途中で既に門の閉じた学校や、神社の本殿に忍び込みさえした。

喉が渇いてたまらなかったが、戻ったり立ち止まったりするわけにはいかなかった。そうした瞬間に、今はまだどちらでもない事実が悪い方に確定してしまうような気がしたからだ。僕は意味もなく左手首の腕時計で何度も時刻を確かめた。破滅のタイムリミットを過ぎているのかいないのか、僕には時間を見たところで全く分からなかったが、時間の経過を確認するという行為自体が、同じところをぐるぐる回っているだけではないという証明として必要だった。

僕は声を上げてもいなかったし、泣いてもいなかった。無言で、冷たい風が吹きつける暗い道を走り続けた。一切の感情とか感覚とかは真っ黒に染まって、具体的な形をとることがなかった。眼だけがぎょろぎょろと動き続けていて、そこに映るものを脳に投射し続けた。そしてその全てが、一瞬にして濾過されて後方に消えて行った。何もかも今の僕には必要のないものばかりだった。

ある時僕の背後から車のハイビームが照らされ、直後に、そこの君止まりなさい、とマイクで拡声された声が聞こえた。僕はそれを無視して走り続けた。聞こえなかったのでも敢えて逆らったのでもなく、僕に対して言っていると思わなかったからだ。

車が加速して僕の隣に並走すると、それがパトカーだと分かった。助手席の窓が開いて、止まりなさい中原裕司君、と警官が僕に声を掛けた。

僕はブレーキに手を掛けた。

パトカーから降りてきた警官は、僕の両親が僕を探していることを告げ、今すぐ家に帰るように言った。

僕は首を横に振って、帰れないんです、と言った。

「まだ帰れない」

何をどうすれば帰れるのかを口にしてしまうと、感情が決壊してしまう気がして、僕はただ、帰れない、とだけ言った。

ご両親も友達も心配しているからとにかく一度帰りなさい、と警官は言った。

僕には友達はいません、と僕は言った。「今ここには」

でも君のうちにいるぞ、と警官は言った。

僕はその言葉の意味が分からなくて、警官の顔をただ見返した。腕時計を見ると、時刻は既に夜の十一時を回っていた。

自分の中で何の判断も付かないまま、警官に促され、僕は自転車を自宅に向けて走らせた。パトカーが僕に並走し、道の先を照らしていた。その光をぼんやりと見つめながら自転車をこぎ、頭の中はほとんど空っぽだった。ともし火に導かれる幽霊のようだった。

家に辿りつくと、僕の両親とともに、夏はそこにいた。彼女は玄関の前に腰かけていて、僕が近づくと立ち上がった。

玄関の明かりに背後から照らされた彼女のシルエットを、僕は目を細めて見つめた。

何故こんなところに夏がいるのだろう、と僕は思った。彼女がここにいる理由なんか、一つもないはずなのに。

「どうして」と僕は言った。

そう言って、その後は声が続かなかった。

彼女の顔とその表情は、僕には全く見えなかった。彼女まであと数歩のところまで近づいた時、僕の目から涙がぼろぼろと零れ落ちて、何も見えなくなったからだ。僕は暗闇の中で彼女を抱き寄せて、肩に顔を埋めて泣いた。どうしてもその感情を抑えられなかった。その時、僕も、夏も、僕の両親も、誰も何も言えなかった。

僕が夏を離さなかったので、その結果、彼女は僕の部屋に泊まることになった。両親が諦めて夏の家に電話をして、夏ちゃんを今夜家に泊めても良いですか、明日必ずお送りしますので、と話した。会話は僕の耳には聞こえなかったが、夏の母はあっさり了承したようだった。

僕は彼女が僕のベッドで眠ったのを確認して、自分は隣に敷いた布団の上に座り込んだ。体はくたくたに疲れ切っていたが、全身の神経と細胞がざわついて、まるで眠る気がしなかった。僕は真っ暗な部屋の中で、何度も目を閉じたり開いたりを繰り返した。そうするうちに少しずつ、僕の体の中の振動は収まって行き、やがて、完全な鏡面のように静まり返った。

僕はそのままじっと、身じろぎもせずに考えた。

鏡のような自分の心のすぐ下で、記憶が凄まじい渦を巻いていた。

あの雨の日から、今夜に至るまで起こったことが思い起こされ、自分の体の中に、一つの大きな流れがあるのを感じた。暗闇の中で彼女の寝顔を長いこと見つめていて、そうしているうちに自分の中で決意とか覚悟とか名づけられるものが定まるのを感じた。もう三月を待つまでもなく、何もかもがはっきりし、既に全て決まったと僕は思った。自分がやらなければならないことが分かった。

そして、僕はもう悪夢を見ることはないだろう、と思った。現実で起こるかもしれないこと、果たせないかもしれないことが悪夢になるのだとすれば、僕はこれから、その全てを消してしまうからだ。

俺が殺す。

体の中にその言葉が響き、細胞全体に行き渡った。重さも苦みもなく、しっくりとくる手ごたえがあった。外からやって来たものではなく、僕の体の中から生まれた。

俺が月光仮面を殺す。

僕はそう決めて、目を閉じた。

 

 

 

翌朝のTVニュースを、僕は夏とともに観た。それは僕をもう驚かせはしなかったし、ほとんど感情を揺さぶりもしなかった。そこにある知らせは全て事実の追認に過ぎなかった。

昨日の朝から今日の未明にかけて、真中市及び日光川で新たに合計四名の遺体が発見された。そのうち、昨日の夜に真中市の路上で殺されたのは一名のみで、後の三名は全て、少なくとも昨日より以前に殺された。そのうち一名は一か月以上前から行方が分からなくなっていた真中市住民であり、残りの三名の身元はまだ判明していない。死亡者の内、一名は新聞配達のアルバイト従業員が路上で発見した。のこり三名の遺体を発見するきっかけとなったのは日光川の河口に住む漁師の男性で、所有する漁船の船底にドラム缶が漂着しているのを警察に届け出たところ、中身は果たして死体だった。河口付近を捜索したところ更に二つのドラム缶が発見された。遺体の中には死後一年以上経過しているものもあると見られており、警察は全ての遺体の身元の確認を急ぐとともに、全ての遺体に頭部への挫傷が見られることから、市内で連続している殺人事件と同一犯の犯行とみて捜査を進めている。

そして、身元の分かった一名とは、あの「空き缶じいさん」だった。あの空き缶の館は、雨の晩に既に全て破壊されていた。あのとき彼は僕に「空き缶で堤防を作る」と言っていたが、それももちろん間に合わなかった。最後には自分自身が巨大な空き缶の中に詰め込まれて殺されたわけだ。彼が作ったものは最早何一つ残っていない。僕は目を閉じて、彼のことを想った。

おそらく当然のことだったが、真中市の全ての学校は連日の休校となった。母も仕事を休んだ。「家の外に出るな」と何度固く言い聞かせても従わない息子に対しては、直接見張るしかなかったのだろう。

だが僕は今、外に出るつもりはなかった。まだ夏が僕のすぐ隣にいて、外は晴れていて恐ろしく寒い中を警官やマスコミたちが歩き回っている。出ていく理由がない。

TVは、憂鬱な殺人事件の続報以外には、TVタレント同士の交際が破局した知らせと、僕たちにとっては悪い冗談としか思えない恋愛ドラマと密室殺人事件もののサスペンスドラマしか映し出さない。母がTVの電源を切ったので、僕はレッド・ツェッペリンのライブアルバムをリビングのオーディオコンポで再生しながら、夏とともに日光仮面の日記を読んだ。

頭から最後まで読んだが、別にそこに新しい発見は無い。どこを切り取っても同じような日光仮面の戦いと苦悩の日々が記されているだけだ。見当違いの何かに向かって、過剰な行動力でぶち当たっていく、頭のおかしな一人の男の姿が浮かびあがる。僕は今、日光仮面の気持ちが分かった。これまでずっと、彼は僕の反対側にいて、僕は彼と違う方を向いていた。でも今僕たちは同じ場所にいて、同じ方向を見ていると思った。そんな気がしてならなかった。

夕方になって日が暮れる前に、僕は夏を家まで送り届けた。僕は彼女とつないだ手を離し、今日は絶対に家から出るな、と言った。

「頼む。最後のお願いだ」

夏はまっすぐ前を向いていて反応しなかった。

彼女の髪を撫でて、手を振って別れた後、僕は近くのホームセンターで軍手を買った。それ以外には特に新たに準備するべきものを思いつかなかった。

家に戻ると、間もなく父が仕事から帰ってきた。今日は早く切り上げてきたのだと父は言った。みんな仕事になんかなりはしない、と。そして僕たち家族三人は平日の夕食を共にした。それは久しぶりのことどころか、記憶の中で遡っても最後のそれがいつだったか思い出すことができないほどの稀な出来事だった。

テレビのニュースでは事件の続報が伝えられていた。不明だった三つの遺体の身元が判明し、名前と年齢と顔写真が明かされた。もちろん僕はその三人の顔を知っていた。「河童おじさん」と「ロケットおじさん」と「ドッジボールおじさん」だった。河童おじさんは、昔日光川の上流で河童を見た、と主張してやまない中年男で、かつて河童を探して明けても暮れても日光川の近くを歩きまわっていた。ロケットおじさんは、コーラで作った炭酸エンジンで空を飛ぶことを夢見て日々ロケットの開発に執心していた男だった。ドッジボールおじさんは、毎日倉庫の壁に向かって透明な子供たちとドッジボールをしていた男で、物凄い数の子供の声色を使い分け、一人で何十役もこなしながらボールを壁に投げつけていた。三人とも、テレビに映る写真の顔は以前僕たちと会った時は違う、生きることの苦痛に満ちた表情に見えた。

風呂に入り、勉強するからと言って自室に戻った。椅子に腰かけ、机の上で両掌を上に向けて、十本の指先をじっと見つめた。長い時間じっとそうしていて、これから自分がすることを何度も繰り返し入念に想像した。何度も繰り返すうち、言葉にはどうしてもできない、たぶん自分自身以外には決して理解できない、その瞬間限りの納得感が僕の体の隅々まで行き渡っていた。この感覚は多分、十年後はもちろん、一年先、ひょっとしたら一カ月先の自分自身にさえ理解してもらうことはできないだろうと思った。放っておいたら消えてしまい、空中に紛れ、影の中に溶けて、もう二度と取り返すことはできない。

両親が寝室に入り、完全に気配が消えてしまうと、僕は立ちあがった。時刻は二十三時半を回っていた。既に着替えは済んでいる。唯一の道具である、ローリングスのケースに入った金属バットも昨日のうちに押入れから引っ張り出してある。タオルは要るだろうか、と僕は考えた。血が出たときに拭くためのタオルは要るだろうか。僕は自分に向って、何度言えば分かる、タオルは要らない、と呟いた。血を拭くためのタオルを持っているなんて不自然だ。少しだけ深く呼吸をして、音を立てずにドアを開けて部屋を出た。家の中の明かりは全て消えている。真っ暗闇の中で、ゆっくりと階段を降り、玄関で屈みこむと、履いた靴の紐をきつく縛り、買ってきた軍手を嵌め、バットを背負い、黒い影が隙間から這い出て行くように静かに家を出た。

吐く息は煙草の煙のように白い。僕は歩き出した。自転車は使わない。いくら油を差してもじゃこじゃことやかましい音を立てるあの自転車は、今日の仕事に向いていない。誰にも見られるわけにはいかないのだ。僕の足にぴったりと貼りついたスニーカーはほとんど何の物音も立てない。そして周囲からは何の音も聞こえない。僕はこの街で無音の夜を何度も過ごしてきたが、その中でも最高の沈黙が街全体を包んでいた。風も吹いておらず、ただひたすら空気が凍てついている。ほとんどの家の明かりが消え、空には月もない。三夜連続で人死にが出たこの町にとって、今夜こそ誰も外に出るわけがない夜だ。暗闇と静寂の中で、僕自身さえそこにいないように見えた。

状況は僕に有利だ、と僕は自分に向けて言った。それは、無音と暗闇の中でこの行動が誰にも見つかりそうにないことだけではない。そもそも全てが最初から僕にとって有利なのだ。殺した後で、僕はこう言うだろう。友達の家からの帰り道、殺人犯に襲われたので、護身用に持っていたバットで応戦した、と。今日、今であれば、おそらくその論理は成立するだろう。彼が犯人であることは間違いないが、彼の正体はまだ誰も知らないのだから、僕が計画的に殺したことなど誰にも分からない。しかし、僕が逮捕されるかどうかはどうでもいい。僕が有利だというのはその点だ。この後で何が起こっても構わない。僕が背負ったバットで月光仮面を殴り殺した時、その時点で僕の勝利なのだ。それは今の僕にとってとても強固な事実だ。これ以上に強いものは他にない。

月光仮面がどこにいるのか、僕は既に知っていた。僕はこの一年数か月、誰よりもこの街を隅々まで走り回った。この街の物ならば、すべてを見て回り、すべてを通り過ぎてきた。だから僕には分かっている。彼はまだあそこにいる。あれからずっと、僕が避けてきた、行くことができなかった場所にいる。そこ以外の場所は既に全て僕の足跡で潰して包囲した。彼はそこ以外にいることはできないのだ。

彼は、僕たちの秘密基地があったあの場所にいる。

幹線道路を横切って、僕は住宅区域から水田地帯へと進んでいく。街灯が遠ざかり、人の住処が遠ざかる。四方が開け放たれた空間で、星が曖昧に輝く夜空と突き当たりのない大地に挟まれて僕は歩いていく。無風の冷気が僕の全身を包む。少しずつ日光川が近づいてくる。アスファルトで舗装された道が途切れ、生え放題の雑草と轍に敷き詰められた砂利の道が眼前に広がる。

かつて誠二の家があった場所の近く、数十メートル四方の雑木林の端に開けた空き地、僕たちが数年前までいつも集まり続けたその場所に僕は近づいていった。懐かしさや、その逆の後ろめたさや、その他感傷的な思いは、僕の中にほとんど存在しなかった。僕の中にあるのは緊張感だけだった。背の高い伸び放題の雑草に身を隠して進んではいるが、どれほどひっそりと歩いても、砂利道を踏みしめる足音が頭の天辺まで響いて消すことができない。この音は自分の体の中にしか聞こえない音だから大丈夫だと言い聞かせても、百メートル先まで届いて相手に僕の接近を知らせている気がしてならなかった。外気に触れている顔面以外の体中からじっとりと汗が噴き出して、今すぐ駆け出してしまいたい欲求に駆られた。僕は何度も深呼吸を繰り返して、バットケースから金属バットを抜き、右手に強く握った。僕は両手で何度も開いて握ってを繰り返し、全力でスイングするイメージを頭の中に描いた。あくまでコンパクトに、ためらいなく、できれば背後から頭部に振り下ろして一発で終わるのが理想だが、それより重要なのは終わるまで何度も繰り返すことだ。

ざくざくと生い茂る雑草の合間、暗闇の中に、うず高い影が見えるのに気がついた。僕たちの基地があったちょうどその空間だ。徐々に姿を現したのではなく、気がついたときにもうそこにあって、僕はそっと足を止めて見上げた。

ゴミの山だ。星の光の下、夜の世界に慣れた視界の中で、その輪郭は最初にうっすらと、そして目を凝らすごとにはっきりと見えた。材木やトタン、折れた木や土塊、自転車やバイクや冷蔵庫やエアコンの室外機、そのほか粉々に砕けて原型が何だったのか判別できない、町中のありとあらゆる行き場のないゴミが積み上がり、高く高くそびえていた。それらは今にも崩れ落ちそうにも、今にも続々とゴミが生えて空に向かって伸びていくようにも見えた。

あの雨の夜以来、ここを片付けなかったのは僕たちだけではなかったのだ。

僕は右手のバットを握りしめて深呼吸した。どれだけゆっくり歩を進めても、道はもうあと数歩で途切れ、隠れる場所のない真正面に出ていかざるを得ない。月光仮面はそこにいる。

本当にそこにいるのだろうか? 僕の頭の中だけではなく、実際にそこに?

僕には分からなかった。間違いなくいるだろうと思う。しかし同時に、決してここにはいないだろうとも思う。僕は自分を信じてはいない。いつも半分は自分を疑っている。確かめるためには、実際に歩いて行って、見てみるしかない。

ゆっくりと最後の雑草の壁の手前から顔を出して覗き込んだ。ゴミの山の全貌が視界に入る。鉄錆と油と黴の混ざった臭いが鼻孔を刺す。ゴミがミンチのようにぐしゃぐしゃに固められたその山は、近付くほど僕に向かって倒れ掛かってくるように感じられた。そして近づくほどそれが何によって構成されているのか見分けがつかなくなる。山からあふれ出したマグマのようにゴミの残骸が足元に散らばって、無軌道に突き出したパイプや木材の鋭角が、距離を隔てた僕の眉間でひりひりする。僕は目を凝らした。そこに、動くものの気配はない。

既に僕の全身は四方八方星の光にさらされ、開け放たれた空間に立っていた。ゆっくりと歩を進めるが、あちこちに粉々に砕けた家財や機械の部品が散らばっていて物音を立てそうになる。僕は少し身を屈めたまま、素早く周囲に目を凝らし続けていたが、引き続き動くものの気配はなく、誰の姿もない。だが次の瞬間に、ゴミの山の麓から月光仮面が現れるかもしれないのだ。僕は緊張を解くことなど決してできなかった。

僕はうず高く積み重なった山の方に気を取られすぎていた。僕は近づきすぎていた。無造作に打ち捨てられた、足の折れたベッドや砕けた硝子サッシやブラウン管テレビやボロボロの畳の合間に、誰かが横たわっているのに気がついた時、僕とそれとの間にはほんの数メートルの隔たりしかなかった。

月光仮面だ。

僕の呼吸はその瞬間止まった。泥だらけの白いスラックスとスニーカーの足だけが見えて、体の全体は、捨て置かれた箪笥に遮られて見えないが、僕の呼吸を止めるには十分だった。足しか見えないが、間違いなくあいつだ。あいつ以外に今誰がこんなところにいる? 彼は眠っているのだ。バットを握りなおし、さらに身をかがめ、ゆっくりと足を下ろして近づいた。その時僕は完全に夜に同化した。頭が見えたら、そこに向かってバットを振り下ろす。頭が見えたら、そこに向かってバットを振り下ろす。

僕はたった一つそれだけしか考えなかった。

時間が異常にゆっくりと進み、僕の目にほんの少しずつ、物陰に隠れて横たわる月光仮面の姿が、足元から上に向かって現れていった。彼はあお向けに横たわり、全身が泥にまみれている。スラックスも、ベルトも、ホルスターから二丁拳銃が滑り落ちていて、背負ったマントは真っ黒に湿っている。真っ黒に染みて、白い部分などほとんど残っていない。特に、胸のあたりに広がる染みは闇よりも濃く、じわじわと広がっていきさえするように見えた。さっきまでは微かだった、鉄と生臭い何かが混ざった臭いがどんどん強くなっていく。サングラスとマスクに覆われた顔が見えた。汚れてはいても、暗闇の中で、その体躯と身に纏う全ての衣装のディテールは、記憶にある彼と完全に同一だった。間違いなく月光仮面だった。僕はバットを振りかぶった。脳裏に、彼の頭を叩き割る完璧なイメージが描かれた。両手に渾身の力を込めた。

その瞬間、バットが、空中で何かに引っ掛かった。

僕は反射的に空を見上げた。だがそこには暗闇以外何も無い。どれだけ目を凝らしても、僕のバットと月光仮面の間には何もない。

何も無いのに腕が動かない。

振り下ろせ、そう自分に命令したが、動かない。

僕は視線を下ろし、月光仮面の顔をじっと見つめた。

彼のサングラスを見つめ、汚れきって全く動かない彼の全身を眺めた。何故こいつこんなところで寝ているんだろうと僕は思った。そんなことはどうでもいい、何も考えずに早く終わらせてしまえ、その声は腕まで伝達される途中で、体の中のどこかにぶつかって弾かれた。その衝撃でぜんまい仕掛けが外れてしまったように、イメージの中でバットを振り下ろす自分の動きが緩慢になった。そして現実に握りしめたバットはぴくりとも動かなかった。顔が見えたら直ちに振り下ろすつもりだった。だが僕はそうしなかった。自分でも何故なのか分からなかった。もう一歩だけ彼に近付いた。そしてただじっと彼の顔を見つめた。更にもう一歩近付いた。

躊躇いじゃない、と僕は自分に確認した。違和感だ。

何か、変だ。

全身を高速で流れ続けていた僕の血は、その回転の勢いのまま、自分のバットが高速で振り下ろされ、彼のサングラスを叩き割って頭蓋骨を粉砕するイメージをもう一度描こうとした。だが駄目だった。殺せ、今しかない、その声が頭の中で何度も響き続けていたが、神経と心臓が全く反応しない。何度言い聞かせても駄目だった。どうしても腕が動かない。言うことを聞かない自分の体のどこかから、無駄だ、という声がした。知っている、という声もした。僕は目の前のこの体が放つのと同じ気配を、数年前に味わっていた。それは拭いがたく、だれにも否定できない、避けることのできない、決定的な意味を持つものだった。僕は、これが何なのか知っている。

殺意のイメージが四散し、急速に、僕がバットを握る手から力が抜けて行った。右手にかろうじて引っ掛かり、力無く足元に突き立った。

僕は月光仮面の顔を見つめた。バットで彼の体をつついたが、何の反応もない。

彼は死んでいた。

僕は茫然とその体を見下ろした。彼はぴくりとも動かない。胸に広がった黒い染みだけが、生きているかのように広がっていく。血だ。刃物で深く刺された痕だ。それはすべてが静止したこの空間の中で錯覚にしか見えないが、間違いなくどんどん広がっていく。風のない空気の中に血の臭いが充満していく。僕の呼吸は回復したが、その臭いを吸い込むことができなくて、反射的に後ずさった。

そして心臓が物凄い勢いで僕の全身を叩いた。無音の空間の中で、僕の心臓の音だけが地震のようにやかましく鳴り響いた。

僕は周囲を見回した。相変わらず全く動くものの気配がない。ずるずると後ずさると、転がっていた自転車のフレームに金属バットが触れ、甲高い音をたてた。その音に自分で驚いて振り向いたとき、僕の視界を、うつ伏せに倒れている別の誰かの姿が横切った。

あお向けに横たわる月光仮面の足が指す方向、十メートルほど向こうに、散らばったゴミの残骸に紛れて、誰かが倒れている。

僕は金属バットを捨てて、その誰かに駆け寄った。足元で硝子が割れ、何かのケーブルが足に絡まるのを引きちぎり、僕は屈みこんで彼の体をひっくり返して抱きかかえた。

その顔を見つめるよりも早く、僕は彼が誰なのかが分かった。

それは健一だった。

彼の体も顔も、月光仮面と同じように泥にまみれ、そして、血の臭いに包まれていた。服はあちこち破れていて、左手には汚れたナイフが握られ、抱きかかえた僕の手が彼の右の二の腕でずるずると滑った。血がどくどくとあふれている。僕はその腕の脇の下を両手でぎゅっと握りしめた。反射的な行動だった。

目を閉じて全く動かない彼の顔を見つめた時、僕の動きも停止した。動くものは本当に何一つ無くなり、一瞬、世界全体の時間が止まった。

それを破るように、健一、と僕は呼びかけた。大声で、何度も何度も呼びかけた。握りしめた両手のなかで、彼の脈を微かに感じた。だがそれは今にも消えてしまいそうだった。

僕は空を見上げ、周囲を見回した。誰もいない。半径数百メートル、人はおろか鳥や野良猫の気配すらない。

健一の左手のナイフと血、倒れて死んでいる月光仮面とその胸から溢れ出す血。

僕の頭の中で、言葉と同時にイメージが炸裂した。この場所でほんの少し前に起きた現実が、克明な映像となって僕の中で再生された。

二人は殺し合ったのだ、ついさっき、ここで。

僕はなぜタオルを持ってこなかったのだろう。どうしてこうなると予想できなかったんだろう。

僕は泣いていた。涙の粒が幾つも幾つも健一の体に零れ落ちた。僕は上着を脱ぎ、シャツを脱いで健一の右腕の付け根できつく縛った。そして上着だけを羽織って彼の体を背負い、泣きながら歩き出した。健一の左手から力が抜けてナイフが地面に落ちた。よろよろと歩きながら、健一、と僕は何度も何度も彼の名前を呼んだ。彼は目を閉じたままで、何の反応もしなかった。ほんの僅かに、口の隙間から息が漏れていて、すぐに空気に溶けて消えていった。

どうしてなんだ、と僕は思った。実際に声に出した、「どうしてなんだ」

どうして健一がここにいて、どうして健一が月光仮面を殺すんだ。

俺は馬鹿だ、と僕は自分を罵った。彼は、俺と同じ思考を辿って、殺されているのがあの人たちだということに気が付いていた。月光仮面が犯人だということも彼は知っていた。月光仮面がここにいるであろうことまで僕は喋ってしまっていた。彼はいつも僕たちのために体を張った。彼は本当に優しくて強い男だ。彼が、俺たちの代わりに、月光仮面を殺そうとするのは当たり前のことだ。健一だったら、それを自分の役目と思い、そうするに決まっている。何で俺にはそんなことも分からなかったんだろう。

どうしてなんだろう、と僕は考えた。どうして僕は肝心なことはいつも何も分からないで、何の役にも立たないで、間に合わずに、友達に押し付けて、通り過ごしてしまうんだろう。どうして僕はいつも少しずつ遅れていて、いつも後悔してしまうんだろう。どうして俺は何もかも、いつも、何かが足りないんだろう。

「どうしてなんだよ」と僕は言った、「何やられてんだよ。健一。何であんな奴なんかに。あんな奴、お前なら楽勝のはずなのに」

両足が揃っていたらお前は無敵で、誰にもやられなんかしないのに。

健一の体から僕の体に少しずつ血が伝わり、足元に落ちていく。僕は間違えた、そう思った。何もかも間違えていた。

僕は言葉よりも意味よりも、もっと大事にすることがあった。僕は小説を書くよりも絵を描くよりも、もっと他にすることがあった。

例えば、僕は音楽を演奏するべきだった。下手でも構わないから、意味よりも前に、言葉よりも早く、宙に舞って消えてしまっても、何かに混ざって行き残り続ける音楽を奏でれば、僕も夏も健一も誠二も、こんなことにはならなかったんだ。何かのためでも誰かのためでもなく、ただ美しいものが必要だったんだ。僕たちにはそういう、生きている美しいものが欠けていたんだ。

僕の思考はその訳の分からない地点で止まり、動かなくなった。あとは健一を背負って歩き続け、ただひたすら彼の名前を呼び続けているだけだった。

第五章 二十一世紀