第五章 二十一世紀

高校を卒業するにあたって僕が進学先となる大学を選んだ際の条件は二つだけだった。一つには、学費が安いこと。もう一つには、できるだけ「線」から離れていること。

十九歳になる年、僕は初めて、あの長く細く東西に引かれた線の東の端を超えた。超えられたのはほんの僅かな距離で、できればもっと離れてしまいたかったが、僕の成績ではそこが限界だった。僕が一人移り住んだのは、真中市以上に何もない街で、僕が知っている人間も僕を知っている人間も、一人として存在しない街だった。

それは僕が何年も待ち望んでいた、新しい生活だった。

講義の合間には、僕は大体いつも同じ場所にいた。図書館か、さもなければ経済学部棟のすぐ傍の並木道に沿って据えられたベンチだ。初めてそのベンチを通りがかったとき、そこにはこう張り紙がしてあった。

「天は自ら助くる者を助く」

僕はその紙が張られた隣に座り込んで本を読んだ。そこはちょうどいい具合に銀杏の木の木漏れ日が射す、やさしい風が吹く、数十分の時間を潰すにはうってつけの場所だった。

僕は大体MDウォークマンで音楽を聴いていたので、他の学生たちが大騒ぎしながら目の前を通り過ぎていっても気にはならなかった。数え切れないほどの人々が僕の前を通り過ぎて行ったが、僕と同じように彼らも僕のことを全く気に留めなかった。僕は多くの本を読んだ。多くの音楽を聴き、そしてそれ以上に多くの映画を観た。

地方の国立大学においては、文学を専攻する学生というのは限られた存在だった。それが男となれば尚更だ。時代は不況の真っただ中にあり、将来のことを少しでも真剣に考えるならば、文学を勉強しても何の意味もないという結論に達するのが当たり前だったから、それはごく自然で正常な状態と言えた。僕はフランス文学を専攻しようとしていたが、それは単なる興味本位であり、工学や経済学や法学に興味があればそちらを選んでいたかもしれず、どちらにしても将来のことなど全く考えていなかった。

次の講義の時間が近づくと、MDを止め、本を閉じ、立ちあがって尻を手で払って歩き出した。

教室では正面前方の席に座り、ノートに教授の言葉を書き込んだ。講義名は「宗教学概論」だった。その教授が語るところによれば、宗教において、それが広く一般化する主要因となるのは多くの場合、教義の理解ではなく、個々の儀礼の習慣化によってであるとのことだった。つまり十戒や、復活思想や、般若心経の意味を理解するよりも、それを繰り返し唱えること自体や、洗礼の儀式、祭礼における定型的な振る舞いといったものが、宗教を敷衍し、一般民衆に宗教的意識を植え付ける働きを持つことになるのだ、と。

講義が終わると、三々五々学生たちは散っていく。今日の飲み会の話や、サークルの話や、単位が危ないとかそういう定型的な話が聞こえてくる。僕は誰にも声をかけないし、誰も僕に話しかけはしない。

この時に始まった話ではなく、僕は一人だった。友達は一人もいなかった。

大学に入学してからというもの、僕はこれ以上ないほど規則正しい生活を続けていた。朝7時に起きて朝食を摂り、講義に出て、時間がある日には授業の予習をし、ときどきアルバイトをして、家賃2万3千円の安アパートに帰ってくると、レンタル屋で借りてきた映画を一本観て0時に眠る。ただひたすらそれを繰り返した。

コミュニケーション能力に致命的な不全があったわけではないので、授業中やその合間には、同年次の連中や隣の席に座った誰かと話はした。ただ一歩教室の外に出てしまうとその会話や関係がぷつりと途切れるというだけだった。時々、誰かが僕に携帯電話の番号やメールアドレスを訊ねたりしたが、僕は携帯電話も固定電話も持っていなかったので、結局それ以上物語が続かないのだった。

そんな風に過ごしていると、一年次の7月ごろには見事に一人の孤独な大学生が出来上がった。ただしそれは別に珍しくもなければ独特でもない。そんな学生は僕以外にも数え切れないほど存在して、常に構内を思い思いの方向にうろついていた。事情はそれぞれ違っただろうが、僕たちは日々の習慣の自然の帰結として一人になっていったのだ。

僕はほとんどの場合、過去三年間に身に付けた習慣を押し広げることで生活していたが、新たに始めた習慣がないこともなかった。中古の楽器屋で安物のアコースティックギターを一本買ったのだ。僕は一人でマニュアル本を読んで練習した。休日や、夕方前までに授業が終わった時などは、アパートの周囲に人の気配はなく、僕はレッド・ツェッペリンの「天国への階段」やボブ・ディランの「激しい雨」やビートルズの「ディア・プルーデンス」などの楽曲をたどたどしく弾いて、小さな声で歌った。

ギターは僕の心を冷たく落ち着かせた。音楽が僕の耳と、そして指先と体全体に振動となって伝わり、口から歌声となって出ていく。それが何度も何度も回転するように繰り返され、自分自身が永久機関になったような感覚がした。そして曲が終わってしまうと、そこには何も残らない。僕の体だけがそこに残り、魂は音となって抜け出してしまい、空気の中に消えてしまった後だ。生きているのか死んでいるのか、自分ではまるで分からない。

もちろん僕は生きていた。頭で理解する限りでは生きていた。しかし自分が何故ここにいて、これから自分の人生が一体どうなるのかということは全く分からなかった。今ここにいるのが、何一つ他人の求めた結果のものではなく、自分自身が望んでそうした結果なのだと知っていても、今よりほんの一瞬でも未来のことはまるで見えなかった。そして同時に、すべてが見えていた。明日も明後日も一カ月後も、僕はこうしてギターを弾き、大学の授業を受け、アルバイトをして、本を読んで、映画を観て、悪い夢も良い夢も見ずに眠るだろう。何一つ変わらずに、永久に続いて行くように思える。

永久に続くわけがない、と頭の中では思った。

一年は続くかもしれない。でも三年後は。十年後は?

続くわけがない。いつか途切れるにきまっているのだ。これまでそうだったように。僕の中に切実な感覚として永遠があるわけではない。そんなものは全く感じない。永遠とは全く逆に、ただ単に僕の、未来に対する想像力が限りなくゼロに近づいているだけなのだ。

あの冷たい夜の後、すべての友達が完全に真中市を去り、そして僕自身も高校の入学と同時に、母親の立てた計画に従って町を出た。僕がそれ以上何かをする必要はなく、健一がすべてを終わらせていた。報道では彼の実名は明かされなかったものの、それによれば、宮田健一少年はその日、真中市を訪れた際、月光仮面と名乗る男に襲撃され、持っていたナイフでこれに抵抗した。その結果、宮田少年は右腕と腹部と左脚に重傷を負ったものの、「月光仮面」の胸部にナイフを突き刺し、絶命させた。死亡した「月光仮面」は真中市在住の男性で、警察は男がこの町に起こった連続殺人の犯人であると断定した。死亡時に彼の遺体のそばに凶器と思しき金属バットが転がっており、そこから彼の指紋とこれまでの一連の死亡者の血液が発見されたからだ。現実は誰の目にも明らかなものとなった。健一がナイフを持ち歩いていたことなどほとんど問題にならなかった。なぜ県外に住む健一が真夜中に真中市をうろついていたのかということにさえ、誰も疑義を申し立てなかった。彼はおそらく、前に住んでいた街のことがただ懐かしく寂しくなってそうした、とでも証言しただろうが、彼が何を喋ったところで結論は同じだったはずだ。何しろ彼は連続殺人犯を発見し、襲撃を受け、これと戦って勝った英雄であり、この事実がすべてに優先した。所属していたサッカー部で優秀な成績を修め、いつも明るく優しく礼儀正しく、クラスメートや教師の誰からも尊敬されていた彼の素性が明らかになると、尚更彼の行動の理由など追及する者はいなくなった。僕も事情聴取を受けたが、余計なことは一切語らなかった。僕が話したのは、必要なことだけだった。「あの日の夜、子供のころに作った秘密基地が無性に懐かしくなり、どうしても行きたくなって訪れた。するとそこに健一と月光仮面が倒れていた」。それ以上の説明を誰一人求めることはなかった。そしてこの日以来実際に、真中市から一切の刃傷沙汰は途絶えた。一年がたち、二年がたち、三年半が経ったこの時になってもそうだった。

闇は晴れ、呪いは消え去ったようだった。退屈でどこにも辿りつくことのない日常が、冬が終わる前には僕自身にも真中市にも戻った。それが僕たちの誰もが求めるものだった。ふと背後を振り返ると誰かがつけまわしているような感覚、どの暗がりにも誰かが潜んでいるような感覚は、太陽に溶けて消えた。少しずつ、子供が成長するように、木々が天に向かって伸びていくように、目には見えない速度で、真中市は元の真中市に戻っていった。僕は同級生たちとともに、残りほんの僅かの限られた時間、受験勉強に集中した。

だが、僕は忘れることができなかった。

どうあっても忘れられるはずはないが、この街を去る際に、一つの現実が、ひと際僕の胸を強く刺した。

どれだけ時間が経っても、あの人たちは戻って来なかったのだ。殺された八人以外にも何人もいたはずの彼らは、結局僕がこの街を去るまで、一人も姿を見せないままだった。僕はそれが耐えられないほど寂しかった。

夏と別れた日、それは僕が県外の高校に入学手続きをする前日だった。この町を出て行くことを決めたのは僕よりも夏の家族の方が先だった。夏の家庭は最早彼女だけではなく、その母親にも問題を抱えていたから、夏の父は町を出ていくことをしばらく前から決めていたのだ。だが、夏の家庭がどうあろうと、僕が町から出ていくことには変わりなかっただろう。最初は母がそう決め、僕自身は迷い続けていたのだが、あの夜を越えて、そうしなければならないと考えるようになっていた。月光仮面を殺すと決めた瞬間から、僕がこの街を去ることは決まっていた。

その良く晴れた冬の朝、夏の家を訪ね、彼女と真中市を散歩して歩いた。僕が夏の手を引くと、彼女は黙ってついてきた。僕たちはその日一日かけて町中を歩いた。柔らかい日差しが射す中、小学校を訪れてグラウンドを一周すると、近所の本屋を訪ね、色あせたネオン看板が掲げられたスナックを通り過ぎ、橋の上から日光川をしばらく眺め、潰れた駄菓子屋の前を通り、スーパーのおもちゃ屋に入り、駅前の電車が行き交う高架下をくぐり抜け、神社の前のたこ焼き屋にやって来た。僕たちはベンチに腰掛けて二人で一箱のたこ焼きを食べ、店主にお茶を奢ってもらった。ありがとうと僕が言うと、店主は髭面にしわを寄せて微笑んで、可愛い彼女だなぁおい、と言った。僕は頷いてもう一度、ありがとうと言った。

神社をお参りしておみくじを引くと、僕の運勢は小吉で、夏は大吉だった。「大願間もなく成就すべし」とそこには書かれていて、僕たちは近くの竹囲いにおみくじをくくりつけた。

そしてまたゆっくりと街を歩き、日光川まで戻ってきた。堤防の階段を下りて河川敷を歩き、かつて日光仮面が住んでいた橋の下を通り過ぎた。橋を支える柱の足元に、誰かが供えた花束が枯れていた。日光仮面に対するものなのか、この川が決壊して何人かが死んだことを忘れないためのものなのか、それともその全部に対してのものなのか、分からない。その花束以外にはそこには何もなかった。つるつるのコンクリートが上流から下流まで延々と続いている。最早この川にゴミを捨てるものさえ存在しない。むやみにここに近付く者もあまりいない。だから日光川は、僕たちが初めて出会った時よりも少しずつその清涼さを取り戻しつつあった。

僕たちは堤防に上り、下流に向かって歩き、かつて秘密基地があった場所に近付いて行った。だが僕たちはそこを通り過ぎただけだった。そこにはもう何もなかったのだ。僕たちの基地はもちろんのこと、あの瓦礫の塔のようなゴミの集積もなく、純粋な空き地と化していた。いつかこの場所は誰かによって別の何かに埋め立てられ、ここが月光仮面が死んだ場所だということは僕たち以外の全員から忘れ去られるだろう。僕はそう思った。

そして僕たちは、ゆっくり歩いて夏の家に戻った。風が柔らかく吹いていて、空は深い水色に滲んでいる。どれだけゆっくり歩いても、太陽が沈むまでまだあと数時間あった。時間が止まったような感覚がして、僕は永久に歩き続けていたかった。僕たち以外の何もかもが静止している。僕は、彼女と握りあった手で汗がにじむ感覚を永遠に味わっていたかった。僕は帰り道を引き延ばして、路地をぐるぐると回ったが、やがてどう足掻いても彼女の家の前の道に差し掛かった。僕は立ち止まり、彼女と向かい合った。そして夏の唇にそっとキスをした。

何かを言うつもりだったのだが、結局は何も言えなかった。僕は彼女に自分のことを覚えていてもらうことと忘れてもらうことの両方を望んでいて、その気持ちを表現する言葉がどうしても見つからなかった。僕たちは今ここで別れ、もう二度と会うことはないかもしれないし、いつかもう一度会うかもしれなかった。どちらなのか全く分からなかった。その気持ちをどうしても伝えたいのだが、言ってしまった途端にどちらかの意味に傾いてしまうことは分かっていた。僕の本当の感情は音楽のようなもので、まだ何物にも結びついておらず、声に出した瞬間に消えてしまってもう二度と再現ができない。今僕がただ一つ正直に願うことは、彼女に、僕を含めた、この町のありとあらゆるものから離れて欲しいということだけだった。

僕が手を振ると、彼女も手を振った。そして僕たちは別れた。

 

 

僕は健一と誠二にも、同じように別れを告げたくて連絡を取ることも考えた。だがそうすることはできなかった。事件の後、健一が面会謝絶の病室に押し込められ、基本的に父親以外は誰も会うことができなかったからではない。僕なら頼めば会えただろう。僕は彼の命を救った――真実は、救ったどころか彼を殺しかけた男だったのだが――友達だったのだから、誰が拒めただろう。しかし僕はそう望んで押し通しはしなかった。それどころか病院に近付こうともしなかった。僕たちはこれ以上関わりあうべきではなく、このままばらばらに別れるべきだと考えた。この事件について僕たちが話し合う必要はない。いつか誠二が言ったように、話し合えば関わりが生まれてしまう。ここで終わらせたいのなら話し合うべきではない。それが僕の結論だった。

誠二も同じだ。誠二が言った通り、僕は彼に手紙の返事を書いてはならなかった。そうすれば関わりが戻り、彼の言葉に意味が生まれ、月光仮面を僕たちが計画的に殺したことが明らかになる。僕が誠二に手紙を送れば、いつか誰かがそれを観て何かを読み解くかもしれない。普通の人間には気がつかなくても、観る人が観ればそれは分かる。僕は誠二の手紙を、引っ越す前に家の裏で焼いて捨てた。

二人に会いたかった。健一の怪我が深刻だったことは、その体から溢れる血を浴びた僕には誰よりもよく分かっていた。死ななかったのが不思議なくらいだ。おそらくあのナイフの深く突き立った右腕と左脚には、重い後遺症が残るだろう。誠二も同じだ。彼は少しずつ、知恵と知識を取り戻しつつあるだろう。しかし記憶についてはどこまで戻るのか分からない。彼には長い時間の記憶が欠けていて、それを正確に持っているのは僕なのだ。僕は彼らに対して何かを負っている。重大で取り返しのつかない何かを。だからどうしてももう一度会いたい。会って話がしたい。

僕はその感情を押し殺した。

何のために?

何かのために。

その何かのことを考えれば、僕が彼らに会うべきでないことは明らかだった。なぜ健一が僕に黙って月光仮面を殺しに行ったのか。なぜ誠二が返事を書くなと言ったのか。それを考えれば僕のすべきことははっきりしていた。

重要なのは、友達ともう一度会うことじゃなく、俺が忘れないでいることだと僕は考えた。そして健一も誠二も夏も生きているということが重要だった。自分たちに何が起こったのか、僕はまだはっきりとした整理や理解ができないでいる。しかし、とにかく四人とも生きている。それがこの町を去ろうとする僕には何よりも重要なことに思えた。僕は一人かもしれないが、それでもいい。三人が僕のことを覚えていなくても、考えることができなくても、場合によっては憎んでも、生きているなら、僕が忘れない限り、誰かにわざわざ言う必要もなく、僕にとって彼らは友達だった。

僕は、可能な限り何もかもを忘れないことにした。あの人たちのことも、友達のことも、あの雨の夜のことも、あの夜に自分自身の体に充満した殺意があったことも、友達が僕の代わりにしてくれたことも。僕はそれらとともに生きていくべきだと思った。

 

 

 

僕たち家族はあの長い左右に引かれた直線の、右から四分の一の地点に移動した。父の会社の支社がそこにあり、母はもともとの仕事を辞めて新しい仕事を探した。そこは海に近い、風の強い街で、坂道が多く、安くて旨い魚がいつでも食える街だった。気候はほとんどいつも穏やかで、一年に一、二回程強い雨が降る以外には空に大きな変動がない。もちろん、わざわざそういうできるだけ何事も起こらない街を母が父と相談して選んだのだ。僕はその街に新しい名前をつけようとしたが、途中でそうするべきでないことに気が付いて止めた。この町には真中市とは違う特徴があり、それに従って営まれている生活を、途中から来た僕がどうこう言うのはおかしな話だ。それに、名前をつけたところで、僕はどうせ数年の内にここを出ていくことになるはずだった。

引っ越した先の街や学校で、真中市の事件が話題に上ることは一切なかった。僕がその事件について誰かから質問されることもなかった。少なくとも僕は耳にしなかった。僕や健一の実名はニュースに一度も登場したことはなく、すでに事件から三ヶ月以上が過ぎていたのだから当然と言えば当然だった。真中市民以外はこの事件のことなどすでに忘れ、次々にこの世界のどこかで起こり続ける別の災いに目を向けていた。

引っ越して二、三ヶ月が経った頃、僕は自分が友達を作ることができなくなっているのに気が付いた。誰と話していても途中で会話が途切れ、興味や集中力が消えてしまう。彼の前にいるのが僕である必然性が全く感じられなくなってしまう。自分を省みてみれば、それはごく自然な避けがたい事態と言えた。友達というのは、僕にとっては嘘をつかないで済む関係のことだったが、僕は、相手が誰であろうと、決して本当のことを言うことができなくなっていたのだ。僕は前に住んでいた街で友達と協力して連続殺人犯を殺したのだ、などと言うわけにはいかない。当たり前のことだったかもしれないが、それを隠すということは、自分にとって大きなことだった。それにそもそも僕には、小学一年生のころからずっと、あの三人以外に友達がいなかった。どのみち彼らとの関係以外に友達のあり方など知らないのだ。

その結果、高校生活はほとんど何事も起こらずに過ぎ去ろうとしていた。僕は毎日本を読み、映画を観て、一人で音楽を聴いた。部活動にも参加しなかったし、学校の行事に対しても甚だ不熱心だった。僕が通う高校は共学だったから、教室の中で誰かが誰かと付き合い、喧嘩をして、別れ、また別の誰かと出会う化学反応のような感情と関係の変化がよく見てとれた。誰が何を望み、誰が何を憎み、どのようなグループが存在し、その力関係や無関係性、その退屈さや情熱が、僕にはよく見えた。超越的な外側からの視点を持った研究者としてではなく、僕だけが静止していたから、部屋の中の空気の流れがはっきり分かったというだけのことだった。やることが無くて毎日勉強ばかりしていたから、成績は上位の方にいた。ほとんど徹底的に孤立していたのにクラスの中での居心地が悪くならなかったのはそれが理由だろう。しかし自分が何かを学んでいるという実感は全くなかった。小説や映画と同じく、中学校の時からの習慣でそうしていただけだった。僕は地球の衛星軌道上を周回し続ける燃料の尽きたロケットだった。太陽の光を浴び、地球を見下ろし、重力のバランスの間で慣性に任せたまま飛び続けているが、目的地はどこにもない。

十七歳になった頃、僕は生き方を変えなければならないと思った。

このままではどこにも行けない。誰を愛することも憎むことも、何かに興味を持つことも嫌うこともなく、このまま生きていって一体どうなるのだろう。

何も起こらない。

僕は二つのものを望んでいた。新しい友達と、自分の未来に対する希望だ。それが自分が生きる上で最も重要だということは分かっていた。

友達を作るためには、まず、僕は本当のこと以外の物事を喋る方法を覚えなければならない。おそらく実際には簡単なことだ。嘘をつくわけではなく、ただとにかく何でもよい何かを喋ればよいのだ。僕は別に自分が誰かを殺そうとしたことを誰かに慰めて欲しいわけではない。誰かに知って欲しいわけでもない。誰かと関係を作ることによって、自分自身に、過去以外の別の本当のことが欲しいのだ。つまり現在の僕の言葉を告げる相手だ。誰かとの関係が、僕を現在の僕自身に更新するのだ。そこには嘘はない。僕は、誰かがグループを作っているところに入り込む。何でもいい。ささやかな話から始まればいいのだ。それを複数のグループの端末に対して行う。少しずつ。そうすれば僕もそれほど長い時間が経たないうちに、何らかのネットワークの一部に形成されるだろう。

二つ目の望みについては少々厄介だった。こればかりは他人から与えられるものではなく、方法論も見つからなかった。僕は仮定することしかできなかった。つまり、未来に対する希望とは水の中を時折上流からこぼれて流れてくるごく少量の黄金のようなもので、それを見つけたいのであれば川の中を常に泳ぎ続けて、いつかやってくる気付きを待つしかない、と。要するにそれは生き続けるしかないということだった。とりあえず、僕は様々な本を読んだ。これまではほとんど小説しか読んでこなかったが、思想書や歴史書や数学や科学の学術書も手当たり次第に読んだ。おそらく内容は半分も理解できなかったが、とにかく読み続けた。音楽も古いものから新しいものまでずいぶん聴いた。それまであまり興味のなかったニルヴァーナやU2やオアシスやレッドホットチリペッパーズやハイスタンダードといった最近の音楽を、僕は無理から聴き続けた。

これらの行為は、期待以上の成果をもたらした。始める前は、どうあがいても何一つ変化など起こらないかもしれないと僕は思っていた。だが実際にはあっけないほど、僕が押したスイッチに人々や物事は反応した。僕は何人かの友達を得て、幾らかの新たな知見を得た。それらは僕の生活を穏やかにし、僕の心を安定させた。それらは僕の周辺の時空と僕自身に適度な重力を与え、僕の毎日を滑らかに回転させる習慣となった。高校の帰りにファミレスで繰り広げられる友達との屈託のない会話は、どこまでもくだらなく、楽しかった。今ある音楽は、同じことの繰り返しでも過去の縮小再生産でもなく、真摯な現在の証言なのだと気付くことができた。僕は週末になると友達とともに釣りや買い物に出掛け、連れだって他校の女子生徒たちとカラオケに行ったりした。夜な夜な長電話をし、徹夜でテレビゲームや麻雀をやったりした。

しばらくの内は、それで上手く行きそうに思えた。

実際、ほとんど上手く行っていたと思う。

しかし結局は駄目になった。

その日僕は、いつもと同じように、ただ普通に友達と話をしていただけだった。授業と授業の合間、借りていた漫画を返してその感想を話していた。とてつもなく長い漫画で、その物語の中で紡がれる歴史が連綿と続いて行くように、僕たちの話にも始まりと終わりが無かった。そうしている途中に、僕はふと窓の向こう側を見た。

廊下を3人のクラスメートが笑いながら歩いて行く。

それはただそれだけの光景だった。今までに百万回繰り返されてきた光景だ。

そして別に、僕もそれに対して何かを考えたわけではなかった。具体的な何かを感じたわけでもなかった。鳥が空を横切っていくのと同じような、ごく自然な光景だったのだから、意味を見出して言及することなど何もない。

だが、僕はそこから目の前の友達に視線を戻した時、突然全く何も喋ることができなくなった。ぽかんと友達の顔を正面から見つめていて、何故彼が僕の目の前にいるのか全く分からなくなった。やがて彼の顔から意味が消えて、ただそこにあるだけのものになり、自分が誰なのかも分からなくなった。

友達がずっと話し続けていることだけは分かった。だが僕はそれに相槌を打つこともできなかった。自分が木になったような気がした。言葉が僕の耳から入って脳に到達しているのだが、意味への変換機能が完全に停止していた。やがて、僕がいきなり押し黙ったのに気が付いて、目の前にいた友達が、ってお前聞いてんのか、と軽く尋ねた。

それで一気に耳に音が戻った。教室内のざわめき、チョークの粉の臭い、白いカーテンを揺らす風、床にこびりついた埃、椅子の堅い感触、そんなものたちが一気に戻ってきた。友達の顔は、一瞬前まで意味が消滅していたことなど忘れてしまったかのようにごく自然に目の前にあり、動いていた。僕が微かに頷くと、彼はまた話し始めた。話題は今僕たちが遊んでいるテレビゲームについてだった。僕は全力で微笑み、ちょっとトイレ、と言い、立ち上がって洗面所まで歩いて行った。

顔を洗い、鏡に映る自分の顔を見つめると、昨日までの、さっきまでの自分と何も変わらない。腕時計を見ても、時間はほとんど経っていなかった。感覚が消えたのは、一瞬だけだった。僕は自分に向かって首をかしげた。僕はただ、ぼんやりしていたな、と思い、深く考えなかった。

だが、同じことが、その後も何度も起きた。帰り道の電車の中、公園でバスケットボールをしている最中、図書室に向かうまでの廊下、喫茶店で煙草を吸った直後。そして多くの授業中にそれは起きた。目の前に開かれた教科書の言葉が、日本語でも英語でも記号でもない、別の宇宙に存在する、自分とは全く関係が無い、ただ形だけがあるものに見えた。そして頭の中が真っ黒になった。

その瞬間は、いつも予期ができなかった。必ず僕が忘れた頃に唐突にやってきた。いきなり訪れ、そして大して間を空けず速やかに去って行った。そこに真っ黒な空洞が残り、覗き込んでも何も存在せず、それが僕に何かを訴えかけることもなかった。

僕は、恐怖も困惑も、何も感じなかった。ただ突然であるだけで、自分にとってごく自然な現象であるように思えた。むしろその瞬間は、感覚が戻った後に味わうと穏やかで心安らぐものでさえあった。

意識が暗転した時の静寂と暗闇に比べ、普段の生活は眩しいほど光り輝いていた。めまいがするほどの対比だった。騒がしく活気に満ちていて、僕が声を掛ければ反応があり、ほとんどの時間笑いが絶えることが無かった。

いつの間にか、それが、どうしても耐えられなくなった。

僕は、その暗転がやって来ない普段の時間の方を苦しむようになった。

にこにこと笑って友達と話し合うのを楽しみ、本を読んで新たな知識を身に付けることに快感を覚えるのは、おそらく僕の本当の気持ちだった。だが何かが決定的に足りなかった。心の奥底に凄まじい退屈があった。それは押さえつけがたく、僕の感覚のあらゆる内側か裏側に潜んでいた。感覚が全て暗転してしまうのとは全く別の現象だ。僕は全くの正気のままだというのに、誰と話していても集中力が途切れ、何を見聞きしていても興味が失せてしまう瞬間がしばしば訪れた。そうなると、意識を元の場所に連れ戻すまでに長い時間がかかった。どんどんその時間は長くなっていき、ひどい時には僕の周りから人が全員いなくなるまで戻らないこともあった。僕はその意識に、消えてほしいと願った。心の底から願った。僕が退屈かどうかなんてどうだっていい、正直かどうかなんてどうだっていい、今ここで、ここにある物をそれなりに味わって、ただ受け入れて生活したいだけで、他のものは何もいらない。

僕は自分に対してそう呼びかけながら毎日の生活を送るようになった。表面的な振る舞いは何一つ変わらず、身に付けた新しい習慣は維持し、話す言葉は何も変わらないよう、細心の注意を払った。

それなのに、僕の周りからは次第に友達が減って行った。彼らはほんの少しずつ、だが確実に遠ざかった。ほんの僅かな会話のずれ、タイミングの合わないすれ違いが無数に積み重なって、放課後に僕に呼びかけられる声は遠ざかり、肩を叩かれる回数は減り、彼らは僕が声を掛けられる間合いのほんの少しだけ外側にいて、僕はまるで中学生の時のように、空き時間のたびに図書室に通って時間を潰すようになった。

僕には分からなかった。友達が僕の異変に気が付いていたのかどうか。どうして上手く行かないのか。自分が何を間違っているのか。僕は一体何に退屈しているのか。僕は一体何を望んでいるのか。

分かっていたのは、問題が自分にある、ということだった。自分は以前までと同じようには生きられないし、それを望んでいないということも分かっていた。僕はあの夜に、自分の中に狂気があることを知った。過剰な正直は狂気に至ることを知り、それを忘れずに見張って生きることにした。僕はもう、自分のあんな感情には二度と会いたくなかった。あれが自分の中で極点に位置する自分、自分が最も正直になった瞬間、自分の制御を全て外した瞬間だった。しかしそれは自由とはかけ離れているはずだった。あの時僕は、最も正直でありながら、最も自分自身の奴隷だった。僕はそれとは別のやり方を見つけようとして、結局見つけられないでいるのだ。だが僕には分からなかった。こうした自分の状況が、個人的な過去の事件や経緯だけに起因するのか、それとも誰もが同じように抱え得る問題なのか分からなかった。

音楽と映画だけが相変わらず輝いていた。しばらくの時間の濫読の後、読書は僕の情熱から少し遠ざかり、言語化できないもの、まだ意味に到達していないものを求めるようになり、歌詞の無い音楽ばかりを聴き、古い映画ばかりを観るようになった。どちらも、自分とは違う、すくなくとも今の自分と同じではない、ぼんやりとした情景や感覚を浮かび上がらせる。それらは輝いていた。しかしあまりにも遠くに輝いている、手の届かない星々のようだった。

音楽が終わり、映画が終わると、僕はそれを反芻し続けた。味が無くなるまで、口の中で跡形もなくなるまで噛み砕くと、また次の音楽を聴いて、次の映画を観た。

やがて、あの唐突な意識の暗転は起こらなくなった。特にきっかけも無く、いつの間にか、もう二度とやって来ることは無かった。退屈だけが残った。

高校生活が終わりに近付くにつれ、僕が考えるようになったのは、より遠くへ行くことだった。ほとんどそれしか考えなかった。何物からも、自分自身からも遠くに離れてしまいたかった。

 

 

 

それだけを動機に大学生活が始まった。そしてその望みはほぼ完ぺきに叶えられたと言える。授業に出席して単位さえ取っていれば、誰も僕のことは気に留めないし、文句も言わない。眼を覚ます時間も眠る時間もすべて僕の自由だ。

最早僕はあえて友達を作ろうという気力を持つことができなかった。高校時代の友人とは、一切連絡を取ろうとはしなかった。それぞれ各地に散り散りになり、連絡先が分からないので取りようがなかった。僕の高校から、この田舎の大学にやって来たのは僕一人で、知り合いは完璧に一人もいなかった。わざわざそうなるようにするためにこの大学を選んだようなものだったし、もし誰か知っている人間がいたとしても、僕は関係を保つことができなかっただろう。相手ではなく、相手と一緒にいる自分自身に対する退屈を我慢することができなくて。

自分の生活はこのままで良いのだろうか、という高校生の時と同じ問いは、もちろん折に触れて、というよりもほとんど毎日、自分の腹の底から浮かび上がり、口から這い出て、耳の穴の中に突き刺さって、脳をがりがりとかき回した。そしてそのたびに、良い訳はない、という返答がやってくる。だが具体的な対策案は一切浮かんでこない。

僕は様々なことをやった。様々な種類のアルバイトをして、免許を取って車で旅に出たり、一晩中ランニングしたり、一人で富士山に登ってご来光を見たり、海の遊泳禁止区域までばしゃばしゃと泳いで行き夕暮れになるまでそこでぷかぷかと浮かんでいたりした。何度か体を壊したくらいで、得るものは特になく、退屈な気分には全く変化がなかった。

最も時間を費やしたのは、映画を撮ることだった。映画と言っても、街の情景に、時折僕のあまり意味のないナレーションが被さるだけの、ドキュメンタリーとも紀行映像とも言えない何物でもない動画だ。だが僕は自分でそれを映画だと思っていた。誰もそう思わなかったとしても僕はそう思っていた。僕は中古の家電屋で見つけたハンディカムビデオカメラを手に、行く先々でそれを回した。大学に行っても授業が始まる直前までカメラをあちこちに向けていたから、大体の人間は僕のことを変人だと思ったことだろう。お陰で余計に僕に話しかける者はなくなった。

生きものが正面に映る場合、大抵は人間以外の何かだった。犬や猫や、大学の池に住みついていたアヒルたちだ。僕は彼らに話しかけた。

「どこへ行くんですか?」

僕がそう聞くと、僕がアフレコした声で、野良犬が応えた。

「飯を探してんだよ。それ以外やることあるかよ」

犬は走り去っていき、僕はその後ろ姿を追ってカメラを回した。

そんな映像を撮り溜め、夜になるとパソコンで映像を切り貼りして、編集したものに音楽を張り付けた。威勢の良い映像は一つもなかったから、選ばれるほとんどの楽曲はジャズや静かなアコースティック音楽だった。

時々、アパートの一階自室の窓際に腰掛けて、夜空を見上げてカメラを回していた。月の横を薄い雲が横切っていくのを延々と映し続けた。足元に猫が近寄ってきても気がつかない。三日月も、上弦の月も、下限の月も、満月も撮った。しかしそれは真上の階に住む住人に中断させられることがあった。上の階の住人は僕と同じく学生で、彼がしばしば恋人を家に連れ込んでセックスを始めたからだ。それもかなり激しいセックスだった。彼らは窓を開けてやっていたので、声は何のフィルターにもかけられずに僕のもとに直接落下してきた。我慢とか理性とかは全く感じられない大学生らしい嬌声だった。田舎に住む大学生にとってセックスは極めてポピュラーな習慣であり、僕が住む地域はほぼ学生専用のアパート街であったため、そこかしこからセックスの声が集まって合唱となる夜もあった。まるで、乱交パーティの真っただ中で僕一人だけが相手を見つけられずにカメラマン役を押し付けられたようだ。大体は僕は撮影を止めて、ヘッドホンで音楽を聴きながら本を読んだが、時々は撮影を続行して、足元に寝転がった猫を映して、女たちの喘ぎ声が吹きこまれていくままに任せたりした。

かつて僕が真中市じゅうを回って、行くところがどこにもなくなってしまったのと同じように、大学に通う日々の周辺での撮影を続けている限り、早晩撮影するネタは尽きてしまう運命にあった。どこへ行っても変わり映えのしない退屈な田舎町としか言いようのない対象だけになってしまい、わざわざ映像として記録しておく理由が見つけられない。大学二年の後半にもなると、僕の撮影は単なる悪癖となって続いているだけだった。映像をカメラに収めても、それをわざわざ編集することはない。ただ素材としてハードディスクの中に溜まっていき、電源を抜かれて半永久的に床の上に転がっていた。

僕はやがて人間を映すようになった。大学の構内を行き交う人々を映し、道行く人々を映し、公園で遊ぶ子供たちを映し、八百屋のおばさんや農作業中のおじさんを映した。そんな中で、最も長い時間撮影をした人間が二人いた。そして、彼らにだけはセリフがあった。

一人は僕と同じ大学に通う学生だった。学部は違ったが、彼女は僕の一年先輩で、いつも大学近くの公園にいた。足元に古いラジカセを置いて、大体はそれから古めのポップソングを流しながら、一人黙々と踊り続けていた。彼女のスタイルはたぶん基本的にはジャズダンスと呼ばれるものだった。それが少しクラシックバレエ寄りの動きを取り、緩急の差と回転の激しさに特徴があった。具体的な何かを体で表現するというよりは、流れるサウンドに身を任せるのと、そこに重なる感情に従って素直に体を動かしているという感じがした。誰かに教わった風でないことは、初めて観たときから感じていた。そのせいで彼女の踊りにはでたらめさと繊細さが、彼女が望んだ以上の量で同居していたのだ。

初めてこの光景を目撃した時は、遠巻きにカメラを回した。名前など無い、どこでもない公園の昼下がり、見物人は僕だけではなく、近所に住む小学生たちも、サッカーや縄跳びをしながら眺めていた。僕は彼らの背後に回り、ゆっくりと歩いてその光景全体をカメラに収めた。踊る彼女は、短く切った髪を揺らして、汗を流して、どこでもないどこかに視線を向けていた。僕はもちろん、子供たちも眼に入らないようだった。ほとんど休憩もなく踊り続けていたが、十数分の内にカメラのバッテリーが切れてしまい、そこで撮影を切り上げざるを得なかった。

数日後に似たような時間に同じ公園に立ち寄ったところ、再び彼女はそこにいて同じように踊っていた。前回よりももう少し近づいてカメラを回した。今度は他には誰もいない。ズームインして彼女の顔を正面からとらえると、一瞬だけこちらに目を向けた。僕は地べたに座り込んで、彼女の踊りを映し続けた。腕が振り上げられ、汗が散って、音楽よりも彼女の動作の音の方が聞こえてくる。やがて音楽が終わり、彼女の動きが静止し、空を見上げたまま動かなくなった。僕も彼女も動かず、風がひらひらと木の葉を舞わせて通り抜けた。しばらくすると、彼女は動き出し、足元のラジカセを拾い上げて歩き去っていった。僕の方は見もしなかった。僕は、去っていく彼女をカメラに映さず、いなくなった空洞に向けたままにさせて、じっとそのままでいた。公園には誰も訪れず、静寂が立ち込めて、空は曇っていった。

彼女の名前を知り、会話をしたのは三度目に会った時のことだった。場所も時間帯も全く同じだ。この時、僕がカメラを向けると、彼女は直ちに踊りを中断した。足元のラジカセの停止ボタンを押し、僕に向かってつかつかと歩いてきた。

「あんた誰? 何やってんの? 変態?」

第一印象は、思ったより細い声なのだな、ということだった。

「そこの大学の文学部の中原。映画を撮ってる。変態じゃない」

僕はそう答えた。

「映画って、あの映画?」

「あの映画だ」

「なんで私を撮ってんの」

「何でも撮るんだ。眼に映るものは何でも」

「大して内容変わらないのに、何で三回も撮りに来てんの」

「観ていて飽きなかった。まだ撮り足りないと思って。不思議な踊りだ」

「わたしゃドラクエの『どろにんぎょう』か」

彼女はそう言って鼻で笑った。

「今日はもう踊らない?」と僕は訊いた。

「踊らないよ、文学部の中原君。踊ってほしい?」

「そのために来たから、どっちかと言うと踊ってほしい」

「でも変態の前じゃあ踊れないな」

「じゃあカメラだけここに置いておく」と僕は言った。「回しっぱなしにして。俺はいなくなるから、好きに踊ればいいんじゃないか。しばらくしたら戻ってくる」

僕がそう言うと、彼女は、その言葉の意味を少し考える風だった。やがてすぐに、彼女は声をあげて笑った。

「なにそれ。馬鹿じゃないの」

僕も笑った。笑ったのは久しぶりのことだった。

私、横沢燈、と彼女は名乗った。「ひへんに、のぼるって書いてアカリ。法学部の3年生」

「中原裕司」と僕も改めて名乗った。「余裕のユウに、つかさどる」

その間も僕はカメラを回し続けていた。

「なんていう映画?」と横沢燈はカメラに指を向けて尋ねた。

「『なんていう』って?」

「タイトル。題名」

僕は首を横に振って、この映画に題名はない、と答えた。一度も考えたことがなかった。

「題名はつけた方がいいよ。話が終わらないからね。終わんないでしょ?」

「どうして分かる?」

「私の踊りにも題名がないから」

僕は納得した。

結局その日彼女は踊らなかった。代わりに僕たちは近くの喫茶店に寄ってアイスコーヒーを飲んだ。

僕たちはいくつかの話をした。大学のこと、音楽のこと、小説のこと、映画のこと、そして就職活動のことを話した。大学の授業の内容は僕たちにとってほとんど重なるところがなく、燈はほとんど本を読まず、彼女は就職活動から逃れたくて仕方がない状態だったから、自然と話すのは音楽と映画の話ばかりになっていった。彼女は驚くほど多くの音楽を聞き、多くの映画を観ていた。コールドプレイは聴いたことあるか、と尋ねられて首を横に振ると、彼女はかばんの中からCDを取り出して、テーブルの上に置いたラジカセで再生した。神経質で弱弱しく美しいギターとボーカルがスピーカーから流れ始め、僕は、いい歌だ、と言った。やがて押しも押されぬビッグバンドに成長する彼らだったが、時は二〇〇一年、外界からの情報がほとんど入らない環境に生きている僕はその存在を全く知らなかった。新しい音はどこにもないけれど、奏でられるメロディは何故か、確かに二十一世紀の到来を僕に感じさせた。とっくにカメラのバッテリーが切れているのに、僕は席を立つまで気が付かなかった。

別れ際、燈は僕にコールドプレイのCDを貸してくれた。いつ返せばいい、と僕が訊くと、多分いつもあの公園にいるから返しに来て、と彼女は答えた。僕はありがとうと言って、自転車に乗って去っていく彼女の背に、バッテリーが空になったカメラを向けた。

 

 

 

もう一人の撮影対象は、近所に住む煙草屋の老婆だった。僕が住むアパートのすぐ裏手に小さな煙草屋があり、大学に入ってから少しずつ喫煙するようになった僕は、いつもそこで煙草を買っていた。そして、日本の小さな煙草屋には古くから付きものの、地霊のような小さな老婆が守り神となってそこにいたのだった。

老婆は僕がカメラを向けても向けなくても、まったく表情が変わらなかった。笑顔だ。キャビンのスーパーマイルド、と僕が銘柄を指定すると、笑顔のまま、特徴的な白と赤のパッケージを棚から取り出す。僕が一〇〇円硬貨三枚を手渡し、老婆が二枚の十円硬貨を僕に返す。そのやり取りを大学に入学してからというもの何百回も繰り返した。

彼女が「あの人たち」だということに気が付いたのは、出会ってから一年以上経った後のことだった。その日は雨が降っていた。しかも猛烈な勢いの雨で、それは僕に1995年の真中市での大雨を思い出させるほどだった。大学からの帰り道、横から突風とともに吹き付ける雨を全身に受けながら、まず僕は自転車に乗って帰るのを諦め、次に傘をさすのを諦め、額に手をかざしながら歩いてアパートに帰った。

全身がぐしゃぐしゃになって、洗濯機の中に着ていた服を全て放り込んでスイッチを押すと、下着姿のまま椅子に腰かけて、ステレオのリモコンを操作してコールドプレイをかけ、かばんの中の煙草を探した。見つけると、手ごたえのない箱の中に、空洞が広がっている。僕は買い足しに行くかどうか迷った。せっかくこの大雨から逃れてきたばかりだというのに、また水浸しになるのはいかにも馬鹿げていたが、それよりもとにかくこの音楽を聴きながら煙草が吸いたかった。僕はこの頃には立派な喫煙中毒者になっていたのだ。

適当なTシャツとハーフパンツを身に纏い、小銭を持って外に出た。一応傘を手に持っていたが、相変わらず差しても無駄な勢いの雨が殴りつけてくる。

そして徒歩三十秒の場所にあるあの煙草屋の前で、あの老婆が膝をついて俯いていた。傘もささず、アスファルトに額をこすりつけて、土下座の状態で雨に打たれていた。小さく丸まって、まるで風呂敷包みから人間の頭が飛び出しているような光景だった。

僕は立ちつくしてその様子を茫然と見つめた。見てはいけないものを見た、という直感が脳裏を反射的に横切り、僕は踵を返しかけたが、一声かけて無事を確認するのが道理だろうと考えた理性の声が勝った。僕は老婆に駆け寄って、雨がどかどかと叩きつける中で身をかがめ、大丈夫ですか、と声をかけた。やかましい大雨だったが、意識があるなら十分聞こえるはずの大声だった。しかし反応はない。

僕が肩をゆすり、大丈夫ですか、ともう一度声をかけても同じだった。更にもう一度声をかけてダメなら放っておくか、救急車を呼ぶかどちらか決めよう、と思った時、ゆっくりと老婆の体が動き始めた。

老婆は膝をついたまま体を起こし、上空を見上げた。彼女は口を開け、雨を顔面に受けながら、眼を閉じた。

「鎮まりたまえ」

老婆はそう呟いた。鎮まりたまえ、そう何度も呟いた。

僕はそのセリフよりも、彼女の表情に気を取られていた。老婆の笑顔以外の表情を見たのはこの時が初めてだった。無表情だ。顔色は異常に白く、僕は彼女が今にも死んでしまうのではないかと思った。

「この雨はしばらく待てば止みますよ」

僕はそう言った。老婆は首を横に振って、止みはせん、と答えた。

「わしらを押し流す。わしらはみんな死ぬ」

ここから離れて、屋根の下でお祈りしましょう、と僕が言っても、老婆は頑として動かなかった。この煙草屋の前でなければ老婆の祈りは天に届くことはないようだった。老婆は再び額を大地に突いて、ぶつぶつと祈り始めた。

僕は仕方なく、身をかがめて、持っていた傘をさして老婆の背の上に差しのべた。僕自身は雨に打たれたままだったが、既に体は衣服と肌の境界が感じられなくなるほど水浸しになっていたから、これからどれだけ雨を防ごうと大した意味はなかった。それよりも僕が考えていたのはビデオカメラのことだった。アパートに戻り、カメラを持ってきてこの状況を撮影するべきではないかと。そしてすぐに、それが愚かな考えだということに気が付いた。こんな雨の中では僕の安物のカメラはすぐに故障してしまうだろう。僕はどうしようもなくなって、雨がやむまでじっと老婆の背に傘をさし続けた。

僕の予言通り、雨は三十分足らずで小雨降りになっていった。しかし永劫とも思える三十分だった。僕は傘を閉じると顔面を両手でぬぐい、思い切りくしゃみした。既に日没の時刻を回っていた。雨の音の代わりに、静かな風の音があたりを包み、雲が上空を高速で流れていくのが見えた。

老婆は立ち上がろうとして、腰が上手く上がらずに尻もちをつき、背中の方に倒れこんだ。僕は彼女の肩を抱えて体を起こし、さっきまで足を曲げっぱなしだったのだから急に立ち上がらない方がいい、と言って、地べたに座らせたままにさせた。

老婆は無言だった。どうしてこんなことをするんですか、と僕は尋ねた。

昔、雨の日に人が死んだので、と老婆は答えた。

「祈りが足りなかったので」

僕は首を横に振った。何も言わずにただ首を横に振った。

更にしばらくして、老婆が立ち上がると僕は、煙草を売ってくれと頼んだ。キャビンのスーパーマイルドと釣りの二十円を受け取った時、老婆の表情はいつもの笑顔に戻っていた。アパートに戻るとコールドプレイがかけっぱなしになっていて、僕はタオルで全身を拭くと、深く煙を吸い込んだ。翌朝、僕はものの見事にひどい風邪を引いて、二日間家の外に出られなかった。

それからというもの雨になると、僕は必ず煙草屋の前まで出かけて行った。するとやはりそこに老婆が土下座の姿勢で祈りを捧げていた。激しい雨の日も静かな雨の日も、老婆は同じ姿勢だった。僕は傘を差したままカメラを回して彼女の姿を少しだけ映し、持ってきたビニールシートを彼女の背にかけてアパートに帰った。

 

 

 

燈と僕が会って話す頻度は週に二回か三回と言ったところだった。そのうち一度は彼女が踊る様子をカメラに収めたが、後の一回か二回は、特に目的もなく会話をした。僕たちは大学の構内を歩きながら話したり、喫茶店で話したり、図書館で小声で話したりした。時々は互いの家に行ったが、そんな時は大体映画を見たり、音楽を聴いたりして、会話というよりは二人で時間を消費する風だった。

燈とは、映画の趣味も音楽の趣味も合っていた。僕の側からすればということだが。正確に言えば、燈の趣味を大体僕は気に入り、僕の趣味は彼女にあまり受け入れられなかった。僕が最も好きな映画は相変わらずスティーブン・スピルバーグのままであったのが、彼女にとってはスピルバーグは世俗のくだらない軽薄さに身をやつし過ぎているように見えたのだった。僕はそれは違うと説明した。

『シンドラーのリスト』以前のスピルバーグは、己の欲望と大衆の欲望を完全にコントロールしていた。自我を超える映画を作っていたのだ。自我の無い映画ではなく。彼の夢は僕たちの夢であり、彼の達成は僕たちの達成だった。彼の映画の特徴は、僕たちを映画の中に完璧に連れていくことだ。それは彼以外の、他の誰にもできなかった。ここには子供の頃の僕たちの記憶が永遠に封印されている……

燈は僕の話を全く聞いていなかった。その代わりに僕に山中貞雄や溝口健二や長谷川和彦や成瀬巳喜男の映画を見せた。僕はどれも気に入ったが、これらとスピルバーグが本質的にどう違うのか、実は僕には全く分からなかった。

何度もそうして互いの家に通ううちに、彼女が僕のことを気に入っていることは分かって来た。好きだったのかどうかは分からなかったが、少なくともセックスしても良いと思っていることは分かっていた。彼女は僕のぴったり隣に座り、肩を寄せて話をした。そしてその眼は潤んでいるとまでは言わずとも、僕の瞳を真正面から見つめていた。

僕はと言えば、あまり深く考えていなかった。互いの家に通うということはそういう可能性があるということだと分かってはいたし、何しろセックスは僕以外のほとんど全ての大学生の最も一般的な習慣なのだ。しかし燈はこの時僕のたった一人のプライベートな同世代の知り合いで、既に僕の中で特別な存在になっていたのだから、そのたった一人とわざわざセックスによって更に結ばれなければならない積極的な動機が見出せなかった。いつかそうなるにしても、できる限りそのことは考えないようにした。

理屈で考えれば、僕たちはそうするべきではなかった。僕たちは友達だったのだから。僕は燈のことが好きだった。しかし恋はしていなかったし、愛してはいなかった。そこまで強い性欲も感じなかった。その状況でセックスをすれば僕たちの関係が砕けるだろうということは、論理的に明らかだった。

しかし、セックスというのが論理的なものなのかどうかを僕は知らなかった。論理を超えて何かが起こるかもしれない、という可能性は捨てきれない。その可能性は僕たちの関係をより良いものにするだけの効果を持つのかもしれない。それとも逆に、全く何も起こらないのかもしれない。たかが勃起した海綿体を経膣内に挿入することが、人間関係に致命的な影響を及ぼすと考える方が幻想なのかもしれない。結局僕が深く考えないようにし、また彼女を深く拒まなかったのも、その未知の可能性が原因だった。

夏の終わりの夜、僕の家で映画を見た後にその時がやって来た。

二人でスタンリー・キューブリックの「バリー・リンドン」を観た後、燈はシャワーを貸してくれ、と言った。そして二十分後、バスタオルを巻いて部屋に入って来た彼女は、黙って明かりを消した。いきなり真っ暗になった部屋で、慌てて意味もなく立ち上がった僕は、燈に抱きつかれてベッドに押し倒された。彼女は僕の口の中に舌を差し込み、熱い息を吐きかけた。彼女の体は柔らかく、普段僕が使っているボディソープとシャンプーの匂いに包まれて、いつもとまるで別の生き物のように感じられた。

彼女は僕の服を脱がし、体をまさぐった。僕たちは無言だった。僕の方には言うことなど何もなかった。何してるんだよ、とか、本当にいいのか、とか、あるいは体を褒める何らかのコメントとか、何を言っても彼女の全身から伝わる熱気を邪魔してしまう気がしたからだ。いつかそうなるかもしれないと予期はしていたが、僕の気は動転していた。彼女の勢いが僕の予測を遥かに上回っていたからだ。暗闇の中で微かに見える彼女の眼は、金塊を見つけた鉱夫のように血走っていた。さすがにこの状況をカメラに収めようという発想はこの時の僕には現れなかった。

僕たちは互いに完全に裸になって抱き合った。燈は僕の髪を撫で、胸の中に頭を抱きしめた。僕が彼女の細い背中を撫でると、彼女は微かな声を上げた。

「あなたが好き」

燈はそう言った。細く、窓の外で吹く風の音に紛れて消えてしまいそうな声だった。そして僕の体中に口づけ始めた。

僕は天井を見上げ、彼女の唇を肌に感じながら、同時に、胸の奥に刃物が突き刺さるような痛みを感じた。僕の眉は歪み、全身が虚しさに包まれた。そして僕の脳裏に夏が現れた。彼女と別れてからの数年間、これほどはっきりと彼女の顔を思い出したのは初めてだった。暗闇の中で、睫毛の一本ずつまでくっきりと見えるほど、彼女が僕の目の前にいた。その顔はもちろん、十五歳の時のままだった。僕の性器は全く勃起していなかった。燈がどれだけ触れても無駄だった。むしろ彼女が近づいて触れるほど、僕の性器は不能になっていった。

やがて燈の手が止まり、彼女は僕の肩に額を当てて動かなくなった。

僕はついに口を開いて、ごめん俺が悪いんだ、とだけ言った。全くその通りだったからだが、言ってから後悔した。しかし、それ以外には何も言う言葉が見つからなかった。この瞬間とは、何を言っても最悪な気分にしかならない瞬間だったのだ。

僕も燈も、打ちのめされていた。熱気は完全に消え去り、かつて二人の間を覆ったことのない沈黙と暗黒が、じわじわと汗の間でうごめいた。脳裏から夏の顔は既に消え去り、僕の頭と胸の中には燈に対する罪悪感しか存在しなかった。

 

 

 

そして状況は僕が危惧したとおりに推移した。僕と燈はそれからぷっつり会うことが無くなってしまったのだった。公園に行っても彼女の姿はなく、大学のキャンパスは広すぎてすれ違うこともなかった。彼女のメールアドレスは知っていたのでパソコンを使えばそこに連絡できたが、送るべき文面が全く思いつかなかった。

僕は燈の履修している授業を幾つか聞いていたから、時間を合わせて教室に行けば、おそらく会うことはできた。だが行けなかった。周りに人がいるところで、狼狽した男子学生に声をかけられる彼女にとっての迷惑さ加減も気にかかったが、何より問題は僕の中に言葉が全く見つからないことだった。僕は彼女のことを友達だと思い、彼女は僕のことをそう思っていなかったのだ。僕に何が言えるのだろう。

大学二年の終わり、僕は映画を撮るのを止めた。小さな液晶板に映る風景を見つめ続ける行為には完全に飽き、どこへ行くにもビデオカメラを持ち歩く自分自身にもほとほと愛想が尽きていた。ハードディスクの中に溜まった映像素材は二度と再生されることはなく、行き場もなく机の下に転がったままだった。

そのため僕には本格的にやることが何もなくなった。二年間かけて誰よりも真面目に授業に出席し続けた結果、僕は卒業までの単位を既にほとんど取り終えていた。卒論に向けたゼミが始まるのもまだ先のことだ。三年生になると、僕の居場所は大学に存在しなかった。もともと存在しなかったのが、ようやくはっきり事実として現れたとも言える。大学の構内のそこらじゅうで桜の花びらが舞い散り、新入生たちが晴れやかな表情で校舎を行き来する。サークルの新歓コンパの呼びかけが聞こえてくる。果てしなく遠くから聞こえてくる。

僕は週に三日か四日は原付に乗って遠出した。東西南北どの方向にも向かっていったが、最も多くの場合に目的地としたのは、東京だった。上野動物園の近くの駐輪場にバイクを停めると、そこから山手線に乗って東京を巡った。秋葉原、新橋、品川、恵比寿、渋谷、新宿、池袋と回って、上野に戻ってくると、バイクに乗って真夜中過ぎにアパートに戻った。中でも足しげく通ったのは新宿と渋谷と池袋だった。別に何かをするわけではなく、ただ歩くためだ。この三つの街にはいつ行っても恐ろしい数の人間がいた。特に週末の夜にもなると、人の波に押し流されて道端で立ち尽くすことすらままならない。これほど多くの人間が存在するのに、僕のことを知っている者は一人もいない。僕が知っている人間も一人もいない。僕は、すれ違う人々が何を目的にこの街にやって来たのか想像しようとした。友達や恋人と遊びに、仕事をしに、買い物に、あるいはどこかからどこかへ移動する途中の通りすがりに。理屈ではそれは分かるのだが、何のためにそんなことをしなくてはならないのか、そして実際に具体的には彼らが何をしているのかが全く想像できなかった。彼らは僕と同じようにただこの街を歩くためだけにどこからともなく大量に集まって来たように感じられた。

僕がやっているのは果てのない時間つぶしだった。夜が来ても、明日の朝が来ても、状況は一向に変わりがない。僕は誰でもいいから誰かに会いたかった。三人の友達や、燈はもちろんのこと、かつての「あの人たち」にも会いたかった。だが彼らはみんないなくなってしまった。殺されて、姿を隠して、そして、僕の目が彼らを見つけられなくなって。

次第に僕の睡眠時間は短くなり、それもほとんど昼間に寝るようになったため、夜が主な生活の土台となった。つまり暗闇と静寂だ。それはどちらも、自分の内なる声と強制的に向き合わさせるものだった。その声は非生産的な事実を僕に告げていた、お前は同じことを繰り返している、何十回も何百回も同じことを繰り返している。お前はここから永久に抜け出すことはできない。お前は誰も、愛することも憎むこともできない。

そんなことをわざわざ繰り返し確認していても仕方がない。

大学三年の秋になると、僕は一つの意志を定めていた。それは、一刻も早く社会に出て働きたい、ということだった。誰とも出会わないこの環境に身を置き続けるのはもう限界だった。聞こえてくるのは自分の声ばかりで、そんなものに耳を傾け続けたところで何も生まれはしない。自分のことなど考えていたくない。

僕は他の全ての学生がそうするように、リクルートスーツを身に纏って企業の説明会に足を運んだ。毎回原付で東京に通うのは骨が折れたので、高速バスに乗って二時間かけて行き、セミナーを受けたりグループワークをやったりした。誰も彼も同じ格好をして似たような髪形をしていて、僕自身があまり自分と他人との見分けがつかなかった。僕は不思議だった。企業の担当者はこの匿名的大集団の中からどうやって数人なり数十人なりを選び出すことができるのだろう。誰が経営方針にふさわしく誰がふさわしくないか、誰が優秀で誰がそうでないか、どうやって分かるのだろう。

しかし分かるものなのだ。その証拠に試験が始まると、僕は次々と選考に落ちていった。全く箸にも棒にもかからなかった。空前の就職氷河期が到来した今、学生時代にサークル活動や学業での成果が何もない僕を人事担当が採用する理由は何もなかった。それどころか僕には友達すらおらず、普段は人と会話さえしていないのだ。面接で話していても、果たしてこれが目上の人間に対する正確な言葉遣いなのか、自分でもあまり自信が持てなかった。

「学生時代に最も打ち込んだことは何ですか?」

「映画を撮ることです」

「どんな映画ですか?」

「特に内容はありません。風景を映したり、犬や猫を映したり、近所の煙草屋のおばあさんを映したり」

「それはどういうテーマや目的で? それをどこかに応募したりした?」

「特にテーマも目的もありませんでした。ただ映画が撮りたかったんです。それに、完成しなかったので応募もできませんでした」

そこまで話すと普通の面接官は呆れてしまい、次の話題に移るか、面接の切り上げに入る。テーマも目的もない人間、そういう人間があっさり内定をもらえるほどこの競争は優しくなかった。

始まる前からそうなることは覚悟していた。数千人の中から選ばれるのは常に数十人のみで、僕は自分がその数十人の側にいるなどと考えたことは一度もなかった。落ちるのが当たり前なのだ。しかし今更短期間で何らかの輝かしい実績を上げることも、自分の人格を急に変えることもできない。自分を変えるのが無理なら相手に期待するしかない。つまり、どうにか僕のような人間で妥協してくれる物好きな会社を見つけ出すしかなかった。骨が折れ、憂鬱な作業だったが、僕は毎日がりがりと手書きの履歴書を書き続け、しわの目立つリクルートスーツを着て面接に通った。

僕は片っ端から試験を受けた。メーカーやマスコミや商社やITなど手当たり次第に、金融や保険などの業務内容が僕には想像さえできない業界以外は端から端までだ。幾つか選考をこなす上で分かって来たのは、あらゆる会社は僕の本音など全く求めてはいないということだった。考えてみれば当たり前で、僕が考えていることなど僕自身にも正体のつかめない漠然とした焦りや恐怖といったネガティブなものでしかなく、行きつくところは無目的とノンテーマ、ノーコンセプトでしかない。僕自身さえ求めていないものを面接官が求めるわけがない。つまり上手く嘘をつくことが肝要だ。おそらく僕以外の就職活動をする学生にとってはそれは自明のことだったのだが、僕はそうした常識を知るまでに長い時間を要してしまった。ともあれそうと気付いた僕は自ずから、「学生時代に打ち込んだこと」の修正を行った。要は、完成していない映画の内容を頭の中で改竄したのだ。映画は「虚構の春」というタイトルで学祭で公開したこととし、居もしない同級生や後輩たちをスタッフや役者として登場させ、僕は脚本兼演出兼監督として数々の困難を乗り越えて完成までこぎつけた、ということにした。どこに出しても恥ずかしくない、完璧に近い「学生時代に打ち込んだこと」だ。映画は学生たちや教授たちにも評判となり、打ち上げの夜の別れ際に皆で泣いた記憶は学生時代の最高の思い出です、と僕は語った。

「私はそうした経験を御社での仕事に生かしたいと思っています。人と協力して何かを形にすることや、誰かに何かを伝えることは素晴らしいことだと思っています」

そうした話は自分でも驚くほどすらすらと語ることができ、一切矛盾は生じなかった。

無論、多少虚しい気持ちにはなった。学生生活の終わり、普通ならばこれまで学んできたことを発揮するはずのタイミングで、自分の言葉がほとんど全て嘘になったのだから皮肉ではあった。だがそんなことはほとんどどうでも良かった。最早そんな感情は僕にとって無用なナイーブさだった。とにかく社会の片隅に引っ掛かって生きていくことを僕は望んでいた。社会や他人が僕を求めているのではなく、僕がそれらを求めているのだ。僕は、それが何であれ、目の前の物事を受け入れたいという意志に満ちていた。僕は予測した。入口の段階で既にこうして難儀しているのだから、この先は僕にとってもっと空虚で、嘘に満ちた将来が待っているのだろう、と。それに論理的に考えて、今まで他人との付き合いがほとんど存在しなかった人間が社会に関わろうとするときに、そのままの態度でいられるわけはなかった。すぐには無理かもしれないが、僕は変わらなくてはならないのだ。

僕は中堅どころの印刷会社から入社の内定を得た。実に六十五社目のことだった。

 

 

 

残った大学生活は、まるで凪のような時間だった。卒論は九月にはほとんど書き終えてしまい、僕が大学でやるべきことは何一つ残されていなかった。映画を観て、本を読み、音楽を聴いたが、一切の内容は頭の中を通り抜けて行って何も残らなかった。

それでも時間は経っていき、時間が経つということは命が動いていくということだった。

十月の終わりに、煙草屋の老婆が死んだ。肺炎に罹り、病院に運び込まれてから亡くなるまで二週間とかからなかった。

ある日キャビン・スーパーマイルドを切らした僕がいつもの煙草屋に向かうと、そこに老婆はおらず、見慣れない中年の女が店員の代わりを務めていた。おばあさんはどうしたんですか、と僕が尋ねると、母は病気に罹って入院しました、と答えがあった。入院先を訊くとすぐ近くの大学病院だったので、お見舞いに行っても良いかと僕は尋ねた。老婆の娘は驚いた顔になって、構いませんけどどうしてですか、と訊き返してきた。

とにかく暇で時間だけは幾らでもあるんです、と本当のことを答えても仕方がないので、おばあさんの笑顔にはいつも元気づけられたから、心配で、と言った。

老婆の娘は涙ぐんで、ありがとうございます、できれば是非そうしてください、と言い、こう続けた、「母はもう長くないと思いますから」。

僕は早速その翌日、近所のスーパーで果物を買いこんで大学病院に向かった。老婆の病室は三階にあり、六人部屋の窓際のベッドをあてがわれていた。その部屋の中は死の匂いに包まれていた。だがそれは穏やかな匂いだ。何かに激しく抵抗する熱も、運命の残酷な冷たさもなく、振り子が音もたてず静止する直前のような雰囲気だった。僕は老婆のベッドの脇に置かれた台に果物籠を置いて、こんにちはと言った。

老婆は僕の方を見て、少しだけ大きく目を開いた。弱弱しい息が口から漏れ、しかし言葉にならなかった。僕のことが誰なのか、彼女は分かっていたのだろうか。彼女の息はかすれ、顔色は見る目もないほど灰色にくすみ、意識が明瞭であるのかどうかも定かでなかったが、それ以前に、三年以上に渡って顔を合わせ続けてきた僕のことを、彼女がもともと一個の人間として認識していたのかどうかさえ、僕には分からなかった。喋らなくていいです、と僕は言った。

「早く良くなってくださいね」

老婆は首を横に振った。長い時間をかけて、ゆっくりと、何度も首を横に振った。そのうちに、彼女の眼には涙が滲んできて、僕はそれを見ない振りをした。

特にそれ以上の言葉はなかった。僕が老婆にみかんを差し出すと、彼女は首を横に振った。

彼女の顔を見つめていると、この目の前の命がまもなく消えて行くのだということが、どう説明されるよりもはっきりと理解できた。灰色の空を見上げて雨が降るのを待つような、予め決められたことが今ここで起こっているのだと。そう思うと、僕は納得すると同時に寂しい気持ちになった。胃の底に小さな重い塊が生まれ、それは僕を俯かせた。

僕が見舞いに行った一週間後に老婆は死んだ。煙草屋は閉められ(そしてその後二度と開くことはなかった)、再び見舞いに行った僕は病院の受付で老婆の死を知らされた。

「お気の毒に。ご愁傷さまです」

受付の看護婦は僕に向かって沈痛な声でそう言った。彼女の顔は死を憐れむというより僕を心配するような表情だった。僕はそんなに、打ちひしがれた悲痛な顔をしていたのだろうか。

病院を出ると、僕は唐突に、燈に連絡を取ることにしようと思った。今話さなければ僕たちは永久に話すことはないだろうという直感が僕の胸を貫き、そうしなければならないと思った。ポケットから就職活動の為に買った携帯電話を取り出し、彼女のアドレスに「中原です。話したいことがある」とだけ書いてメールを送った。

返事は十分後に返って来た。「いつもの公園にいる」とそこには書かれていた。

僕は「今すぐ行く」と返信して、自転車を漕いだ。

僕たちが会うのは二年ぶりのことだったが、会うと決めてから実際に顔を合わせるまでには三十分もかからなかった。彼女は変わっていなかった。あのときと同じように踊り、髪の長さも表情も、公園での立ち位置も変わっていなかった。ただ少しだけ、踊りの重心が安定するようになっていた。彼女が普通ならとっくに大学を卒業している年のはずだということを僕は忘れていた。

音楽が終わり、久しぶり、と僕が声をかけると、彼女はタオルで汗を拭きながら頷いた。

「何の用?」

「一緒に葬式に出て欲しいんだ」と僕は答えた。

「誰が死んだの?」

僕は背負っていたバッグからビデオカメラを取り出し、小さな液晶板に映る老婆の姿を燈に見せた。老婆は固定されて動かない笑顔でカメラを見返していた。

「この人が亡くなったの?」

僕は頷いて、ついさっき、と答えた。

「あんたの親戚?」

僕は首を横に振った。「何も関係はない」

燈は微かに眉を歪め、しばらくした後、分かった、と答えた。ありがとうと僕は答え、詳しい場所と時間はまたあとでメールする、と言った。

そして翌日、僕と燈は老婆の通夜に立ち会った。死に化粧が施された老婆の顔は穏やかで、健一の母親の死に顔を思い出させた。死ねば皆こうした顔になるのだろうか、と僕は思った。どのように生きたか、どのように死んだか関係なく。

通夜の後、僕と燈は近所の居酒屋で食事をした。二人とも猛烈に腹が減っていて、注文した料理をとにかく食べ続けた。一通り皿を空にした後、燈が煙草が吸いたいと言うので、僕は一本渡して火を点けてやった。

「あんた就職先決まったの?」

僕は頷いて、印刷会社の営業になる、と答えた。

「何で?」

「何でって?」と僕は訊き返した。

「何でその会社にしたの?」

「働きたいんだ。基本的に働ければどこでもいい」

「向いてないよ。私が保証する」

「何でそんなこと分かるんだよ」

「一度に三つ以上のことを同時にやるの苦手でしょ? どうもそれが仕事って奴らしいよ」

「向いてるとか向いてないとか関係ないんだ。働かなくちゃならない。そうする以外にやることが特にない」

「無理だよ。やらなくても分かる。誰もあんたのこと止めなかったの?」

「誰が止めるんだよ。止めてどうするんだよ」

燈は僕の方をじっと見つめていた。その顔は僕に対して深く失望しているようにも憐れんでいるようにも見えた。

「何で今日私を呼んだの」

「どうしても話したくて。何でもいいから何かを」

「あのお婆さん、どんな人生だったのかな」

「分からない。あの人については、ずっと以前に大事な人を大雨で亡くした、ってこと以外には何も知らないんだ」

「それなのになんでそんなに悲しそうなの?」

「俺にとってこの街での数少ない知り合いだ。あとは燈だけだ。四年間、他には誰とも話す気がしなかった。何度か習慣を変えたけど、結局何にもならなかった。何をやっても現実感がなかった」

「たぶん、就職しようがなにしようが、きっと変わらないよ、それ」

「分かってる。でももうこれ以上ここにいたくないんだ」

「どうして話してくれないの?」

「なにを?」

「大切なことを隠してるでしょう?」

「何も隠してないよ」

「あなたが何も話さないから、誰もあなたに何も話さないんだよ。だから長い時間、当たり前のことが当たり前に起こり続けて何も変わらないでいるんだよ」

燈は僕の方を見つめ続けていたが、その表情はさっきまでと違っていた。一年以上前に最後に会った日の夜の表情に似ていないこともなかったが、実際には、彼女の現在の感情が心の中で渦を巻いたのではく、記憶の中に過去の感情が見つかっただけのことだったろう。つまり、今はもう何の感情もないが、かつて好んだ男を見る目だった。

僕は何も言えなかった。誰にも言えない。起こったことを永久に誰にも言わないと決めてから、まだ七年しか経っていないのだ。

燈の携帯電話が鳴った。メールが着信する音だった。燈は携帯電話を手にとって覗き込み、僕に少しだけ背を向けて俯き、ぱちぱちとボタンを押した。

「彼氏?」と僕は訊いた。

燈は頷いた。

店を出て別れ際、僕は燈にありがとうと言った。この日一日付き合ってくれたことに対して心からそう思ったからだが、期せずしてその言葉には多重の意味が込められていた。

燈は首を横に振った。それにも多分幾つかの意味が込められていた。普段気が付かないだけで、僕たちの行動にはいつも複数の意味があった。だがわざわざそれを取り上げることはない。世界はいつもできるだけシンプルな振りをしている。

僕は燈と別れ、また一人きりの生活に戻った。その後、僕たちはもう二度と会うことはなかった。

 

 

 

春がやってきて、僕は東京に出て働き始めた。

白く清潔なワイシャツにネクタイをきっちり締め、濃紺のスーツを身に纏って僕は東京中を歩き回った。

恐ろしく多忙な日々の始まりだった。過去四年間の静寂とはまるで別世界だった。

僕が配属されたのはメーカー・小売担当の営業部署で、僕自身は主に家具やホームセンター、スーパーといった業種の企業を担当した。簡単に言えば、彼らが新聞に折り込むチラシやら店に張るポスターやら商談用のパンフレットやらを大量に印刷する仕事だ。

今となってはどうして事前に想像できなかったのかが不思議なのだが、それは予め覚悟していた以上に過酷な仕事だった。チラシというのは毎日、特に週末になると大量に、新聞を開けば必ずそこに挟まっているものだ。つまり、毎日誰かがどこかでその大量のチラシを印刷しているということだが、それがどういうことを意味するのか僕は全く理解できていなかった。そのスケジュールは最初から歪んでいるのだ。金曜日に折り込まれるチラシの納品期限は水曜日の夕方で、火曜日の午前中には校了しなくてはならない。印刷見本となる色校正を一回も出さずに校了する原稿などないから、前の週の金曜日には一度入稿しておく。月曜日にクライアントに色校正を確認してもらい、修正があれば反映して翌日に入稿するわけだ。全ての物事がスムーズに進めばただそれだけの作業だが、基本的にそうなることは決してない。金曜日に僕に託されるべき原稿は必ず深夜まで修正が行われて、入稿ができるのは真夜中を回ったところだし、提出した色校正には必ず膨大な量の修正が入る。そして校了できるのは火曜の午前中どころか、水曜日の太陽が昇る直前だ。巨大な輪転機がゴリゴリと高速で回転し、三十万部のチラシを刷り出す。しかし納期には間に合わない。僕は倉庫の担当者に電話して謝り、あと三十分で納品します、と頭を下げる。実際にはあと二時間半はかかるのだが、そう言わざるを得ない。

それと同じような案件が七つ同時に進行する。そしていつまでも終わりなく続いていく。僕の体重はあっという間に五キロほど減り、顔つきは変わり、安物のスーツはぼろぼろになった。休日は、その時間のほとんどを死んだように眠って過ごした。

これはありふれた物語だと僕は思った。多くの人が僕と同じように働いている。誰もが当然のように僕に徹夜を要求する。働いているのも怒鳴りつけられているのも僕だけではなく、誰もがそうなのだ。僕はそれを慰めとしたのではなく、現実として受け入れた。燈は僕に、働くのは向いていない、と言った。その通りだと思ったが、そういう問題ではない。結局誰かがこれをやらなくてはならないのだ。それが僕である必要はないが、誰かである必要がある。そういう生活を続けて行くと、自然と人生の意味が減少し、自分でも他人でも変わりがない、誰でもない誰かになっていく。

それは、予測していたものとは大きく違ってはいたが、ある意味自分が望んでいた生活だったと気が付いた。僕は考えることに疲れ切っていた。誰とも心を通い合わせることができないことにも、愛するものが何もないことにも、全てに対して疲れ切っていた。僕たちは都合よく人生を搾取されているのかもしれないが、ここにいる限り、僕は余計なことを何一つ考える暇がない。ただひたすらチラシやポスターやパンフレットを入稿して納品し続けることだけが求められていて、僕の過去も僕の未来も、仕事とそこに費やされる時間には何の関係もない。

だから僕は仕事を辞めるつもりはなかった。同期はどんどん辞めて行き、そのたびに僕は送別会で飲めない酒を一杯だけ飲んだ。誰もが口をそろえて、ひどい会社でひどい世の中だと言った。僕も心からそれに同意して、かつての同僚たちの次の職場での幸福を祈った。なぜお前は辞めないのかと、入社して1年目の終わりごろに辞めた同期が僕に訊いた。僕の部署は社内でもかなりきつい仕事を回されていて、僕の顔色は決して良いとは言えず、表情には拭いがたい疲れが見えたからだろう。僕は、もう少しここで頑張ろうと思うんだ、と答えた。頑張ったって無駄だ、先には何もない、と彼は返した。僕は頷いた。その通りだとは僕も思っていた。僕の正直な答えはこうだ、「自分にとってはどこでも同じだから、別のところに行く意味がない」。だがそれを、今から辞めて別のところにいく人間に言うわけにはいかなかった。

休みなく働き続け、昨日と同じ明日が何百回も繰り返され、僕は順調に歳を取っていった。本を読む気力も、映画を見る暇もなかった。僕はただひたすら通勤電車の中で音楽を聴き続けた。

僕は二十五歳になった。2006年のことだ。その年の冬に、父が死んだ。

 

 

 

海に近い風の強い街に、僕は一年ぶりに帰省した。一年に一度、年末年始の折にだけ帰省する習慣が続いていたが、この年だけはそれが数週間早まった。冷たい風が吹きすさび、僕はいつにも増して、「帰って来た」という感覚を抱くことができなかった。ここは僕の街ではないという感覚は何年たっても僕に付きまとい離れないのだった。

葬儀の全てが片付き、僕は母と二人で家にいた。数少ない親戚もすでに一旦引き上げた。石油ストーブの上に載せたやかんがことこと音を立てて湯気を吐き出し続けていた。僕は煙草に火をつけて、天井に向かって吐きだした。実家で煙草を吸うのはこれが初めてのことだった。

父の死の予兆を、僕は全く察することができなかった。その年の初めに帰省していた時には、健康面での不安などどこにも見受けられなかった。多少血糖値が増えた程度で、週末になれば釣りや山登りに出かけて行く、僕が子供だった頃の父と何も変わりがなかった。とはいえ父と母があえて隠していたわけでもない。全ては一瞬だった。父は十二月の頭に、一人、仕事で残業していたある夜に、オフィスで脳溢血で倒れた。帰宅が遅く心配した母が電話しても父は出ない。ビルの管理人に問い合わせて確認してもらったところ、果たしてデスクで突っ伏している父が見つかった。そのとき既に父は死んでいた。五十五歳だった。

全てが瞬く間に進行したので、僕も母も感情に身を任せている暇がほとんど存在しなかった。父が倒れた日、その日の夜が明ける前に、母からの電話で叩き起こされ、そのまま新幹線の始発に乗った。葬儀屋を手配し、会社に忌引の連絡を入れ、香典返しの準備をし、あれこれの手配をしているうちにあっという間に数日がたち、父の体は灰になった。

僕が考えるのは母のことだった。母の肩は落ち、さして大きくない体はより小さくなったように見えた。僕は、母を一人にしておくことはできないだろうと考えた。

「母さん」と僕は声をかけた、「東京に来るか、この街に住み続けるか、どっちがいい?」

母はゆっくりと振り返って僕の顔を見つめた。

「何で東京なんかに行かなきゃならないの」

「要するに、母さんが俺と一緒に住むか、俺が母さんと一緒に住むか、ってことだよ。どっちがいい?」

母は首を横に振った。

「どっちも嫌だわ」

「嫌ったって、そういう問題じゃないだろ。どっちかにしなくちゃ。それともここでも東京でもない、別の場所に住むのか? 当てでもある?」

母は再び首を横に振った。

「裕司、あんたとは一緒に住まない。私は一人で大丈夫」

「なんで?」

「お父さんの遺言だからよ。私の遺言でもある」

「親父、遺言なんて残してる暇なかっただろう。母さんの遺言ってどういうことだよ」

「遺言じゃなくてもずっと前から二人でそう思ってたの。子供が生まれたら、特に男の子が生まれたら、その子の好きなようにさせるって。私たちがその邪魔になるようなことはしないって。だから裕司は東京でもどこでも好きなところに行って、自由に暮しなさい」

「母さんはどうするんだ?」

「私はまだ元気だし、働けるし、この街に友達ももう何人もいるから大丈夫。貯金もあるし。だから裕司は好きに生きなさい。あんた冷たいように見えて妙に優しいところがあるから、私とか父さんとか、誰かのことを気にしているのかもしれないけど、そんなのは考えなくていいから、自分の思った通りのことをやりなさい。私と父さんはそれが一番幸せなの。あんたが幸せでいることが一番幸せなの」

僕は首を横に振った。僕には、僕が幸せでいることと、母をこの街に残していくことに関係があるようには思えなかった。

「自由でいるのよ。若い男には自由でいることが大切なの。そして誰かを好きになって、子供が生まれたら、今度はその自由を子供にあげるの。そうやって続いて行くの。私は、時々こっちに来て顔を見せてくれればそれでいいから」

「本当に母さんはそれでいい?」

「それがいいの。とりあえず、あんた少し休みなさい。働き過ぎよ。まるで楽しそうじゃない。どっちかと言うと、もしも私の言うことを聞いてもらえるなら、私と住むとかどうとかより、一刻も早く今の仕事を辞めてほしいわね」

母はそう言うと、この話はもう終わった、とばかりに、テレビのリモコンを手にとって、NHKのドキュメンタリー番組にチャンネルを合わせた。僕は僕から顔を背けた母の背中を見つめながら、分かった、と言った。

「少し休むよ」

 

 

 

それで僕は休暇を取ることにした。就職して以来、年末年始を除いて一週間以上の長期の休暇を取ること自体が初めてだったが、会社に対するその申請は予想に反してあっさりと通った。信じられないことに、入社以来僕を小突きまわし怒鳴りつけ働かせ続けてきた上司は、少し休んだ方がいい、と母と同じセリフを言った。そうします、と僕は答え、かばんに着替えを詰め込んで東京駅から新幹線に乗った。

とはいえ、目的地は全く決まっていなかった。自分の意思でそうしたにもかかわらず、突然日常の行き先を失って、僕は体が空中に放り出されたような気分だった。分かっていたのは、季節は冬の真っただ中で、これ以上北の寒い場所に行く気にはなれないということだけだった。僕は西に向かうしかなかった。

とりあえず山中の温泉街に立ち寄り、適当にインターネットで探した旅館に宿泊した。真っ白い湯気の立ちこめる露天風呂に全身を浸し、頭の上にタオルを載せ、深呼吸をしながら鬱々とした山間の風景を眺めた。ぎりぎり年末年始の休暇シーズン前で、僕以外に宿泊客はほとんどいなかった。浴衣に着替えて、部屋の端で缶ビールをちびちびとすすりながら、僕は死んだ父親のことを考えていた。

僕の父は自分の考えをあまり表に出さない人だった。何が好きなのか、何が不快なのか、僕に対して何を望んでいるのか、特に何かを望んでいるわけでもなかったのか、良く分からなかった。しかし、漠然とではあるが、分かっていることもある。父は僕のことを信頼していたはずだった。僕がやること、僕が望むこと、僕が言う言葉に、父は基本的に一切の反論をしなかった。ただ黙ってそれを聞き、僕に対してそのまま進むように促した。つまり僕に対してどこまでも寛容な人間だった。何を根拠に、何の目算があって父がそうしていたのか僕には分からなかったが、その父の態度が僕のこれまでの人生に多大な影響を及ぼしているのは間違いないところだった。

僕はビールを飲み干し、俯いた。暗澹たる気分だった。結果として、その父の寛容さに、僕の人生は到底答えられているとは言えないだろう。みじめでも孤独でも構わないが、望むものが何もないというのは最悪だった。息子にそういう人生を送らせるために三十年以上働いて脳梗塞で死んだ父親に対する懺悔の気持ちが、僕の胸の内でマグマのようにぐつぐつ湯だった。

僕は思った、数年後か数十年後かに母が死んだとき、僕はまた同じ気持ちになるのだろうか。また同じように、僕の自由を望んだ人がいて、それに全く答えることができなかったと思いながらその死を弔うのだろうか。

このままいけばおそらくそうなるだろう。僕は缶ビールをもう一本開けた。それを飲み干すうちに僕は少しずつまどろみ、眠りに落ちた。

 

 

携帯電話のバイブレーターが振動する音で僕の意識は覚めた。もう朝が来たのか、と僕は思った。片目を半分だけ開いて、暗闇の中で電源ケーブルにつながった携帯電話のありかを探った。僕は毎朝携帯に目覚ましアラームを設定していた。それが指先に触れ、液晶板の光が僕の目に刺さっても、僕はまだ、あたりの暗闇が、自分が目覚まし時計に設定した時間よりはずっと以前の時間だということに気が付かなかった。

気が付いたのは、そこに見知らぬ電話番号が記されているのが見えてからだった。しばらくの間、僕は手の中で振動し続ける携帯電話を見つめていた。

これは仕事の電話だろう、と僕は思った。時刻は丑三つ時を過ぎて間もないところだが、そうした狂った時間に電話を受けることには慣れている。ほとんどの場合それは狂った仕事か、酔っぱらった上司からの呼び出しのどちらかだ。番号は知らない数字だったので、後者であることはないはずだった。だから僕は電話に出ることにした。それが客であれ誰であれ仕事であるなら、この電話に僕が出なければ、すぐ後に、不在のうちの業務を預けてきた同僚に雪崩れかかることになるだろう。彼らにこれ以上そんな類の迷惑をかけたくはなかった。

僕はまだ半分閉じた目で、もしもし中原です、と粘つく口を開いて呟いた。

〈もしもし、裕司か〉

その声を聞いた瞬間、全身にいきなり鳥肌が立った。

何故なのかは自分でも分からなかった。反射的だった。

僕は目を開いた。

ああ、と僕は頷いた。「裕司だよ」

手を布団に突き、上体を起こして、裕司だよ、と僕はもう一度言った。

〈久しぶり〉

久しぶり、と僕も答えた。

良く知っている声だった。懐かしく、温かい響きだった。あまりにも懐かしいので、僕は自分がまだ夢を観ているのではないかと思った。昔の夢を観るのはよくあることだ。そこでは僕はまだ十四歳か十五歳で、詰襟の学生服を着こんでいる。僕は宿題を忘れたりテスト勉強に追われたりしている。仕様もないろくでもない夢だ。観ているときは一刻も早く覚めて欲しい類の悪夢だ。しかし目が覚めると少しだけ寂しくなる。そこにいた友達が、今は傍にいないことに気がついて。そして自分がそこから十年以上隔たっていることに気がついて。

「久しぶり、健一」と僕は言った。

〈久しぶり、裕司〉と健一が答えた。

僕は笑った。声に出して笑った。自然と腹の中から笑いがこみあげてきて、僕はそれを制御しなかった。健一の声が昔と変わっているのか変わっていないのか、僕には分からなかった。ただそれが彼の声だということだけが分かった。それがおかしくて仕方なかった。

〈何で笑うんだよ〉

「だってお前今何時だと思ってるんだよ。夜中の二時半だぞ。それが十年ぶりに電話する時間か?」

〈ああ、だから出ないかと思った。普通出ないだろ。お前どういう生活してんだよ〉

そう言って、健一も笑った。馬鹿野郎ふざけんな、と言って僕は笑った。

「どうやってこの番号が分かった?」

〈簡単だよ、裕司のお母さんに聞いたんだ。うちの親父と裕司の親父さん、結構長いこと草野球仲間だっただろ。だから俺たちがあの町を出た後に、親たちは互いに引っ越し先の電話番号知ってたんだ〉

「そういうことか」と僕は呟いて、苦笑した。実は僕たちのつながりは断たれていなかったわけだ。

〈親父さん、気の毒だったな。おばさんに聞いたよ。きつかっただろ〉

「ありがとう、大丈夫だ。あんまりいきなりだったから、驚いたけど」

〈電話しようかどうか迷ったんだ。本当に迷った。何時間も考えてて、だからこんな時間になっちまった。お前に話したいことがあって、でもどうしようかと思って〉

「いいよ」、と僕は言った。

お前の電話を、お前の頼みを、俺が嫌がるわけないじゃないか。

〈裕司、お前明日時間あるか?〉

「あるよ、幾らでもある、久しぶりに。今、休暇なんだ」

〈会えるか?〉

「いいよ」

〈今どこにいる? 休みの予定を変更させるのは悪いから、そっちに行くよ〉

「気にするなよ。俺がそっちに行く。予定なんかないんだ。ただぶらぶらしてるだけで、当ては何もない。むしろ行き先を誰かに決めてもらう方が楽だ。そっちに行く。今どこにいる? 明日行くよ」

健一が、少し息を吸い込む音が聞こえた。ありがとう、と健一は小さな声で言った。

〈そうしてもらえると実は助かるんだ。裕司が知ってたかどうか忘れちゃったけど、俺今両足が不自由なんだ。あまり早く動けないから、来てもらえるとかなり助かる〉

 

 

 

翌日会うべく、健一と約束した場所は、真中市から西に数百キロ、かつて、ちょうど僕が、左右に引かれた直線の西端に設定した都市にあった。僕は始発に乗ってその街に向かったが、僕がいた場所が幾分「直線」から離れ過ぎていたためずいぶん時間がかかり、着いたのは昼前だった。

健一が指定した場所は、中央通りから路地を二つ三つ曲がった先にある喫茶店だった。看板に潔く「珈琲」と書かれているだけの、蔦が這った古臭い面構えの店で、客は僕たち以外には老人が三人いるだけだった。彼らは見るからに、一杯のコーヒーだけで一日中粘り続けて毎日この店に常駐している風情だった。そして彼ら以外に新規でやってくる客はきっと数人といまい。

健一は窓際のテーブル席にいた。彼が座っている隣には松葉杖が立てかけられていた。

「この店何年前から営業してるんだ?」

「俺たちの倍くらいの年齢じゃないかな。家から近いんで、楽なんだ」

健一はそう答えた。そして微笑んで、久しぶり、と言った。

僕も同じように微笑み返して、久しぶり、と言った。そして左手で軽く握手をした。僕たちは二人ともブレンドコーヒーを注文した。

「裕司、変わってないな」

「いや、自分ではすごく変わったと思う。ほとんど残ってないけど、昔の写真を見ても自分の顔みたいに見えないんだ」

「変わってないよ。すぐにお前だって分かった」

「健一の方が変わってないよ。全然十年前と変わらない」

それは少しだけ嘘だった。確かに彼の顔形は以前と変わりなく、僕は雑踏の中でも彼を見分けることができただろう。しかし、目の前の彼は以前の彼とは明らかに別人だった。それが単純な十年という時間の経過によるものか、特殊な何かをくぐりぬけたためにそうなったのか、僕には分からなかった。

精悍だった健一の顔は、形は変わらずとも、影が差し、疲れがあった。昔、僕と健一が並んで立った時、二人はまるででこぼこに見えた。彼は大きく、僕は小さかった。背丈はそこまで変わらない。彼が分厚い体にはち切れそうなエネルギーを抱えていたからそう見えたのだ。だが今、僕たちが並んで立っていたら、まるで兄弟のように見えるのではないだろうか。

「いや、俺は全然別人になったよ。お前なら見て分かる通り。分かるよな? ずいぶん長いこと、夜眠れないんだ」

「どうして?」

「どうしてかが分かればあまり苦労はない。とにかく眠れないんだ。特にこの数年がひどい」

「薬とか飲んでも駄目なのか?」

「薬を飲んでもあまり効かない。大体、薬で眠るのはいい解決策じゃない。結局本当の睡眠とは少し違う別の場所に押し込まれているだけだから、疲れに対して借金しているようなものだ。どっちみち後で跳ね返ってくる」

「何があった?」

「何かはいつもあるよ。お前だってそうだろう。原因はいつも一つじゃない。いつもいろんなことが同時に起こってる」

僕は頷いた。コーヒーが運ばれてきて、僕たちの間にその芳香が漂った。窓の外から犬の鳴き声が聞こえてきた。健一と僕はコーヒーをすすりながらその不機嫌そうな声に耳を傾けた。

「裕司に会いたかったのは、その中の一つを相談したかったからだ」

健一は席の隣に置いたかばんの中から一冊の本を取り出した。美術雑誌だった。健一はそれをめくり、付箋の貼ってあったページを開いて、僕に示した。

そこにはとある美術コンクールの入賞作品たちが紹介されていた。顔色の悪い人間や、無機的な風景の絵や、何が描いてあるのだか分からない絵たちの中に、僕たちがかつてよく見たのに良く似た絵と、よく知っている名前そのものがあった。

その絵は、地の底まで落ちて行く四角い穴のような黒い絵だった。言葉で表面的な印象を語るなら、それだけで説明の終わる絵でしかない。だがどう観てもそれだけの絵ではなかった。ただ単一の黒ではなかった。四方八方から無造作に、そして徹底的などす黒い線で埋め尽くされたその絵は、全ての光を吸い込むようにも弾いているようにも見えた。そこには奥行きがあり、時間がある。何かがそこにいるように見える。暗闇よりも暗い空間の中に、何物かがうごめいている。実際にそこに何かがいるのかどうか分からない。ただその気配だけを感じる。実物よりははるかに縮小された、ただの簡素なオフセット印刷の紙面だというのに、僕はそれを見つめていたくなかった。だがどうしても目が離せなかった。

作者の名前は、上村夏。

本の中の他の絵が消えて、その絵だけになった。周囲の音が遠ざかって、光が消えた。僕と、その絵と、書かれた名前だけになった。

それ以外が全部消えてしまう直前に、僕は顔を上げて、健一と眼を合わせた。健一はほんの少しだけ頷いた。

僕は、口を半開きにして、息を吐いた。茫然と健一の顔を見返しながら、意識しなければ上手く息を吸い込むことができなかった。僕が絵を見た瞬間と、彼女の名前を見た瞬間はほとんど同時だった。だが、そこにもしその名前がなかったとしても、誰の絵なのかは僕には一目瞭然だった。

僕の表情は凍りついた。全身の筋肉が固まって、どう動いたらいいのか全く分からなくなった。

やがて、僕は首をゆっくりと横に振った。そして何かを言おうとした。それは、嘘だ、か、嫌だ、のいずれかだった。またはその両方だった。僕は顔を両手で覆い、俯いた。かすれた吐息が喉の奥から漏れてきて、僕の顔を湿らせた。僕はその姿勢のまま、しばらく何も言えなかった。

「俺は今、教師をやっているんだ。中学校で。上手くいったり下手を打ったりを繰り返している。この雑誌は偶然同僚の美術教師に見せてもらった。同僚はアメリカンポップアートのファンで、その教養を俺に植え付けたがっていて、この号はその特集号だったんだ。でもポップアートなんてどうでもいい。ページをすっ飛ばしていくうちに、この絵が目に止まった。俺が見つけたのはほんの1週間ほど前だけど、これ自体はもう2年も前に出版されたものだ。間違いなくあの夏のことだとすぐに分かった」

健一のため息が聞こえた。

「偶然だったけど、偶然が遅すぎた」

僕は顔から手を離し、伏せた顔を上げた。既に健一はその雑誌を閉じていた。

「十年前と比べてどうだ?」と健一が訊いた。

「黒い」

「だからお前に電話しようと思ったんだ」

「夏に会おう」

「会ってどうする?」

そんなのどうだっていい、と言って僕は首を横に振った、「会って話す。夏はどこにいる?」

健一は首を横に振って、まだ分かってない、と言った。

「初めから多分目は薄いと思ったけど、ネットで夏の情報は探した。だけどまだ何も見つかってない。あいつ自身はネットに繋がっていないみたいだ」

「誠二は? 健一は誠二の居場所を知ってるか?」

健一は首を横に振って、俺もお前にそれを訊こうと思っていたところだ、と言った。

「あいつとは長いこと、お前と同じように、街を離れてからずっと逢っていない。どこにいるのか、分からない」

「分かった」と僕は頷いた、「二人で夏を探そう」

健一は頷いた。

そして僕たちはシンプルに、やるべきことを確認しあった。まずこの本の出版社と、賞を仕切る事務局に問い合わせる。また、特に彼女の所属は書かれていないが、大学とか大学院に属しているようならばそこに問い合わせる。その全てに彼女の足跡が残っていないということは考えにくく、決して難しくはないことだ。

俺が行くよ、と僕は言った。「もし電話した先の誰かが夏のことを知っているようなら、俺が行って聞いてくる」

「電話で済むかもしれないけどな」

「いや、こういうことは直接会って聞いた方が話が通じやすい。俺が仕事で唯一学んだことだ。会えば大体どうにかなる。少なくとも会わないよりはずっと」

健一は頷いた、「裕司、お前今仕事って何やってるんだ?」

「一週間ごとに五十万平方メートルの紙に色を塗る仕事だよ。この世に存在するありったけの色全てを」

「楽しいか?」

僕は首を横に振った、「でも、あまり考えてない。何でもいいから働きたかったんだ」

「何かやりたいことはないのか?」

「何もないんだ。何をやっても駄目だった。何一つ長続きしなかった」

「どうしてなんだ?」

「それが分からないのが問題なんだろう。でもこれだけは言える。お前と同じように、俺もインディ・ジョーンズじゃなかったんだ。お前も誠二も夏も、みんなそうじゃなかったのと同じだ。自分が万能者でも天才でも超人でもないことは最初から分かっていたのに、どうしてか、インディ・ジョーンズにはなれるかもしれないと思った。でもあの日、そうじゃないと分かった。別の生き方を見つける必要があった。世の中に無数の映画があって無数の主人公がいるのと同じように、世の中には多くの生き方があるということは分かっていた。だけど俺自身はインディ・ジョーンズじゃない人生がどういうものなのか、何年考えても分からなかった。どう生きてもリアリティがなかった」

「不思議だよな。俺もそうなんだ。もっとも俺の場合は、体の都合があるから、できる仕事は初めから限られていたと思うけど、でもだからって別に他にやりたいことがあったわけじゃない。基本的にずっと椅子に座っているしかなかったから、勉強をするしかなかったわけだが、結局そこで得た知識はその領域の中でしか循環しなかった。あの日から、生活が全て変わった」

「後悔してるか?」

「してない」と健一は言った。「してないよ」

「俺、お前に心から感謝してる。十年前にお前がしてくれたことは一生忘れない。ずっとそれが言いたかった。でも言えなかった」

「俺もだ。あの時、助けてくれてありがとう。来てくれてありがとう。嬉しかった。今日も」

僕は首を横に振った。行くのが遅くてごめん、と僕は言った。「もう少しだけ早く辿り着いて、お前と二人でやるべきだった。そうしたら、お前の人生はきっと変わっていた」

健一は首を横に振って、これでいいんだ、と言った。「俺の役目だったんだ。ガキの頃から、悪い奴をぶちのめすのが。夏を見つけるのが、お前の役目だったのと同じように。だからこれでいいんだ」

 

 

夏を探しはじめて一週間、彼女の行方は杳(よう)として知れなかった。

健一と会った翌日、僕は東京に戻り、夏が入選した美術コンクールの運営事務局を訪ね、事務局員から彼女の応募当時の住所を入手した。勿論そうした情報は普通に聞いても引きだせるものではないが、何事にも例外はある。僕は自分の身分を全て正確に明かした上で、自分が上村夏の古い友達で、本当に親しくしていた当時の共通の友達が死にかけていて、どうしても今すぐ彼女にそれを伝えたい、と話した。僕の表情の悲壮感と責任感のバランスは完璧だっただろう。成功する自信があったわけではないが、少なくともその感情には一切嘘がなかったから、年老いた事務員を感じ入らせるには十分だったようだった。事務員は過去の入賞者のデータがつまったファイルを引っ張り出して来て、夏の記録を発見した。彼は、今からここに電話をして、君に連絡先を伝えても良いかどうか、先方に確認してあげるから待て、と言い、その場で携帯で電話してくれた。事務員の携帯から鳴る呼び出し音が僕にも聞こえ、誰も出る気配が無い。だが、僕が急かしたせいかもしれないが、彼がだいぶ慌て者だったのが幸いした。彼は連絡先が書かれたファイルを開きっぱなしだったのだ。僕はそこに書かれた電話番号と住所を盗み見て記憶した。石川県金沢市。事務員は電話を切ってファイルを閉じ、首を横に振って、誰も出ないようだ、と残念そうに言った。僕も残念な振りをして首を横に振り、大変お手数ですが上村夏と連絡が取れたら是非ご一報ください、と言ってその場を去った。

僕は事務局を出てすぐ、健一に連絡を入れた。夏は金沢にいるかもしれない、と僕は話した。平日だったので、彼には仕事があった。話し合った結果、ひとまず僕一人で行くことにした。お前が一人で行動した方が早い、と彼は言った。彼の仕事は私的な都合ですぐに休みを取れるようなものではないが、それ以上に、健一の口ぶりには、夏に最初に会うのは僕であるべきだと思っているようなところがあった。もしそれが僕の勘違いでなかったとしたら、あまりにも彼らしい振る舞いだった。僕は、何か分かったらすぐ連絡する、と言い、翌日飛行機に乗って金沢に向かった。

だが、順調だったのはそこまでだった。辿り着いたその場所に夏の姿はなかった。

確かにその一軒家には上村家の表札がかかっていた。それまでこれほど緊張したことはないというほどの激しい動悸を抑えながら、僕はインターフォンを押した。

玄関から出てきたのは、夏の母だった。髪のボリュームはすっかり無くなり、肌艶は失われ、体を全体的に覆う雰囲気は老女のものとなっていた。彼女は十年前と同じように、疲れきった顔をしていた。僕は懐かしさで胸が締め付けられ、お久しぶりです、と言った。

だが、夏の母は僕のことを覚えていなかった。僕の顔を見て僕だと分からなかった。

どちら様、と彼女は訊いた。

「中原です。中原裕司です」

彼女はその名前を頭の中で何度か反芻させたのだろう。その度に、彼女の表情は和らいでいき、最後には笑顔になった。

お久しぶりね、と彼女は言った。

「お久しぶりです」と僕は言って、一息飲んで続けた、「夏はいますか」

その瞬間に、夏の母の表情は一気に曇った。

その顔色の変化に、僕の心臓は凍って締め付けられた。居ないことは予期していた。だが、居ないだけならばまだいい。もっとどうしようもないことが世の中にはある。

僕はその可能性を考えたくなくて、すぐに重ねて問いかけた。

「居ないんですね。今どこにいるんですか?」

「分からないの。半年前に出て行ったきりで」

「半年前」

僕はそう繰り返しながら、心の中で胸を撫で下ろした。感情は不安よりも安堵の方に向いていた。あの絵が入賞したのは二年前のことだった。あの絵の後、少なくともそれまでは生きていたわけだ。

そうであれば、今も生きているかもしれない。

きっと生きている。

「どうぞ、上がっていって」

夏の母がそう促し、僕は頷いて玄関をくぐった。

差し出されたコーヒーを一口飲んで、突然お邪魔してすみません、と言った。

夏の母は首を横に振った、「いいの、主人も仕事だし、掃除も終わって、夕飯の買い出しまではまだ時間があるし」

「夏を探しているんです。会って話したいことがあって」

「そう」

「夏のことを、訊いてもいいですか?」

夏の母は、頷くのと首をかしげる中間の方向に首を動かした。

「それを訊いてどうするの?」

「どうしてもあいつと話したいんです。僕と、もう一人仲が良かった友達の健一を覚えていますか? 先日彼と久しぶりに会いました。そしたらどうしても二人で夏に伝えておきたいことがあると気が付いたんです。だからあいつのことが知りたいんです。

十年前にあの町を離れてから、あいつはどうしていたんでしょう。元気でいましたか?」

夏の母は、さっきと同じような曖昧な方向に頷いた。

「元気かと言われると、分からないけど、でも話せるようにはなったわ。ここに引越してきて数日もしないうちに」

夏の母はコーヒーを一口飲んだ。

「突然、まるで一年以上押し黙っていたことなんて全く覚えていないみたいに、ごく普通に私たちと話し出した。お母さんおはよう、って。それから何日か経った後には笑うようにもなった。9月には高校にも通うようになった。でも何か変だった。しばらくして気が付いたのだけど、あの子は絵を描くこともピアノを弾くことも、全くしなくなった」

夏の母は、深く息をついた。一言一言を発するのにひどく体力を消耗するようだった。

「だから一見元のあの子に戻ったようなんだけど、何か違った。あの子にとって、絵や音楽が、誰かにやらされていたものとかじゃなく、自由で大好きな、本当に大切なものだったってことは、私たちには良く分かっていたから。話していても奥行きがなくて、手ごたえがないっていうか、大きな空っぽがあの子の体の中にあるようで。言うべきことを隠しているのか、言えないのか。私たちと夏じゃなく、夏と夏の言葉の間に大きな壁があった。前に比べたらはるかにましで、やっぱり引っ越してきたのは正解だったんだと主人とも話したけど、それでも本当のあの子にはまだ戻っていないのは確かだった」

「僕たちのことは何か話しましたか? 僕や健一や誠二の、友達のことは」

夏の母ははっきりと首を横に振った。

「一言も話さなかったわ。私たちも話さなかった。あの町に関わることは何も思い出させたくなかったから。ごめんなさいね」

僕は首を横に振った。それこそ僕が夏に望んだことだ。

「絵を描くことも音楽を演奏することもなくなって、あいつは毎日どうしていたんですか?」

「分からないの。夕食時以外は大体自分の部屋にいたけれど、何をしていたのか分からない。でも普通の女子高生ってそういうものでもあるわよね。何もしてなかったのかもしれない。別に何もない毎日。勉強をして、友達と他愛もない話をして、テレビを観て、お風呂に入って寝る。それはそれで良いことよね。私たちとの生活は平穏で、夏は表面的には、混乱したり感情を激しく爆発させたりすることはなかった。休日には友達と遊びに出掛けたりもしていた。卒業したらどの大学に通おうか、あの子は私たちに相談もした。私たちは地元でも東京でもどこでもいいと言ったけれど、あの子はお金が掛かるから地元の国立に受かるようになんとか頑張ると言った。友達もみんなそこを目指しているからと言って。

そういう話のほとんどが嘘だと分かったのは、高校を卒業した後のことだった」

「何があったんですか」と僕は訊いた。僕には、何があったのか大体見当がついたが、息をついて俯く夏の母は僕にそう促されることを望んでいるように見えた。

「あの子には友達は一人もいなかった。いつも友達と遊びに出掛けたり、こういうことがあった、誰それがああ言った、そんな話を私たちに報告していたけど、全部嘘だったの。全部あの子の作り話だった」

「どうしてそれが分かったんですか?」

「簡単よ。卒業アルバムのどこを見ても、あの子がそれまで話していた何とかちゃんや何とか君の名前が無かったの。全部架空の名前。もちろん薄々気がついてはいたわ。あの子は物凄く仲がよさそうに話す『友達』を、一度も家に連れて来なかったから。

大学にはあっさり受かった。勉強だけは本当にしていたのね。他にやることがなかったのかもしれない。でもあの子が選んだのは結局地元の国立大じゃなくて、公立の短大だった。多分だけど、国立大には知り合いがたくさん進学していたはずだから、顔を合わせたくなかったんじゃないかと思う。

どうしたらいいのか分からなかったわ。あの子は毎日笑顔で大学に通っていたけど、友達もおらずたった一人なのはもう分かっていた。それをどうにかした方がいいのか、何もしない方がいいのか、何かしてやれるとしたら何をどうすればいいのか分からなかった。

何も変わらない毎日が物凄い速さで過ぎて行って、あの子は大学を卒業することになった。そして思っていたとおり、とうとうそこで嘘をつき続けることができなくなった」

「どこにも行くところが無くなった」

僕がそう口をはさむと、夏の母は頷いた。

「卒業して、就職するなんて、あの子には無理だったのよ。それはあの子も自分で分かっていた。あの子は家から出なくなって、それでもう、笑うのは無理になった。一日三回、食事の時に下りてくるだけで、あとはずっと自分の部屋にこもりきりだった。

二年間ずっとそうだった」

夏の母は、そこで押し黙った。僕の方を見て息をついて、そのまま何も言わなかった。テーブルの上のコーヒーカップに手を添えて、ゆっくりと回転させながら、僕とカップを交互に見つめた。話には続きがあるはずだったが、それを口に出すことが難しいようだった。

僕は何も言わずにじっと待った。

「短大を卒業して二年後に、あの子は家を出て行った。私たちの財布からお金を抜き取って。必ず返す、っていう置手紙を残していった。すぐ連絡するから警察には電話しないようにってお願いもしていたわ。私たちはどうするべきか迷った。

でもその日の夜に、本当に夏から電話がかかって来た。あの子はユースホステルにいて、翌日東京に向かうと言っていた。

何年も聴いたことがないくらい、物凄く穏やかな声だった。

東京に行ってどうするの、と私は訊いた。

友達に会う、とあの子は答えた。

東京に友達なんかいるの、って訊くと、今度は本当だから大丈夫だと言った。夏の声はただ穏やかで、暗くも明るくもなかった。また明日電話するね、と言って電話は切れた。

それからあの子は約束通り毎晩電話してきた。ほとんど内容のない話ばかり。今日は凄く天気が良かったとか、動物園に行ったとか、夕飯は何を食べたとか。どうやって暮らしているのか聞いたら、普通に働いているから大丈夫だって言った。

そして一ヶ月後に、あの子は財布から盗っていったお金を全額郵便で送り返してきた。

どんな生活をしているのか全く想像もつかなかった。何度も悩んだわ。無理やりにでも呼び戻すべきかどうか。心配でたまらなかったから、そうしたいのはやまやまだった。でも、短大を卒業してからの二年間の、心が死んだみたいにもそもそ食事を摂っているだけの、あの子の顔が忘れられなかった。あのころに比べたら、電話越しに聞こえる夏の声は遥かに生き生きしていた。だからあの子を信じるしかなかった。でも実際に呼び戻そうとするのもきっと難しかったわ。あの子の住所も、電話番号も、私たちには分からなかったんだから。いつも電話をしてくるのはあの子で、私たちはそれを待つだけ。

頭がおかしくなってしまいそうだったけど、でもあの子の声を聴いていると落ち着いたの。私たちは離れてなんかいなくて、すぐ傍にいる、そう思わせるような声だった。

あの子が出て行って一年が経った頃、家に封書が届いた。あの子の絵が、若手美術家向けのコンクールに入賞したという知らせだった。

その日も夏から電話がかかって来たから、私は夏に、凄いじゃない、おめでとうって声をかけたわ。あの子はありがとうと答えた。でもその声は平板で、全く嬉しく思っている風には聞こえなかった。どうでもいいと思っているみたいだった。

『あなたには芸術が似合っているわ』と私は言った。

そうしたら、『私はそうは思わない』と夏は言った。

また更に一年半くらいが経って、ある日突然あの子は帰って来た。少し痩せていたわ。でもそれ以外は、顔の血色もよくて、身なりもきちんと整っていた。

私はあの子を抱きしめた。どこで何をしていたのか問いただす気持ちは吹っ飛んで、とにかく帰ってきてくれたことがうれしくて。

あの子が、ただいま、と言って、私がおかえりなさい、って言うと、あの子は私の顔を物凄く静かな表情でじっと見た。話があるから聞いてほしい、と。

そして言ったわ、『お母さん、私、結婚する』って」

夏の母はそう言って、俯いた。

僕は口を唖然と開いて、夏の母が見つめる空っぽのコーヒーカップを覗き込んだ。

「そう、ちょうどそんな顔」と夏の母は顔を上げて言った、「私もその時、きっと今のあなたと同じような顔になったわ」

僕は頷き、自分の眉間にしわが寄るのを感じた。

「私は訊いたわ、相手は誰、って。

あの子は、それは言えない、と答えた。

私はその瞬間に、何もかも駄目になってしまった。今まで我慢してきたことが、一気に全部弾け飛んだ。もう本当に、心底、何もかも、いい加減にしてほしいと思った。あの子を初めて本気で思い切り叩いたわ。私が何を言ったかは全然覚えていない。とにかくあの子を引っぱたいて押し倒して、何十分も胸ぐらをつかんで離さなかった。

あの子は何も言わなかった。じっと私の方を見返して、どれだけ私に殴られてもまったく表情を変えなかった。

正直言って、目の前にいるのが自分の娘と思えなくなりかけたわ。あんなに優しくて頭が良くて、いつも幸せそうにしていたあの子が、なにがどうなってこんな頭のおかしい女になってしまったのか、全く理解できなかった。今でも理解できないわ。何が理由なのか、どうしても分からない。どうやったら狂ったものが元に戻ってくれるのか、どれだけ考えても分からなかった。

でももちろん、それでもいいからあの子にどうにか幸せになってほしかった。私は訊いたわ、その人のことをちゃんと愛しているのか、って。

あの子は黙って頷いた。

それでもう、私には信じるしかなかったの。結局そうすることしかできない。あの子の体から手を離すと、あの子は起き上がって言ったわ。

『明日、東京に帰る』って。

そして翌朝私の用意した朝食を食べて、行ってきますと言って、出て行った。それが半年くらい前のことよ。

もう電話もかかってこない。本当に結婚したのかどうかも分からない。でも生きてるってことだけは分かってるの。

何回か、あの子から絵が送られてきたから」

「どんな絵ですか?」

夏の母は首を横に振って、「言いたくないわ」と言った。

僕は頷いた。それで、どんな絵かは分かった。今、夏の絵には一種類しかない。

「夏は今、どこにいると思いますか?」

「たぶん、今も東京にいると思う。詳しい場所は全く分からないけど。絵が送られてくるたびに毎回消印の郵便局名が変わっていて、でも全部東京の地名だったから」

僕は頷いて、ありがとうございました、と言った、「もし、夏が戻ってきたり、連絡があったら、中原裕司が探していたと伝えてもらえませんか」

僕は、夏の母に自分の連絡先を書いたメモを渡した。

「夏を探すの?」

難しいかもしれないけどそうします、と僕は答えた。

「もし会えても、まともに話せないかもしれないわよ」

いいんです、と僕は言った。「会わないと、それさえ分からない」

 

 

僕は夏の実家を後にすると、健一に電話した。夏はいなかった、東京にいるらしい、だけどそれ以上はどこにいるのか見当もつかない。

〈分かった。俺は教員の知り合いのつてを辿って、美術関係であいつに関わった人間がいないか探してみる〉

「頼む」

〈裕司はどうするんだ?〉

僕は天を仰いだ、「正直、何の当ても予測もない。今の夏が行きそうなところなんて、全く想像がつかない」

〈どうする。興信所にでも問い合わせるか?〉

そうだな、と僕は呟いた。そしてそのまま押し黙った。空を見上げたまま、ポケットから煙草を取り出して火を点けると、煙は吐き出した傍から金沢の灰色の空に溶けていった。

「仕方がないから東京中を歩いて探してみる」

〈だけど東京の人口は俺たちの町のざっと200倍だぞ〉

俺たちの町、と僕は健一の言葉の一部を呟き返した、「あの時もあいつを見つけるのは大変だった。もう二度と会えないかと思った。でも必ずもう一度会える気もした。今も、あの時と同じ感覚がする」

分かった、また連絡する、と言って、健一は電話を切った。

新幹線で東京に戻ると、僕は健一に言った通り、東京中を歩いて回りはじめた。東から西に、地図を塗りつぶしていくように一区画ずつをくまなく歩いた。家々の合間をしらみつぶしに歩きまわり、軒先や路地の隙間やマンションの上階に目を凝らした。同じような風景が続き過ぎるのに疲れると、僕は人通りの多い場所に出て行った。浅草寺の周囲や、上野動物園やその周りの美術館界隈、秋葉原の電気街や銀座のブティックの前、新橋や品川の駅前の改札前の雑踏に何時間も立ち尽くしたり、皇居の堀を一周したり、浜離宮や新宿御苑のような公園を散策し、渋谷や原宿や池袋の街を通り抜けて自分とは一回り世代の離れてしまった大量の少女たちとすれ違い、西へ西へと進んで行った。だがそうしながら、人が大量に集まるそうした場所に夏がいる気はしなかった。彼女はどこでもない場所にいるような気がした。僕は東京の街を行ったり戻ったり立ち止まったり通り抜けたりし続けた。

誰もが足早に通り過ぎて行き、彼女に似た人間さえ見つからなかった。僕は彼女の顔をはっきり覚えていた。少なくとも覚えていると信じていた。僕が追っていたのは夏の顔の造形と言うよりも、彼女のイメージだった。そのイメージは僕の中で点滅していた。ぼやけたり、背景に溶けて消えたり、そして時々眩しいほど燃えあがった。そんな時は、どこにも彼女の姿が見えないのに、すぐ傍に夏の存在を感じた。彼女が生きていて、歩いたり絵を描いたりしている姿が、他のどの現実よりもリアルに感じられた。僕の胸は焼けるように痛み、その度に歩く速度を上げたり煙草の煙を深く吸い込んだりして、その熱を冷まさなくてはならなかった。

仕事を休んだまま毎日東京中を歩いて回り、やがて年末の時期になった。東京の街から人の数が減る。僕は母親に電話をして、今年の正月は帰れないと話をした。

いいのよと母は言った、「少し元気になったみたいね」

そうかな、と僕は応えた。元気になったわけではなく、ただ必死なだけだ。

父の四十九日に合わせて帰る約束をして、僕はまた歩き続けた。

大晦日がやってきて、正月になり、何も変わらず歩き続けていると、まるでそうしていることが宗教的な儀式のように思えてきた。お遍路や百観音巡礼やハッジのように。まるでそうすることが、今はまだこの世に存在しない、僕のイメージの中だけにある夏を、どこでもない場所から召喚する儀式のように感じられたのだ。これが良い傾向なのか悪い傾向なのか、僕には分からなかった。そもそも無意味で無駄で非効率極まりない、論理性とかけ離れた捜索だったのを、自分の精神が無理やり正当化させようとしていただけかもしれない。健一がすぐ僕に提案したとおり、普通に考えれば探偵か何かを雇った方が遥かに効率が良いに決まっていた。だがそうしたくなかったのだ。夏がそうされたがっているとも思えなかった。相変わらず僕は矛盾していた。彼女を心の底から見つけたいと思っているのに、そうするための最も正しい行動ができないのだ。僕は、いつまでもこうしていることはできないとも思ったし、自分は彼女が見つかるまで永久にこうしているような気もした。

だが僕の思いがどうあれ、正月休みの時期が終わると、僕は二者択一を迫られた。未だ会社という組織の一員であるからには、これ以上仕事を休み続けることはできなかったのだ。迷った末、僕は会社に復帰した。このまま仕事を辞めることも真剣に考えた。この数年で使い道のない貯金はどんどん増えて行き、数か月くらいならばふらふらと東京の街を歩き続けていられる余裕はあったからだ。しかし結局そうしなかった。理由は幾つかあったが、結局重要だったのはたった一つで、それは、いつか夏に会った時、自分は「お前の為に仕事を辞めた」とは絶対に言えないと思ったからだ。自分の選択が正しいのかどうか分からなかったが、どんなにつまらないものであれ、生活は続いて行かなくてはならないと思った。僕は再び激務の海に飲み込まれていった。そして、毎日夜一時間、適当に選んだ都内の駅で途中下車して街を歩いてから家に帰った。仕事が休みの土日は、一日中歩き続けた。あっという間に僕はくたくたに疲れ切っていったが、止めようとは一度も思わなかった。

健一とは何度か電話で話し、互いに何の進捗も無いのを確認し合った。容易な捜索ではないことも、諦めずに探し続けるしかないのも二人とも最初から分かっていたので、そのやり取りはいつも航空管制の通信のように直接的で簡潔だった。

彼女の気配が近づいたようにも遠ざかったようにも感じられない土曜日の昼、荒川区と台東区の境をふらふらと歩いているとき、僕は橋の上ですれ違った男に声を掛けた。

反射的だった。自分で気が付いた時にはもう彼に話しかけていた。

「すみません。訊きたいことがあるんですが」

彼は僕の方に振り向いた。おさげ髪がその勢いで振り回されて、セーラー服を身に纏った彼の肩に引っ掛かって止まった。彼の履いたスカートからは青白い足が伸び、足元はルーズソックスにローファーだった。彼は僕の方をまじまじ見つめ返していた。その顔には白いものの交じった濃い髭が生え、分厚いレンズがはまったピンクのフレームの眼鏡は今にも鼻からずり落ちそうな重みを感じさせた。

真冬にミニスカートのセーラー服を着て街を闊歩する中年の男。

どこからどう見ても「あの人たち」だった。懐かしいと思うよりも早く、僕の過去の習慣が体を突き動かした。

「わたし?」

中年男の甲高いファルセットが僕の耳を突いた。僕は頷いた。そしてたぶん、微笑んでいたと思う。

あの人たちに会うのが何年ぶりのことか、咄嗟には思い出せなかった。きっと僕はこれまで既に東京の街の中でも、何人かのあの人たちにはすれ違っていたのだと思う。しかし僕の観察眼と直感は昔よりも衰え、あまりにも人の数が多すぎたせいで、ほとんどの場合、単なる狂人とあの人たちとの違いを見分けることができなくなってしまっていたのだ。

しかし目の前にいる男は、間違いなかった。本物だった。観れば分かる。

「そうです。ちょっと訊きたいことがあるんです」

「ふうん、なにかしら?」

男は僕に対して半身になって、おさげを指で撥ね上げ、膝をくねらせる気持ち悪いしなを作った。僕は苦笑いしながら、懐かしさで胸がいっぱいになった。これまで一度も会ったことが無いこの男のことを、僕はずっと昔から知っていると感じた。あなたは何も変わっていませんね、そう声を掛けそうになった。

「女の子を探してるんです」

「女の子? 私のこと? やだあお兄さん。わたしそんな安い女じゃないわよ」

「いや、そうじゃなくて、僕の知り合いを探してるんです」

「お兄さんの知り合い?」と、男は露骨に不機嫌そうな声と表情で訊き返した。

「そうです。友達です」

「嘘おっしゃい、惚れてんでしょう。その面見りゃわかるわ」

僕は笑った。

「彼女はよく絵を描いていたんです。ちょうどこんな橋の下で、河川敷で川を見つめながらずっと、一日中絵を描いていた。朝も昼も晩も、少しぐらいなら雨の日も。だから絵はぐしゃぐしゃだった。たぶん、今もそうしているんじゃないかと思う。そうじゃなければそれに近いことをしているんじゃないかと思うんです。名前は上村夏。僕と同じ二十五歳です。もう十年も会っていないので、今どんな顔をしているのか分からないけど、最後に会った時は、少年と少女の中間みたいな顔で、眉毛が太くて、頬が真っ白で、相手を貫くようにも包みこむようにも見える目をしてた」

僕が伝えられることは漠然としていた。普通ならほとんど何の役にも立たない情報だ。だが、あの人たちに別のあの人たちの情報を伝える場合なら、そうとは限らない。

「要するに美人ね」

僕は頷いた、「ほんの少しでいいんです。何か知っていることはありませんか?」

セーラー服男は、首を横に振った。

「見かけないわ。お兄さんが惚れるような女は」

「見かけたら、教えてくれますか?」

「いいわよ」

「そしてあいつに会えたら伝えて欲しいんです。上村夏に、中原裕司がお前を探していたって。会いに行けって。あなたの言うことなら聞くかもしれないから」

僕は自分の名前と連絡先を書いたメモを男に渡した。

いいわよ、と男はメモを受け取った。「それじゃあ手始めに私とそこのサ店でお茶でもしない?」

僕は、いま急いでいるので、と言って断り、手を振って男から立ち去った。男の罵声が背中に届くのが聞こえたが無視して歩き続けた。

 

 

 

僕はその日から、夏と同時に、あの人たちを探して東京を歩くことになった。

かつてと違い、あの人たちはひっそりと暮らしている。それにこの街はあまりにも人の数が多いので、僕は意識を集中しなければ彼らを見つけられない。

彼らがその生態において独立した個人として生きており、ほとんどの場合ネットワークを形成していないことは、過去の経験で知っていた。あの人たちの人伝いに、僕が夏を探していることが知られて行き、情報が自動的に収集されるという期待はほぼない。しかし同時に、僕は彼らにはテリトリーがあることも知っていた。彼らの行動範囲は限られているが、その代わり自分の領域内に足を踏み入れる者のことを驚くほど熟知している。自分のテリトリーの中に別のあの人たちが存在すれば、彼らがそれを察知しないはずがない。つまり、多くのあの人たちに会えば会うほど、僕は夏の捜索範囲を広げることができ、東京の街を塗りつぶしていくことになる。

その結果、数多くとはいかないが、僕は何人かのあの人たちに出会った。出会ってしまえば、それまで遭遇しなかったことが不思議に思えるほど、彼らははっきりとあの人たちだった。

飯田橋で出会った、上から下まで真っ白い服をきた中年の女。頭には宇宙飛行士が被るようなヘルメットの上にショールを掛けていた。彼女は東京中に有害なガスや電波が立ち込めていて、白い衣服だけがそれを跳ね返すことができると信じていた。僕は夏のことを彼女に尋ねつつ、そんなに危ないなら何故東京から出ていかないのかと訊いた。すると彼女は、近所に旨い蕎麦屋があって、三日に一度はそれを食べないと生きていけない、と答えた。僕は納得して、夏に出会ったら、彼女に僕に連絡するよう伝えてほしいと頼んで別れた。

門前仲町で出会った、念仏を唱え続ける男。彼は延々と言語にならない唸り声のような念仏を唱えながら、手に持った撥で木魚の代わりに自分の頭をたたき続けていた。木魚は所詮架空の存在を無理やり形象化した代替物に過ぎず、そんなものを幾ら殴ったところで煩悩からは解放されない。煩悩を抱えているのは我々自身の頭である。したがって撥で叩くべきなのは我々の頭である。それが彼の理屈だった。もし論理的にそれが正しかったとしても、人通りの多い街角でそれを実践する人はほとんどいないだろうと思ったので、僕は感心した。僕が夏という名の女を探していることを相談すると、彼は、それは煩悩だと言った、「執着すればロクなことが無いぞ。特に女については。忘れた方がいい」。でもどうしても会って話したいことがある、と僕が食い下がると、しばらく逡巡した末に彼は一緒に夏を探すことを約束してくれた。「君は若いのにまるで現世に未練を残した幽霊のようだ。迷える衆生の救いに手を貸すのは、仏の道を行く者の務め」、と言って、うーえーむーらーなーつー、と唱える念仏に彼女の名前を混ぜながら歩き去っていった。

そして僕は中野坂上で、手に空のギターを抱えた格好で演奏を続ける男に出会った。金色に染まった髪が四方八方に突き出し、全身レザー製の服を装備して、異様に紐穴の多い編み上げブーツをはき、足元にギターアンプを立て、コードを体に巻き付け、激しい動作でリフを弾いている、ように見えるが、手にはギターが無い。眼を閉じて眉間にしわを寄せて、ヘッドバンギングしながら大きく口を開いたり閉じたりしているが、ただ動いているだけで一切声を発してはいない。そのため当然、何の音もそこには存在しない。彼に声を掛けるのは若干の勇気を要した。僕に対して微笑みながら見返した彼の瞳はらんらんと輝いていて、一見薬を極めているとしか思えなかった。だが僕は知っている、それはただ彼らの脳内麻薬の分泌量が異常なだけだ。僕が、上村夏という女を探している、と伝えると、彼は声を発さず口だけ大きく動かし、う、え、む、ら、な、つ、と復誦した。知っているか、と僕が訊くと、し、ら、な、い、とまた口だけ動かした。僕は夏の特徴を伝え、もし会えたら中原裕司が探していたと伝えてほしいと頼んだ。彼は、わ、か、っ、た、と口だけ動かし、また空の演奏とヘッドバンギングに戻っていった。良く見るとその空の口の動きは、う、え、む、ら、な、つ、という形に動いていた。彼は僕が立ち去って、振り返ってもまだ、何度も何度もひたすらそれだけ歌い続けていた。

3月の頭ごろには、目黒の川沿いでウサギとカメを連れて散歩する女に出会った。ウサギには首輪を、カメには胴体にひもを巻き付けて、しかし彼女は川沿いでじっと立ちつくしていた。右手に持ったリードの先のウサギはどんどん進んで行こうとするのだが、もう一方のカメは一歩も動こうとせず、それどころか頭さえ見せず殻の中に閉じこもっていて、彼女はその中間でどちらにも行けずにウサギとカメと川の流れを順々に見つめていた。3月の東京はまだ冬のままで、カメは凍えていて動けないのだ。全く動かないので、ひょっとして死んでいるのではないかとも思った。僕が彼女に声を掛けると、彼女は心の底から困り果てたという顔で僕を見返して、申し訳ありません、この通りゼルダちゃんは今調子が悪いのです、と言った、「うちのゼルダちゃんは引っ込み思案なもので」。そう言う間にも、ウサギの方は彼女の持ったリードをぐいぐい引っ張っていた。別に僕はカメに用があるわけではなかったが、凍えて動けないんじゃないでしょうか、と言った。「どうすればいいのでしょう?」と彼女がすがるような眼で僕に訊ねた。仕方がないので僕は近くのコンビニに行って、右手に持った紙コップにポットのお湯を入れ、左手の紙コップにトイレの水を入れ、女のもとに戻ってくると、二つを同時にカメの背中に注いだ。数十秒のち、ゆっくりとカメの手足と頭が甲羅から這い出てきた。僕と女は拍手した。ありがとうございます、どうお礼を差し上げればよいか、と女が言うので、僕は、上村夏という女に出会ったら中原裕司が探していたと伝えてくれと頼んだ。

そして僕はJR神田駅の下で、見えない電車を運転する男に出会った。がたんごとん、がたんごとん、と唱えながら、空を握った両手を前方に突き出して、肩を揺らして山手線の下を歩いていく。彼自身が知っていたかどうか分からないが、それはまるで黒澤明の映画の1シーンを切り取ったような光景で、僕は強烈な既視感に襲われた。がたんごとん、の合間に、次はーあきはばらーあきはばらー、とやたら低い声の車内アナウンスが混ざる。僕が声を掛けると、この列車は緊急停車いたします、と彼は低い声で言い、立ち止まった、「こちらはJR東日本お問い合わせセンターです。ご用件をどうぞ」。僕は要件を言った、「上村夏という女を探しているので、見つかったら教えてください」。そして僕は夏の特徴と、自分の連絡先を伝えた。男は、「お忘れ物ですね。センターに届けられましたらご連絡いたします。届けられたお忘れ物は、システムに登録されるまでに時間がかかることから、ご案内にお時間をいただくことがございますのでご了承ください。またのご利用、お待ちしております」と言って、発車します、と宣言し、またがたんごとんがたんごとん、と唱えながら秋葉原方面に歩き去っていった。

彼らは僕を懐かしい気持ちにさせ、僕の生活に昔のリズムを差し込んだ。まだ何者でもなく、何にでも変身することができたころの自分が、久しぶりに僕の頭の中に現れた。それはごく小さな姿だったが、確かに僕の日々の暮らしの中に居座って僕とともに生きるようになった。小さくて弱く、今にも消えてしまいそうなイメージだ。それは新しく出会ったあの人たちに対するイメージでもあった。僕の目には、新しいあの人たちは、かつて真中市で出会った人たちよりもおとなしく、精神においても行動においても狭い場所にとどまっているように見えた。どうしてもそうしたくてこうしていると言うよりは、どこにも行くところが無く、何もやることがないのでそうしているようにも見えた。それは僕の思い込みかもしれない。変わったのは僕の方で、彼ら自身はあの頃と何も変わっていないのかもしれない。しかしどちらにしても止むを得ないと思った。一番重要なのは生き残っていくことで、そのために彼らは彼らのやり方を続けている。その点においては僕も彼らも変わりがない。

これらの出会いに意味があったのかどうか僕には分からなかった。僕が目論んだとおりに、彼らが僕の願いを真剣に聞き入れ、本当に夏のことを気に留めてくれようとしたのかどうか、僕には全く確信が持てなかった。僕の言葉は馬耳東風、彼らの頭を通り過ぎてすぐに忘れ去られてしまったとしても、全く不思議ではなかった。と言うよりも、僕が知っているあの人たちならば、間違いなくそうだったろう。彼らは他人に興味を持たない。自分のやるべきことにしか意識が無く、他人の言葉は基本的に届かないのだ。だから僕は自分がしていることに期待をしていなかった。彼らと話し、彼らと別れてしまえば、この願い事は演奏の終わった音楽のように空中に溶けて消えてしまうだろうと思った。

だが僕は同時に、彼らはきっと僕の言葉を覚えていてくれるだろうとも思った。ほとんど忘れてしまっても、ほんの少しだけ、それこそ街角で聞いた音楽のように、意識の片隅に残るだろうと思った。

音楽は、再会した時にその本領を発揮する。一度聞いただけの音楽が、時間が経ってもう一度出会ったとき、心の奥深くに突き刺さる。初めて聞いたときは何とも思わなかった曲が、改めて目の前に現れたとき、過去の記憶と結びつき、映画のように鮮明に動き出す。その無意識の瞬間は誰も避けることができない。彼らが夏とすれ違えば、彼らは必ず僕の言葉を思い出し、彼女がその女だと理解するだろう。

僕は日光仮面のことを思い出していた。彼は僕の願い事をいつも必ず聞いてくれた。僕はずっと、それは彼が僕に興味があったからではなく、彼がヒーローだったからだと思っていた。ヒーローは下々の戯言に耳を傾け、どんな小さな悩み事でも、それが目前で助けを求めている者であれば、手を差し伸べる義務があるからだ。しかし、それだけではないと僕は思うようになった。日光仮面にとって僕は特別な存在だった。僕にとって彼がそうだったように。僕にとって彼が真中市の象徴であったように、彼にとっては僕が、救うべき無辜の市井の民の代表者だった。誠二の説によれば、日光仮面は家族を病で失っていたが、僕は彼の子供の代わりであり、未来を託す者だった。僕はもう一度日光仮面に会いたかった。彼に、夏を探して欲しいと頼みたかった。でももちろんそうすることはできない。かつて日光仮面が僕の願いを何でも聞いてくれたように、今度は僕が誰かの願いを聞かなくてはならないのだ。

 

 

 

冬が終わり、短い春が終わり、季節は夏になっていった。夏を探し始めてから半年以上が経ち、就職してから既にまる三年以上が経過し、僕は二十六歳になった。健一と電話で何度か情報を交換し合ったが、お互いの捜索には進展のないままだった。

僕は同じ会社で仕事を続けていたが、同期は既に半分以上辞めていた。特に女は、もともとの数も少なかったが、全員辞めた。単純に仕事がきつくて辞めた数人と、後の全員は結婚して退職した。七月の終わりに、その最後の一人の結婚祝い兼送別会が六本木で催され、僕も参加した。

彼女は会の最後に、ありがとうと言って泣いた。そして全員と握手した。僕も彼女と握手して、おめでとう、お幸せに、と言って微笑んだ。

全員で彼女を駅まで送り届け、何人かはそのまま帰り、残りの男たちはラーメンを食いに行こう、と誘いあった。律儀な同僚が僕も誘ってくれたが、僕は、少し歩いて帰る、と言って、一人で六本木の街を歩いた。乃木坂を通り、外苑前の方に向かった。

いつもの習慣の通りに、一人の女とあの人たちを探して、あたりをゆっくりと見回しながら街を歩いた。六本木の一帯では僕と同じような年恰好の仕事帰りの連中と次から次にすれ違ったが、トンネルをくぐって乃木坂方面に向かえばそこには誰もいなかった。僕のすぐ傍を車が断続的に通り過ぎていく音だけがトンネルの壁の間に響いた。

青山通りで通りかかったバーの軒先から音楽が聞こえてきた。ギターのイントロが特徴的な曲で、僕はかつてその音楽を聴いたことがあった。それはラーズの「ゼア・シー・ゴーズ」だった。

「彼女がやってくる。また彼女がやってくる。僕の頭を駆け巡る。僕には抑えられない。残されたその感覚を」

そんな歌詞の歌だった。美しい歌だ。僕は乾いた唇に、歌詞を乗せて微かに動かした。僅かに体内に含んだアルコール分は、ほぼ完全に蒸発していた。

終電ぎりぎり、地下鉄銀座線から電車を乗り継いでアパートに帰った。ほかの乗客とともに電車を降り、交差点を渡って歩いて行くうちに、人通りはあっという間に消え去る。家々の明りはほとんど消えていて、風も全く吹いていないので、自分の足音しか聞こえなかった。僕は十年前の真冬の夜、月光仮面のもとに向かって歩いて行った時のことを思い出していた。この時に限らず一人で歩く静かな夜はいつも、あの芯から凍りついた、何もかもが静止した夜のことを思い出した。その情景は僕の頭の中に一枚の絵となって掲げられ、目の前に差し出されている。あたりがどんなに暗かろうと、その絵は必ずそれよりもさらに暗い。僕はその絵に向かって歩いて行くのだった。

安アパートの外階段を上りきって、廊下に出たところで、僕の部屋のドアの前に誰かがうずくまるように座っているのが見えた。僕は立ち尽くして、そのシルエットを見つめた。街灯も月明かりも遠く、その場所はほとんど完全に影に包まれていて、彼女は半分以上溶けて消えてしまっているように見えた。

夏だった。

何故彼女だと分かったのか、自分でも分からない。だが、どんなにあたりが暗くても僕には一目で分かった。

彼女は少し俯いていて、身じろぎ一つしなかった。眠っているのかもしれない、と僕は思った。そうでなければ僕の足音が聞こえたはずだったからだ。僕はゆっくりと彼女の方に歩いていき、その隣に屈みこんだ。瞼を閉じた彼女の横顔がはっきりと見え、僕は、夏、と声を掛けた。「俺だよ、裕司だ」。

彼女は貼りついた瞼を引き剥がすように目を開き、顔を上げ、ぱちぱちと瞬きした。そして僕の方に顔を向けた。

彼女の顔はあの時のままだった。あまりにも何も変わっていなかった。微かな月明かりを反射させてほんの僅かに輝く彼女の眼は、僕の眼を貫くようにも包みこむようにも見えた。

瞬間的に、時間が十年前に戻った。僕はまだ十五歳で、彼女も十五歳で、僕と彼女が手を振って別れたあの瞬間に全てが戻ったような感覚がした。

「遅いんだね」と夏は言った、「ずいぶん待ったよ」

僕は頷いて、ごめん、と言った、「会社の送別会があって。結婚して辞める同僚がいたんだ」

「お尻がすごく痛い」

「どれくらい待った?」

「分からない。長いこと」

僕は気が付いた。彼女に会うのは十年ぶりのことだったが、彼女の声を聞くのはそれよりさらに久しぶりの、あの大雨の夜以来のことだと。あの時の彼女の声は不安げだった。良くないことが起こるのを知っている声、そこから自分たちが逃げられないのを知っている声だった。目の前にいる夏の声からは、日常の響きしかしなかった。

「家に入ろう」

僕は夏の腕をつかんで立ち上がらせてから、ドアノブに鍵を差し込んだ。

狭い玄関の目の前に狭いキッチンがあり、狭い廊下を通り抜けてドアを開けると十畳程度の部屋がある、シンプルなワンルームの僕のアパートは、客人を歓待できるようなホスピタリティに欠けた空間だった。ソファもなければクッションもなく、腰を落ち着ける設備としてはベッド以外には安っぽく小さなテーブルと小さい座布団が一つあるだけだ。

部屋の明りをつけ、夏にその座布団に座るように促し、何か飲むか、と聞いた。冷たいお茶が飲みたい、と夏は答えた。

冷蔵庫の中から麦茶が入ったペットボトルを取り出し、二つのグラスに注いでテーブルに戻り、一つを夏に差し出した。僕はすぐ隣のベッドのふちに腰掛けて、グラスの中身を一気に飲み干した。ひどく喉が渇いていたのは僕の方だった。

夏は上から麦茶の表面を覗き込んでじっとしていた。

「腹減ってる?」

僕がそう聞くと、夏は首を横に振った。そして肩に下げていたボストンバッグからかっぱえびせんを取り出して、さくさくと食べた。夏はそれを僕にも差し出したので、受け取って僕もさくさくと食べた。

見れば見るほど彼女は昔と変わっていなかった。勿論体の線は完全な大人の女に成長しているのだが、あの頃から太りも痩せもせず、彼女が十年前に保持していた彼女の要素は全て残っているように見えた。それは正確に言えば、東京の街を彼女を探して歩きながら頭に浮かんだ彼女のイメージそのものだった。実際には彼女は変わったのかもしれない。しかし僕にはそれが全く分からなかった。

「裕司、東京に住んでたんだね」

僕は頷いた、「三年前から。大学を卒業して働き始めてから住むようになった」

「仕事は上手く行ってる?」

「忙しいけど、何とかやってる」

「明日も仕事?」

「ああ」

「じゃあもう寝なきゃね」

「その前に、シャワーを浴びるよ。夏はどうする? 先に使ってもいいよ」

「裕司の後でいい」

僕は頷いて、バスルームに向かった。シャワーの温水を頭から被りながら、自分の頭の中から言葉が消えていることに気が付いた。彼女と何を話せばいいのか全く分からなかった。それも当然で、僕は過去、夏と話すときに、何を話すべきか考えたことなど一度もなかったのだ。夏がこのアパートに泊るつもりであることだけは分かっていた。終電はとっくに終わっている。彼女が持っていたボストンバッグ。着替えやら何やらが詰めこまれているに違いないボリュームだった。それに、もし彼女が帰るつもりだったとしても、僕はそうさせなかっただろう。たったひとつその意志だけは自分の心の中に読み取ることができた。だがそれ以外は全く思考が前進しなかった。

僕が出てくるのとほとんど入れ替わりに、夏はバスルームに入っていった。短い髪を乾かしながら、僕はベッドの端に腰かけて麦茶をゆっくりと飲んだ。

扉の向こうのバスルームで夏がシャワーを浴びている。そう自分の頭の中で言い聞かせ、その情景を思い浮かべるのだが、僕の心は完全に凪いでいた。美しい肌に水滴が弾けて、僕と同じシャンプーで彼女が髪を洗っている。リアルに想像できるのだが、それはただ美しいだけだった。まるで美術館の壁に掛かった絵のようだった。僕はじっと頭の中のその絵を見つめて彼女が出てくるのを待った。

彼女はTシャツに柔らかい生地の綿パンを履いた姿で現れ、僕にドライヤーはあるかと訊いた。小さなスタンド鏡とともにドライヤーを渡すと、彼女は座布団の上で胡坐をかいて髪を乾かした。

僕は手持無沙汰になり、買ったはいいが生活の中で全く出番のない液晶テレビの電源を入れた。スポーツニュースをやっていて、中日が巨人に逆転で負けていた。外国人選手の3ランホームランだった。

髪を乾かし終わり、簡単に化粧水をつけた後、夏が僕の方に向き直った。

「裕司、今夜泊めてくれる?」

「ああ」

「明日も泊めてくれる?」

僕は頷いた。

「明日何時に帰ってくる?」

「分からないけど、たぶん夜の十二時前くらいかな」

「そんなに遅く?」

「いつも忙しくて、どうしてもそれくらいになる」

「そんなに働いてたら、疲れてるでしょ?」

僕は首を横に振った。

少しだけ、感情が波打った。

「大丈夫だ。夏は明日どうする? 俺が帰ってくるまで」

「待ってる」

僕は頷いた。「分かった。今日は寝よう」

僕は夏をベッドに寝かせ、自分はクローゼットから替えの敷布団とタオルケットを引っ張り出して寝転がった。目覚ましをセットして明りを消して、おやすみ、と言うと、おやすみなさい、と夏は応えた。

まもなく彼女の安らかな寝息が聞こえてきたが、僕は眠れなかった。静かに体を起こし、ベッドに横たわる夏の顔を見つめた。彼女は僕の方を向いて半身になって眠っていた。カーテンの隙間から漏れる微かな月明かりの中で彼女の輪郭が見えたが、かつて何度か見た彼女の寝顔と全く同じだった。

僕は自分の胸に手を当てた。鼓動が静かに僕の体を打っていた。

しばらくそうした後で横たわり、眼を閉じると、彼女のイメージが瞼の裏に浮かんだ。それは点滅せず、燃えることも消えることもなく、実体と影の中間の姿で、僕の頭と瞳の真ん中で漂っていた。

 

 

 

翌朝、顔を洗ってスーツに着替え、寝ぼけ眼の夏に部屋のスペアキーを渡し、行ってきますと言ってアパートを出た。行ってらっしゃい、と夏に見送られると、角を曲がったところで僕はポケットから携帯電話を取り出した。

健一に電話するためだった。コール音が5回鳴ったところで彼は電話に出た。

短い挨拶の後、夏が見つかった、と僕はすぐに言った。

本当か、と健一は言い、沈黙し、深く息をついた、〈良かったな〉

ああ、と僕は答えた。「昨日の真夜中、俺のアパートの玄関前に座ってた」

〈お前の家に?〉

「東京のあの人たちに頼んだんだ」と僕は言って、簡単にこの半年してきたことを説明した、「そのお陰としか思えない」

〈間違いなくそうだよ。やっぱりそうだった。お前なら絶対に夏を見つけるだろうと思った。夏は元気か?〉

「まだ良く分からない。昨日はほとんど話ができなかった。ただ、昔と全く顔は変わってない。全部あの頃のままだ。

いや違う。それだけじゃない。

普通に話をしたんだ。俺がおやすみ、って言ったら、あいつがおやすみなさいって応えた。物凄く自然だった」

〈夏は今どうしてるんだ?〉

「今日は俺が帰ってくるのを待つって言っていた。今は顔でも洗ってると思うけど、俺が戻るまでどうするつもりかは分からない。仕事があるようには見えなかったから、どこかで適当に時間を潰すんだろうが、ふらっと出て行って、そのまま戻らないとも限らない。分からないんだ」

〈いいや、それは無い。だって夏はお前に会いに来て、お前を待つって言ったんだろ。ならそんなことあり得ない〉

僕は頷いて、俺もきっとそうだと思う、と言った、「でも不安なんだ。保証なんか何もない。あいつ、少なくとも何日かは俺の家に泊るつもりでいるらしいけど、何のためにそうするのかがまだ分からない。やっぱり変なんだよ。俺とあいつがいきなり普通に話をするなんて変なんだよ。もっと話をしなくちゃならない」

〈裕司、分かってると思うけど、じっくりやれよ。焦ることなんか何もない〉

そうしてみるつもりだ、と僕は言った、「結局、会って話したかっただけだ。ゆっくり話す」

〈とにかく良かった。あいつが、無事で生活ができていたみたいで良かったよ。それが一番重要だっただろ?〉

ああ、と僕は言った、「健一、夏に会いに来いよ」

健一は、少し沈黙した後で答えた。

〈あいつが俺に会いたいと言ったときにそうする〉

「会いたいに決まってるだろ」

〈あいつがそんなに余裕があるかどうかまだ分からないだろ。仕事で毎日子供たちを相手にしていると分かる。話し合う時には一対一が良い〉

その通りかもしれなかった。僕は近いうちに彼が東京に来るか、僕たち二人がそちらに行くかどちらかにすることを約束して、電話を切った。

午前中の仕事の効率は恐ろしく悪かった。会社のデスクで冊子やダイレクトメールの見積りを作りながら、僕は夏のことを考えていた。あの人たちの誰かが夏を僕の家に導いたのは間違いなく、それは夏がまだあの人たちの一員であることの紛れもない証拠だと思った。そうでなければ彼らの声が彼女に届いたはずがない。昨日の彼女の声は透き通っていた。悩みとか疲れとか、僕や健一にはこの十年間で染み付いてしまったものを一切感じ取ることができなかった。僕はそれをどうこうしたいと思うのだろうか。分からなかったが、健一に言った通り、とにかく彼女と話がしたかった。話すことは無数にあるはずだった。これまで何をしてきたのか。今何をして生活しているのか。今も絵を描いているのか。だとしたらそれはどんな絵か。あの夜に戻って、今日までの全てを辿り、僕の方も自分の話をしなければならないとしたら、全てを話しつくすには何日かかるか分からない。それは美しくまとまった一冊の書物になどなりようがない。僕が日々工場から送りだす、新聞に折り込まれて関東一円に散らばっていくチラシのように、夥しい量のページがあちこちに分断され、どこから拾い集めたらいいのか分からない。

昼が近づく頃、のろのろ働いているわけにはいかないことに気が付いて、僕は思考を停止した。そして集中して仕事に取り掛かった。少しでも早く仕事を終わらせて、少しでも長い時間を夏と過ごさなくてはならない。誰かを待たせる、というのは自分に馴染まない感覚だった。仕事でも生活でも、誰かや何かを待つのはいつも自分の方だった。

 

 

 

夜の十一時過ぎにアパートに帰ると、夏は昨日宣言した通り、僕を待っていた。リビングの小さなテーブルの前の小さな座布団に座り、ポテトチップスを齧りながらテレビを観ていた。そのニュース番組はイギリスのグラスゴー国際空港で起きたテロの続報を伝えていた。

ただいま、と僕が言うと、おかえりなさい、と夏は答えた。

僕はテーブルの上に散乱した、カールやおっとっと等のスナック菓子の空き袋を眺めた後で、背後のキッチンに振りかえった。ガスコンロが使われた様子は無かった。ジャケットを脱いでネクタイをはずしてハンガーにかけ、冷蔵庫のペットボトルから麦茶をグラスに注いで、夏の隣に腰を下ろした。

裕司、お風呂借りたよ、と夏は言った。僕は頷いた。

夏と二人でポテトチップスを齧りながらテレビを観て、夕飯は食べたのかと僕は尋ねた。今食べてる、と夏は答えた。僕は再び頷いた。

しばらく無言でテレビを見つめた後で、僕は立ち上がり、シャワーを浴びた。バスルームから出てきても、夏はさっきと全く変わらない姿勢で黙々とポテトチップスを食べ続けていた。テレビの音のボリュームは小さく、彼女の咀嚼音が微かに聞こえた。

僕はゆっくり息を吸い込んで、呟くように夏に声を掛けた。

「今日はどうしてたんだ?」

「散歩して、テレビ見てた」

「退屈だっただろ?」

夏は首を横に振った。

「裕司のことを考えてたから退屈じゃなかった」

「俺の、どんな事を考えてたんだ?」

夏はポテトチップスの油が付いた指先を舐めながら、僕の方を見た。

「裕司、映画が好きだったよね」

「ああ」

「今も好き?」

僕は夏の目を見返した。僕はこの数年、特に就職して働き始めてから、ほとんど映画を観ていなかった。小説もあまり読んでいなかった。ただ大量の音楽を通勤電車の中で聴いていただけで、具体的な物語は体の中に一つも刻まれていなかった。

だが僕は、今も好きだよ、と言った。

「どうして好きなの?」

僕は少し考えた。

「正直だからだ。それに、正直以上のものがあるからだ」

「正直なものが好きなの?」

僕は頷いた。

「どうして?」

「どうしてなのかな。ずっと昔からそうだった。正直でいることが美しいと思ってたし、憧れていた」

「裕司は正直じゃないの?」

「分からない。昔はそうだと思った時もあったけど、今は何が正直なのか分からなくなったな」

僕がそう答えると、夏は僕の目を見つめながら、ポテトチップスをさくさくと前歯で噛んだ。

「私も」と夏は言った。

夏のポテトチップスが空になった。彼女は指先を舐め、僕はボックスティッシュを彼女に渡した。夏はそれで指先と口の周りを拭いて、僕に返した。

沈黙が部屋の中を包んだ。ボリュームの絞られたテレビから微かな笑い声が聞こえた。

「散歩しよ」、と夏が言った。

僕は頷いた。

サンダル履きでアパートの外に出ると、近くに雨の気配がした。夜のうちか明日にはひとしきり降りつけるに違いないと僕は思った。

僕と夏は点々と街灯が立ち並ぶ住宅街の静かな通りを並んで歩いた。無言だった。

僕はポケットから取り出した煙草に火を点けた。暗い夜の空に向かって煙を吐き出すと、夏が僕の横顔をじっと見つめていた。

「物凄く白い部屋だね」

俺の部屋のこと? と僕が訊くと、夏はそうだと言った。

「ずっとあの部屋に住んでるの?」

僕は頷いた、「東京に出てきてから三年間は、そうだ」

「私が裕司のことを探してたの知ってた?」

僕は夏の顔を見返した。

表情からは、何も読み取れなかった。夏の表情には、昨日から今に至るまで、一瞬たりとも全く変化がなかった。

僕は素直に彼女に訊くことにした。

「いつから?」

「ずっと前から。東京で裕司のことをずっと探してた。知ってた?」

僕は首を横に振った、「ごめん、知らなかった」

「凄く長い時間が掛かったけど、やっと見つかった。話したいことがあって」

「何を?」

「忘れた」と夏は言って首を横に振った、「時間が掛かり過ぎて忘れた」

「思い出せる?」

「分からない」

通りがかった煙草屋の前の灰皿に煙草を捨て、僕はポケットに手を突っ込んだ。

それから僕たちはまた無言になった。ひたすらまっすぐ歩き続けた。時折見かける道路標識で、自分たちが大体どのあたりにいるのかは分かったが、どれくらいの時間歩き続けていて今何時なのかは、あっという間に分からなくなった。

やがて雨が降り始めた。弱い、静かな雨だった。僕は失敗したと思った。傘を持ってこなかったのはともかく、合成レザーのサンダルと足の裏の間に雨が入り込んでずるずると滑るようになったのだ。

「帰ろう」

そう僕が言うと、夏は頷いた。

頷いたのに、彼女はどんどんまっすぐ歩き続けた。サンダルを引きずるように歩く僕よりもペースを上げて、僕と彼女の距離は少しずつ広がっていった。僕は歩く速度を何とか少しでも上げようとしたが、彼女はそれよりも少しだけ更に加速した。

夏、と僕は声を掛けた。

彼女は振り向かずに足早に歩き続けた。

あたりはほとんど音の無い雨に包まれている。やがて夏は走りだした。彼女はどんどん遠ざかっていき、その半身を、道を走る車のハイビームが照らした。その部分だけが燃えるように眩しく煌めいた。

僕は、夏、と大声で呼んだが、彼女は一切減速しなかった。跳ねるように走り続けた。

僕はサンダルを脱いで片手に抱え、裸足で全速力で走った。十歩も走らないうちにアスファルトの破片か何かが足の裏に突き刺さったが、気にせず走り続けた。僕は彼女の背中を、視線だけで引き寄せられるほど思い切り睨みつけて、ぐいぐい彼女に近付いて行った。静かな雨の中で、前を走る彼女の激しい呼吸が聞こえるような気がした。僕はその息を吸い込んで引っ張るように意識して走った。

目の前に夏の右耳が見えたとき、僕はもう一度彼女の名前を呼び、右腕を思い切りつかんで引き寄せた。僕は止まり、夏は走り続けようとしていたので、踏ん張った足が地面に擦れた。彼女の体はぐるりと回転し僕に衝突して止まった。受け止めようとして、右手に持ったサンダルが地面に落ちた。

夏と正面から向かい合って、僕は彼女の両肩を掴んでいた。彼女も僕も荒い息をついていた。僕は少し身を屈めて夏の顔を覗き込んだ。濡れた髪の下の彼女の表情は、呼吸が乱れている以外には、走り始める前と全く変わらなかった。

「走るの速いね」と夏は言った。

「毎日物凄く歩いてるから」と僕は言って頷いた。

「今何時?」

「分からない」

僕はそう答えた。時間どころか場所も分からなかった。僕はあたりを見回したが、全く見覚えのない住宅街だった。家の明りは全て消えている。

僕は夏の肩から手を離し、代わりに左手を握りしめた。そして落ちたサンダルを拾い上げ、裸足のまま、もと来た道を引き返して歩き始めた。

夏は黙って付いて来た。

僕は何も言わなかった。彼女の手を引いてまっすぐ歩き続けた。雨の音だけが静かに僕たちを取り囲んでいた。

握りしめた僕と夏の手は互いの体温で熱くなっていった。彼女はずっと僕の方を見上げていて、僕はその目を正視することができなかった。雨が止むことなく静かな一定のペースで降り続けていて、僕は裸足のまま歩き続けた。一歩足を踏み出すごとにぴりぴり痛んだが、僕は歩調を変えなかった。

アパートに着いた時には午前三時になっていた。あと四時間後には起きなければならない。僕と夏の全身は水浸しだった。シャワーを浴びるかと僕は夏に尋ねたが、彼女は首を横に振った。僕と夏はバスタオルで体を拭いた。

頭をごしごしバスタオルで拭いている隙間から、目の前で夏がシャツを脱ごうとしているのが見えた。僕は彼女から背を向けた。彼女が着替え終わり、ベッドに入る音がするまで、僕は背を向けて、被ったバスタオルで頭を掻き続けた。

汚れて擦り切れた足の裏を拭い、濡れたTシャツを洗濯機に放り込み、新しいシャツとハーフパンツに着替えると、僕は明りを消して、ベッドの横に敷いた布団に潜り込んだ。

「裕司」

夏が呼んだ。寝転がっている僕からは、ベッドの上の彼女の顔は見えなかった。

どうしたのかと訊く前に、夏の体がもぞもぞと動き、彼女の左手がベッドの縁から垂れ下がって床に触れた。

「手を握って」

僕は差し出された手をそっと握った。彼女はベッドの端ぎりぎりまで身を寄せていたので、今度はその表情が見えた。夏は暗闇の中で僕の目をじっと見つめていた。僕は、夏の手を握ったまま起き上がり、彼女の腕をベッドの上に置き直させた。

「その姿勢じゃ肩が痛いだろ。寝るまでこうしてるから」

夏は首を横に振った。

「眠ってもこうしていて」

僕は頷いて、分かった、と言った。夏は微かに頷いて目を閉じた。

しばらく彼女の閉じた瞼を見つめた後、夏の手を握ったまま、彼女に背を向けてベッドにもたれかかり、俯いた。外でまだ雨が降っているはずだが、何の音も聞こえない。彼女の手の温かさと、ひりひりと痛んで熱を放つ足と、体の先端にある二つの異なる感覚の真ん中で、僕は眠りに落ちた。

 

 

 

翌朝、シャワーを浴び、昨日と別のスーツを着て、昨日と同じように夏に行ってきます、と言って家を出た。夏はまだほとんど眠っていたが、僕の方は、四時間も眠っていない割には頭ははっきりしていた。痛みのせいだ。裸足で無茶をしたお陰で足がかなり痛んだが、奇妙な姿勢で眠ったせいで右肩と首筋も痛んでいた。職場になど向かわずマッサージに行きたいところだった。

それでも僕はいつもと同じように資料を作り、メールを返信し、営業に出かけた。働きながら、しまったと僕は考えた。今日は深夜に印刷物の入稿があり、帰りは相当遅れることになっていたが、それを夏に伝えるのを忘れていたのだ。家に置き電話は無いし、夏は携帯電話を持っていない。仕事の合間で時間を見つけて、一度家に帰って伝えられないか画策したが、そんな間合いはどこにも存在しなかった。新規の依頼や急な予定の変更が、昼食を食べる暇も僕に与えないほど連続で押し寄せて、それらにつつがなく対処していくだけで精いっぱいだった。

あっという間に夜になり、入稿用の完成チラシのデータの上がりを、受け取り先のデザイン事務所の待合室で煙草を吸いながら待った。予想した通り、データの進行は順調に遅れていた。待つことは常に僕に課せられた最重要の任務であるので、普段であれば何とも思わなかったが、二十三時半を過ぎた腕時計を見て僕は焦れていた。

待ちながら、僕はこの二日間のことを考えていた。

何故僕は喋らないのだろうか、と考えた。話したいことは山ほどあるはずなのに、僕はこの二日間、具体的なことをほとんど何も話していない。彼女の顔を見て、彼女の言葉に反応する、ただそれだけだ。僕は今更怯えているのだろうか。僕が何かを話すことで、彼女の中の何かが砕け、それとも僕と彼女の間の何かが壊れ、彼女が去ったりするとでも思っているのだろうか。もしくは僕は、何を話したらいいのかまだ分からないのだろうか。散らばったページのどれを拾い上げて読み始めるか、自分では決められないのだろうか。

五本目の煙草を吸い終わったところでデータが完成した。デザイナーからデータを受け取り、原稿の色味その他諸々のデータ上の注意点を確認して、タクシーに乗って工場に直接向かった。残っていたスタッフにデータとともに差し入れの栄養ドリンクを渡して、データチェックに入ってもらった。僕の方は赤のボールペンを握って、出力見本を広げ、改めて頭から最後まで文字校正する。デザイナーとクライアントが何度もチェックしてきた結果の完成物であるから誤りはないはずだったが、日付や値段の表記間違いは決まっていつかどこかで発生する。正解の情報源が僕の手元にあるわけでもないから、全てのチェックが僕に可能なわけでもなく、またもし間違いがあったとしても僕の責任ではない。僕の責任は、預かったデータの通りに印刷物を仕上げることだけだ。だが僕は他の営業と同じように、必ずこの確認作業をした。必要だからだというよりも、そうしなければ僕の仕事はただの伝書鳩と同じことだったからだ。

全ての確認が終わった時には午前二時を過ぎていた。僕は体を伸ばして深呼吸して工場を出た。朝からほとんどまともに食事を取っていないことに気が付き、近所のコンビニでおにぎりとチキンとペットボトルのジュースを買い、タクシーに乗った。運転手に、臭って申し訳ないんですが飯を食っていいですか、と断ってチキンを頬張った。

タクシーを降りて、アパートの自室を見上げた。明かりは消えている。足音を立てないようにアパートの玄関前まで歩いて行き、鍵穴に静かにキーを差し込んで、ゆっくりとドアノブを回した。微かな摩擦音を立ててドアが開いて行き、僕は外の暗闇から中の暗闇に足を滑りこませ、自分にも聞こえないような小さな声で、ただいま、と言った。

「おかえりなさい」

暗闇の向こうからいきなりその声が聞こえて、僕の全身は反射的にびくりと大きく震え、靴を脱ぎかけだった中途半端な姿勢が崩れ落ちそうになった。

僕は顔を上げて正面を見た。真っ暗でほとんど全く見えないが、リビングに続くドアの前の狭い廊下に、夏のシルエットが微かに揺れるのを感じた。

完全に不意を突かれた。

「起きてたのか?」

僕がそう尋ねても、夏は無言だった。頷いたのかもしれないが、僕にはその動きは全く見えなかった。僕は手探りで玄関の明かりのスイッチを探して押した。

ソケットが明滅した後で、白熱灯が点灯した。玄関と、そこから繋がる小さなキッチンと、直立して僕の正面に立っている夏の姿が照らし出された。

ただいま、と僕がもう一度言うと、おかえりなさい、と夏ももう一度言った。

「起きてると思わなかった。遅くなってごめん」

夏は首を横に振った、「大丈夫」

「明かりが消えてるから寝てると思った。眠くなかったのか?」

「裕司、何でこんなに遅かったの?」

「ごめん、言い忘れちゃったんだけど、今日は遅い時間に仕事が入ることが決まってたんだ。夏に言っておけばよかった」

「帰って来ないかと思った」

「帰ってくるよ。どれだけ遅くても。できるだけ徹夜はしない主義だ」

「明日は?」

「明日はもっと早いと思う。8時とか9時とかには帰って来れると思う」

僕は玄関から上がり、夏の隣を通りすぎてリビングに向かった。すれ違う時、夏の手や腕が塗料のようなもので黒く汚れているのが見えた。

だからどこかに二人で食事にでも行こうか、そう言いながらリビングへの戸を開け、明かりを点けた瞬間、僕の言葉は断ち切られた。

最初に僕に感じられたのは臭いだった。ペンキのような、乾き切らない塗料の猛烈な臭いだ。玄関のドアを開けた瞬間から微かに感じてはいたが、暗闇の中の夏に驚かされている間にそれを咀嚼する暇がなかった。だが、どちらにしてもその嗅覚の刺激もすぐに掻き消された。蛍光灯が完全に点灯したところで、僕は目の前に広がる光景に完全に絶句した。

そこは僕の部屋ではなかった。

少なくとも、僕の部屋の色をしていなかった。

もともと殺風景な部屋ではあったが、視界にほとんど暗闇しか映らないので、空き巣でも入ったのかと反射的に思った。もしくは蛍光灯が故障しているのかと思った。

しかしそうではない。明かりは既に点いている。一面、何か濃く黒いものが塗りつけられた蛍光管が、暗い弱弱しい光で部屋を照らしている。

僕は視線を下ろした。その瞬間、部屋全体の形が歪んだように見えた。そしてたった一つの色が、僕の目に向かって殺到した。

それは黒だった。

それ以外には何も無かった。

僕の部屋が、何もかも真っ黒に染まっていた。

隅から隅まで、壁中、天井、カーテン、カーペット、テーブル、ベッド、全てだ。見渡す限り何もかもが、黒いペンキや絵の具で真っ黒く塗りつぶされていた。

僕の頭から、言葉が吹き飛んだ。

代わりに暗闇と黒だけが体の中を駆け巡り、僕は目を見開いた。

今朝見た部屋の面影は一片も残っていなかった。全体が濡れていて、深海の底のようだった。一様に全てが黒いのでどこに何があるのかよく分からない。それに蛍光灯の管にペンキが塗られて明かりが弱いせいで、部屋の奥行きも分かりにくい。だが、目を凝らすと、そこにあるのは確かに、僕が買い集め、僕が洗濯したり掃除したりし続けてきたものが置かれた僕の部屋だった。ただ全ての色が消えてしまっただけだった。ベッドの布団やシーツは染料のようなもので染められきちんとベッドメイクされている。本棚もそこに収まった本の背表紙も、全て黒くベタ塗りされ、全ての題名と著者名は消え、ただの壁にしか見えない。ステレオやテレビまで真っ黒に塗られている。もともと黒いテレビの液晶まで全面ペンキが塗りたくられている。良く見ると、テーブルの上に置かれたリモコンまで真っ黒になっていた。

僕は目を細めた。何かを見つけようとしていたが、何を探しているのか自分でも分からなかった。僕は思い出したように鼻と口を手で押さえ、凄まじい臭いを一度に吸い込んでしまわないよう、ゆっくりと呼吸した。

振り返ると、玄関前の廊下は夏のものと思しき黒い足跡で点々と黒に染まっていた。バスルームのドアを開けると塗料の缶が転がっていて、バスタブは墨汁のような真っ黒い液体で一杯になっていた。

僕はしばらく立ち尽くした後、部屋の中に足を踏み出した。床を埋め尽くす半乾きのペンキが靴下を引っ張った。テーブルの上のテレビのリモコンを取り上げて、電源を入れようとしたが、ペンキで固まっていてスイッチが動かなかった。

僕はもう一度振り返り、夏を見た。彼女は昨日と全く変わらない無表情で僕を見返していた。

僕たちは無言で見つめあった。僕は何度か呼吸して、夏と、洞窟の奥底のような暗黒に包まれた部屋とを見比べた。

何かを話さなくてはならないと思ったが、言葉がすぐには出てこなかった。

やがて僕は、なんだ、これ、と独り言のように呟いた。

夏は何も反応しなかった。それで僕は、夏に向かって真っ直ぐ訊かなくてはならないのだと理解した。

「夏がやったんだよな?」

夏は首を傾げた、「やった、って何?」

「この、全部真っ黒にしたのは、夏がやったんだよな?」

夏は頷いた。

「どうして?」と僕は訊いた。

「白かったから」

「白かったって何が?」

「部屋が白かった」

「部屋が白いと黒にしなきゃいけないのか?」

夏は頷いた、「白かったから、黒にしようと思って」

僕は真っ黒く染まった部屋と、その入り口で佇んだままの夏を交互に何度も見返した。

僕はまだ手に仕事カバンと、ペンキが塗りたくられたリモコンを持っていた。カバンから手を離してその場に下ろすと、微かにべちゃっという音がした。べたべたするリモコンをテーブルの上に置くと、僕の手のひらに塗料が移っていた。

「気に入った?」

夏は相変わらずの無表情でそう言った。

僕と夏の間の黒い空間を、塗料の強烈な臭いが微かに風となって通り過ぎた。

僕も夏も、そのほんの少しの空気の流れの中で、突っ立って何も言わなかった。代わりに僕はその臭いを深く吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。

ひどい臭いだった。

夏は僕の顔をじっと見返していた。彼女とまっすぐ見つめ合っていると、僕の唇の両端が吊り上がり、微かに息が漏れた。初めはゆっくりと、口と鼻から断続的に息が漏れるだけだったが、次第に、声に出して、くっくっと笑った。

「もう駄目だ」と僕は笑いながら言った。

僕は笑いだした。口を大きく開け、目を細め、顎を上げた。体の中で笑いが爆発し、あっという間に僕の全身を覆い尽くした。僕は声を上げて、身をよじらせ、思い切り笑った。次から次に腹の底から津波のような笑いが押し寄せてきて、止まらなかった。やがて立っていられなくなり、僕は真っ黒に染まったベッドに腰掛けて笑った。座るとベッドはまだ湿っていて、じゅわっと音がした。それもまた僕の笑いを助長した。僕は湿ったベッドの感触を何度も手のひらで確かめ、スーツの生地を通り抜けて尻にしみこむ冷たい染料の感触を味わって、爆発的に笑い続けた。真っ黒い部屋の真ん中で僕の笑い声が響き渡った。

僕が笑っていると、夏が隣にやってきてベッドに腰掛けた。僕は彼女の顔を見つめ、手を握って笑い続けた。彼女の手は真っ黒に染まっていて、それを見ていると更に笑いがこみあげてきた。しかし何より傑作なのは彼女の完璧な無表情だった。この無表情のまま今日一日黙々と僕の部屋を真っ黒に塗りつぶし続けていたのだと思うと、腹筋が攣ってしまいそうだった。

笑いで窒息しそうになりながら、僕は言った。

「気に入るわけないだろ。俺、これから、こんなホラー映画みたいな部屋で、どうやって生活して行ったらいいんだよ」

そう言って、僕は呼吸困難になりながらまた笑い続けた。もし暮らしていけても、このアパートを引き払う時に大家に殺されるだろう、そう思うとまた笑いが止まらなくなった。

人生でこんなに笑ったのは初めてのことだった。やがて笑いすぎて僕は激しくせき込み、体を折り曲げてごほごほと酸素を求めた。

夏が僕の肩と背中を撫でた。

「大丈夫?」

僕は首を横に振った、「大丈夫じゃない。大丈夫なわけないだろ。お前なんてことしてくれたんだよ。想像もしてないよこんなこと。夜中の2時過ぎまで働いて、疲れきって、やっと家に帰って来れたと思ったらこんな大惨事になってて大丈夫なわけないだろ」

「怒った?」

僕は首を横に振った。

「怒ってない。怒ってたら笑えないだろ」

「どうして笑うの?」

「分かったからだよ。明日の朝、すぐに行こう」

「どこに?」

僕は夏の手を強く握った。僕の中に直感が生まれていた。何年も、ひょっとしたら生まれてから一度も、出会ったことのない感覚だった。それは強く激しく、僕の背中を押していた。

「真中市だよ。俺たちの街に帰ろう。俺たちはあそこでやることがある」

 

 

 

染料で湿ったベッドの上にバスタオルを数枚敷いて、夏と並んで横たわり、数時間仮眠した。真っ黒い部屋に朝の光が差し込んで、黒いレースカーテンが輝いた。部屋の全景が光の中に浮かび上がり、僕は体を起して頭を掻いた。古代の古墳の中で目覚めたような気分だった。

シャワーを浴びて服を着替えた。間に合わなかったのか、見落としていたのかは分からないが、夏がクローゼットの中まで真っ黒にしていなかったのは幸運だった。僕は着替えの服をバッグに詰め、夏の手を引いて家を出た。

会社に母親が急病に罹ってしばらく休む旨の連絡を入れ、僕はトヨタレンタカーに行ってプリウスを借りた。レンタカーが手配されるのを夏と二人で長椅子に座って待つ間、健一に電話をした。

「明日、真中市に来れるか。難しければ明後日でもいい」

明日の昼なら行けると思う、と健一は言った、〈どうしたんだ?〉

「夏と一緒に今から真中市に向かう。詳しくはそこで話す。大事なことだ」

分かった、と健一は応えた。

「健一、誠二の居場所はやっぱり分からないよな?」

〈分からない。今どのあたりにいるのかも見当がつかない〉

僕は天を仰いだ、「本当は、四人全員揃っていたかったんだけど仕方がない。三人で会おう。着いたら電話をくれ。駅まで車で迎えに行く」

電話を切って車に乗り込むと、僕たちはまずコンビニで買い出しをした。ペットボトルのジュースを数本、おにぎりやパン、そして何よりも大量のスナック菓子を買った。

僕は手持ちの携帯音楽プレイヤーをダッシュボードのジャックにつないで音楽を再生した。コールドプレイ、カニエ・ウエスト、マルーン5、スフィアン・スティーブンス、アーケード・ファイア、ジョン・メイヤーといった面々の音楽が、ランダムに再生された。

真っ青な空に太陽が煌々と輝く、完璧なドライブ日和だった。夏は助手席でドンタコスをさくさく食べながら、僕の方をちらちら見ていた。

「裕司、今日は仕事行かなくていいの?」

「今日は行かなくていいんだ。今日は俺が行きたいところに行くから、付き合って欲しい」

東京から真中市までは西に400キロほどだ。ゆっくり走っても今日中には辿りつくだろう。東名高速に乗ってひたすら西に向かった。僕たちはほとんど会話をしなかった。

代わりに歌を歌った。僕はカーステレオから流れる音楽に合わせてコールドプレイの「イン・マイ・プレイス」やジョン・メイヤーの「ネオン」を歌った。夏は黙ってそれを聞いていた。

だが、ニール・ヤングの「ドント・レット・イット・ブリング・ユー・ダウン」のライブ盤が流れ始めたとき、夏も歌い始めた。僕たちは二人でその歌を合唱した。とても古い歌だった。

 

老人が道端に倒れている

その脇をトラックたちが通りすぎていく

青い月が その荷の重みで沈んでいく

そして空に突き刺さるビル

冷たい風が夜明けの路地を切り裂いていく

朝刊が舞い上がり

死人が道端に横たわり

彼の目に日の光が射している

 

こんなことに挫けちゃいけない

ただ城が炎上しているだけ

跳ね返してるやつを見つけるんだ

そうすれば 君はやっていけるよ

 

 

僕は部分的にしか覚えていなかったが、夏は完璧に歌った。そう言えばニール・ヤングは中学生のころに夏に教えてもらったのだった。僕はその頃はもっと明るい音楽に夢中で、正直言って良さが全く分からずに素通りしてしまっていた。でも今はこの曲の素晴らしさが心から分かった。とても短いこの歌を歌いながら、なんて美しい歌だろうと思った。

僕は夏に合わせて、僕たちがかつて良く聞いた、90年代より前の音楽を流すことにした。ビリー・ジョエル、スティービー・ワンダー、ボブ・ディラン、キャロル・キング、ジョニ・ミッチェル、REOスピードワゴン、ニューオーダー、ディジー・ミズ・リジー、そしてビートルズ。

僕たちはほとんどの歌を覚えていた。大体二人とも覚えていたが、僕が覚えていない曲は夏が覚えていて、彼女が覚えていない曲は僕が覚えていた。僕たちはひたすら歌い続けた。僕のプレイヤーには一万曲以上の音楽が入っていて、次から次にどこまでも続いて行った。

しかし、御殿場を通り過ぎたところで僕は全身が眠気に包まれていることに気が付いた。この数日、2、3時間ずつしか眠っていないのだから当然と言えば当然だった。

少し休憩してもいいかな、と夏に言うと彼女は頷いた。

パーキングエリアで車を停め、売店の前にあったコカコーラの長椅子に横たわり、頭の下にタオルを敷いた。夏は僕の頭の隣に座った。太陽が高く昇り、周囲の空気は完全な夏と化していたが、日蔭のそこには若干涼しい風が吹いていて、あっという間に僕は眠りに落ちた。意識が消える直前に、夏の手のひらが僕の額にそっと被さるのを感じた。

 

 

 

内容の思い出せない夢から目覚めると、既に正午を回っていた。寝汗をトイレの水道でぬぐった後、夏と二人で売店に行き、僕は冷やしたぬきうどんを頼み、夏は何も注文しなかった。半分くらい食べたところでどんぶりを彼女に差し出して、少しだけ食べないか尋ねると、夏は間を空けて頷いた。

夏は割りばしを握ったが、その手は少し震えていた。僕は彼女の隣に中腰に立ち、彼女の手を握って、箸で掬ったうどんを口元までゆっくり持っていった。彼女はうどんを噛み切り、麺の切れ端がどんぶりに落下していって汁が跳ねた。売店には点々としか客はいなかったが、何人かの視線を感じた。だが全く気にならなかった。僕と夏は何十分もかけてゆっくりとうどんを食べた。

うどんを食べ終わると、僕たちはバニラソフトクリームを二つ注文して外のベンチに並んで座って食べ、再びドライブに戻った。

相変わらず空は良く晴れていた。絵の具で塗りつぶされたかのように微動だにしない完ぺきな青だった。そして並走する車がほとんどなく、プリウスのエンジンは異様に静かに回転し、行く手に陽炎が揺らめいて、カーステレオからジョニ・ミッチェルの「コヨーテ」が流れ、僕は夢を見ているような気分になった。何もかも、今いる時空が昨日までと同じ世界には全く見えなかった。昨日までの仕事とも、朝までいた部屋の中とも、全てが全く違っていた。僕たちは誰もいない世界で、波風一つない鏡のような広大な湖をどこまでも滑走しているような気分だった

夏がボタンを押して窓を開けた。ごうごう音を立てて風が車内に吹き込み、空になったスナック菓子の袋が舞いあがった。夏は少しだけ窓の外に顔を出して、目を閉じて風を浴びた。ちらりと見たその横顔は、相変わらず能面だったが気持ち良さそうに見えた。

途中に少しずつ休憩を挟んだが、夕方まで延々と車を走らせ続けた。このまま走り続ければ、夜になる頃には真中市に辿りつくだろうと考えた。気が付くと、夏は隣の席で僕の方に顔を向けて音もなく眠っていた。僕はカーステレオの音量を下げ、ゆっくりと走り続けた。

まだもう少しだけこうしていたい、と僕は思った。あと一日、あと数時間でいいからこうしていたい。

僕は高速を降りて、進路を更に南へ切った。しばらく走るうちに海が見え、海岸沿いを走った。ヨットハーバーを通り過ぎ、民宿や旅館街を抜けるうち、港の桟橋の向こうで太陽が少しずつ傾いて行った。

僕は海開きしたばかりの遊泳場の駐車場にプリウスを停めた。夏はまだ眠っていた。静かなエンジン音が完全に停止して、物音を立てずにそっと外に出て煙草を吸った。煙が全身に染み込んだ。太陽は間もなく山と森の向こう側に落ちていくところで、海面が薄闇の中で弱い黄金色に染まっていた。僕は目を細めてその光の反射を見つめた。地元の子供たちが数人波打ち際で遊んでいたが、しばらくするうちに散り散りに去っていき、誰もいなくなった。僕は駐車場の端の防波堤に上って腰掛けて、ゆっくりと煙草を吸った。

物音に気が付いて振り返ると、夏が目を覚まして車の外に立っていた。太陽に今日最後の光を投げかけられながら、彼女は僕の方を見ていて、同じように防波堤を上って隣に座った。

「ここはどこ?」

「俺も正確には分からない。でももうすぐ真中市だよ」

「みんなどこに行ったの?」

夏は周囲を見回しながらそう言った。

彼女が言う通り、あたりには人の気配がしなかった。微かに、風の音や、鳥の鳴き声や、遠くから車のエンジン音が聞こえたが、時が止まったような感覚がするほど、僕と夏以外に生きる者の気配がしなかった。

「どこかにいるよ。僕たちが今、どこだか分からないところにいるのと同じだ」

「裕司、煙草のにおいがする」

嫌いか、と聞こうとすると、夏が顔を寄せてきて僕の口をキスで塞いだ。

夏はゆっくりと唇を離し、至近距離で僕を見つめた。近すぎて、彼女の目と鼻しか見えなかった。

「二回目だから、今度は私がした」

夏は小さな声でそう言った。覚えてたのか、と訊くと夏は、覚えてる、と言って頷いた。

あの時、僕たちは十五歳だった。彼女の家の近くで、僕は彼女の肩を掴んでそっと口付けした。

あの日、別れる直前に彼女に言いたかった言葉を、僕は思い出した。

どれほど君のことを大切に想っているか。

どれほど君の傍にいたいか。

どれほど君を愛しているか。

あの時僕はそう言えなかった。

今なら言える。

それは同じ言葉の繰り返しではない。新しい言葉だ。言葉は感情と混ざり合って、僕の胸の中にあり、すぐ目の前に見えている。手の中にある本の僅か数ページ先に、奏でられている音楽のほんの数小節先に、その言葉がある。

僕は夏の手を握り、無表情の顔を見つめた。明日僕たちは真中市に辿り着く。そして再び去る。どこへ行くかはまだ分からない。だがその時、僕は彼女にその言葉を告げるだろう。

 

 

 

近くの海辺のホテルに泊った翌朝、僕たちは港を散策して歩いた。特に会話はなく、特に目的地もなく、ふらふらと歩いた。桟橋にカモメたちがわらわらと舞い降り、水平線の向こうからゆっくり船が近づいてきた。この港は真中市からせいぜい五、六十キロ程度しか離れていないはずだったが、僕はこういう風景が僕たちの県に存在することを知らなかった。

僕のポケットで携帯電話が振動した。健一からの電話だった。

〈今から新幹線に乗る。昼過ぎにはそっちに着く〉

分かった、迎えに行く、と僕は応えた。そして、夏、健一だ、と言って携帯を夏に渡した。夏は携帯を握ってしばらく沈黙していた。

やがて小さな声で、「もしもし」と夏は言った。

そして、うん、うん、と何度か頷いた。無表情のままだったが、彼女が健一の声を覚えていて、彼の声に集中していることは分かった。

何度か、うん、とか、ううんとか言った後で夏は、分かった、と言って電話を切った。

「健一、何て言ってた?」

「何で俺たちが真中市に集まるのか、お前知ってるか、って。知らないって返事した」

「そしたら健一は何て言った?」

「俺も知らないから裕司に訊いてくれ、って。分かった、って答えた」

「そうか、俺言ってなかったんだっけ」

「何しに行くの?」

「何しに行くのか分からないのに、何で健一はすぐに来るし、夏は黙ってついてくるんだろう。ただ俺は、来てくれって言っただけなのに」

「裕司、私たち、これから何をするの?」

「葬式だよ」

「葬式? 誰か死んだの?」

「たくさんの人が死んだ。俺たちが知ってる人も、知らない人もたくさん死んだ」

「誰の葬式をするの?」

「みんなだよ。死んだ全員の葬式だ」

携帯電話を夏から受け取って、僕たちはホテルに戻った。チェックアウトして再びプリウスに乗り込み、名古屋駅に向かった。

駐車場に車を停め、近くの喫茶店で時間を潰した後、改札口で健一を待った。

僕が気が付くよりも早く、最初に夏が手を振った。僕が彼女の視線の方向を辿ると、そこに松葉杖を突いた健一がいた。彼は笑っていて、声に出さずに口を動かした。久しぶり、とその動きが読めた。

改札を通り抜けてやって来た健一に、僕は、久しぶり、と言った。

「夏、変わってないな」

健一が夏を見て、笑顔でそう言った。

「健一、足どうしたの?」と夏が訊いた。

「切れたんだよ。でももう大丈夫だ」

健一をプリウスに乗せ、僕たちは真中市に向かった。後部座席に座った健一は、それで、と言った。

「それで俺たちこれから何をするんだ?」

「お葬式をやるんだって」と夏が言った。

「葬式? 誰の?」

「全員だ」と僕はハンドルを握りながら言った。「最初から今日まで、僕たちの周りで死んだ人、いなくなった人、全員の葬式だ」

少し準備する必要がある、と僕は言った。僕は真中市に入る前に、ホームセンターや洋服チェーン店やおもちゃ屋に立ち寄って棚を物色した。そして、おそらく他人の目には何の目的でそれらを買うのか、組み合わせが意味不明な様々なものを大量に買い込んで、車に戻った。

辿りついた真中市は、僕たちが去った十年前と、全く変わっていなかった。僕たちは車の中からその光景を眺めた。

もちろん、造形が全く変わらないというわけではない。近所の本屋が潰れて薬局になっていたり、水田の幾つかが塗りつぶされて民家になっていたり、ぼろぼろだった市役所は建て替えられていた。アスファルトが補修されたり、ガードレールが新設されたりする一方、一部の道はより荒れ果てたりしていた。

だがそれらは些細な誤差であり、イメージの変化ではなかった。

「何も変わってないな」と健一が言って、僕は頷いた。

どこからどう見ても、何の特徴もない、日本中のどこにでもある、普通の街だった。

そして僕たちはあの場所へ向かった。

秘密基地があった場所、雨の後ゴミの山になっていた場所、健一と僕が月光仮面を殺した場所だ。

かつて四人で良く歩いた水田の合間のあぜ道を、プリウスでゆっくりと走っていき、何もない空間にたどり着くと、僕は車を停めた。

車から降りると、僕は空を見上げた。昨日と同じように完璧な青空が広がっていて、柔らかい風が吹いていた。周囲に広がる水田は背の高い稲で埋め尽くされ、緑の草原と化していた。遠くに民家が広がる風景も、良く見慣れたものだった。背後のしばらく向こうに、無表情な日光川の堤防がある。そして足元の周りを見回すと、十年前と同じ空白だった。

健一と夏も車を降りて、僕の隣に立った。

何もない。ススキが点々と茂り、あとは大きさのまばらな砂利が転がっているだけだ。あえて言うならば僕はその空間を昔よりも小さく感じたが、違和感を覚えるほどではなく、全く何も変わっていないと言ってよかった。あたりには誰の姿もなく、それもあの頃と同じだった。

やろう、と僕は言った。

僕はプリウスのトランクからホームセンターで買い込んだ大量の物品を下ろした。

最初に必要なのは木材だった。僕は地面をスコップで掘り、できた穴に自分の腕の半分くらいの太さの木材を一本一本立てていった。あっという間に全身から汗が噴き出した。僕は額を拭いながら木材を隙間なく並べ続けた。

健一と夏は僕の作業をじっと見つめていた。

やがて、手前に木材数本分だけ空きのある、小さなロの字型の囲いができた。囲いの中に切り取った段ボールを何枚も敷き詰めた後、僕は立ち並ぶ木材の上に、薄く幅広の四角い木の板を被せ、足元の石ころを幾つか拾ってその上に重しとして載せた。

我ながらそれは滑稽なほど不格好に見えた。粗雑で、小さく、イメージが弱い。十五年前の自分たちが見たらきっと笑うだろうと思った。

あのころとは違うけど、と僕は断って二人に言った、「これは俺たちの基地だ。この街で最初に死んだこいつを、葬る。そして、今日の火葬場も務めてもらう」

僕が二人を見つめると、健一は静かな眼で僕を見返し、夏の顔には感情が無かった。

僕には、その夏の顔が、さっきまでの単なる無表情ではなく、凍りついているのだと分かった。

僕は、買い込んだビニール袋や紙袋の中身を、一つ一つ取り出して地面に置きながら言った。

「もう何も残ってない。俺たちは死んだ人の多くの本当の名前も知らない。遺品もない。でも、誰かが俺たちに言った。神様が現世に降りるときには、依り代になる物が必要になるって。この世に存在していないものが存在するようイメージするために、目に見えないものを見ようとするために、何か代わりの物があればその助けになるってことだ。死んだみんなの依り代がここにある。俺が用意した物はみんな偽物かもしれないけど、今日はそれを燃やして葬式にしよう」

「その前に教えてくれ」と健一が言った、「裕司、どうしてなんだ? どうして葬式をするんだ?」

「やってないからだよ」

僕はそう言って、夏を見つめた。

「夏、お前が言ったんだ。十五年前にお前が言ったんだ。私たちは葬式をしようって。遅くなったけど、今からそれをやろう」

夏は僕の目を見て、首を横に振った。

何度も首を横に振った。

「嫌だ」と夏は言った。

「やるんだ」

「嫌だ」

「どうして嫌なんだ?」

「みんな生きてるのに」

僕は首を横に振った。静かに、何度も首を横に振った。

「みんな死んだ。殺されたり、病気で死んだり、いなくなったりした」

「生きてる」

「死んだんだ。俺の父さんも、健一の母さんも死んだ。悲しいけど、でも大丈夫だ。何とかやっていける。やっていくしかない。どうしてか分かるか?」

「分からない」

「俺たちが生きてるからだ。お前と一緒に生きたいからだ」

「裕司が何言ってるのか分からない」

「俺だって理由は分かんないよ。だけど俺は、お前にだけは絶対に嘘はつかない。子供のころから、お前や、健一や、誠二にだけは、絶対に嘘はつかなかった。俺がお前に嘘ついたことあるか?」

「ない」、と夏は言った。「でも分からない」

「分かってる。俺が悪かったんだ。俺が間違ってた。それだけじゃ駄目だったんだ。俺は大切なことを何も言ってなかった。俺はお前に隠してたことがある。怖かったから言えなかったことがある。

夏、みんな死んだんだ。でも生きてる人もいる。だから俺たちが葬式をしてやろう」

夏は僕をじっと見つめた。微かに彼女の眉間にしわが寄った。

夏はほんの少しだけ頷いた。

僕は足元からコカコーラの缶を拾い上げた。プルトップを開けて、ひっくり返して一気に飲み干した。口を拭って、夏にその空き缶を渡した。

「空き缶で家を作った、空き缶おじさんの代わりだ」

そして夏に、木囲いの中にそれを入れるよう促した。夏は両手で空き缶を握って恐る恐る歩き、囲いの隙間に空き缶を差し入れた。

僕は頷き、次に料理用のおたまを取り上げて、健一に渡した。自宅の前で延々料理を作っていた「料理おばさん」の分だった。健一はおたまを囲いの中に入れた。

僕は映画「トイストーリー」に出てきたエイリアンのぬいぐるみを夏に渡した。公園で宇宙船を呼び寄せようと毎日祈りをささげていた「エイリアンじいさん」の分だった。夏は巫女のような厳粛さで、それを囲いの中に入れた。

僕は次々に自分が用意した依り代を夏と健一に渡した。

ペットボトルのロケットで空を飛ぼうとした「ロケットおじさん」の為の空きのペットボトルを。

街を一人で毎日行進して平和を訴えていた「軍隊じいさん」の為のドックタグを。

日光川で毎日河童を探していた「河童おじさん」の為の白い小皿を。

ドラえもんののび太のコスプレをして歩いていた青年の為の紺色の半ズボンを。

毎日倉庫の壁に向かってドッジボールをしていた「ドッジボールおじさん」の為のバレーボールを。

日本中の神社を歩き回って、祝福された鏡を探していた男の為の小さな鏡を。

いつも一人で教室で音楽を聴いていた、横山の為の黒いイヤホンを。

そして僕はプラスチックのおもちゃの拳銃二丁を取り上げた。

月光仮面の依り代だった。

僕は一つを健一に渡し、もう一つを自分で囲いの中に入れた。

健一は静かな表情で、僕に続いてそれを差し入れた。

僕は細い木材と着火剤を取り上げ、囲いの前に屈みこんで、安置された依り代たちの周囲に立て掛けるように木々を組み、着火剤を振りかけた。細く丸めた新聞紙にライターで火を付けて入れた。何本も同じものを作って入れ、やがて光とともに黙々と煙が立ち上り始めた。

僕は少し後ずさり、夏と健一と並んで、それらが燃え上がるのを見つめた。焚火のような、ささやかで小さな炎だった。

青い空に向かって黙々と煙が立ち上り、僕たちの額を汗が静かに流れ落ちた。やがて屋根代わりの板が焼け、囲い全体に火が回った。

青い空と草原のような水田の風景の中に、種々の物品が様々な色の火を上げて燃え上がった。黒や白や緑や青やオレンジや、色がめちゃくちゃに混ざり合って判別することができなかった。今まで嗅いだ事のない、良く分からない匂いがした。

「裕司、夏、俺お前たちに言ってなかったことが二つあるんだ」

健一が静かな声で言った。

「一つは、俺はこれまで何回か死のうと思ったんだ。

もう一つは、俺はもうすぐ結婚する」

健一は僕と夏の方を見て、やがて微笑んだ。

「結婚式をやるつもりだから、二人で来てくれるか?」

必ず行く、と僕は微笑んで答えた。夏は、分かった、と頷いた。

「綺麗な火だな」と健一が言った。「夏、これは何色なんだ?」

「分からない」

「夏」、と僕は彼女に呼びかけた、「もう黒い絵を描くのやめろ。つまらないから」

分かった、と夏は言った。

そして僕たちは無言で炎を見つめた。手を合わせることもなく、目を閉じることもなく、祈りの言葉もなく、ただ三人で並んで炎を見つめた。

炎が煌々と盛り、屋根が完全に燃え落ち、木の囲いも完全に火に包まれたとき、健一が言った。

「なあ裕司、日光仮面の葬式はやらないのか?」

健一とともに、夏も僕の方を見た。

僕は頷いた。そして、無意識のうちに空を見上げた。煙がもくもく立ち上り、空に混ざって消えていくその境目を見て、僕はズボンの後ろポケットから、手帳を取り出した。

日光仮面の日誌だった。

僕はそれを両手で持ち、少しだけ俯いた。

「ありがとう」

僕はそう言った。そしてもう一度空を見上げた後で、視線を篝火まで下ろそうとした時、人影に気が付いた。

数十メートル向こうの堤防の上に、誰かが立っていた。

全身白い服の男だった。

その男がいつからそこにいたのか、僕には分からなかった。たった今現れたのか、ずっとそこにいたのか。僕は目を見開いた。視界を遮るものが何もない青い空の真下に仁王立ちしているその男を食い入るように見つめた。

彼は少し両足を広げ、両手を腰に当て、僕たちを見下ろしていた。

彼が背負ったマントが、風にはためいている。

全身が白い。

健一も夏も、その男に気が付いた。僕たちが見つめていると、彼はゆっくりと歩き出した。堤防の雑草の生い茂る斜面を確かな足取りで降りて、僕たちの方にまっすぐ向かってきた。

彼が顔に掛けたサングラスがはっきり見えるまでの距離に近づいたころ、歌声が聞こえてきた。

 

 

どこの誰かは知らないけれど

誰もがみんな知っている

日光仮面のおじさんは

正義の味方よ よいひとよ

疾風のようにあらわれて

疾風のように去っていく

日光仮面は誰でしょう

日光仮面は誰でしょう

 

 

濃い色のサングラス。頭に巻かれた白いタオル。巨大で素朴な白いガーゼマスク。肌にぴったりと張り付いたタイツ地の白いスーツ。缶詰の空き缶の側面に穴をあけて作ったベルトのバックル。白いカーテンを裁縫したマント。そして軍手。

歌い終わり、彼は僕らの目の前に立った。

それは日光仮面だった。

僕は、開いた口がふさがらなかった。

彼は背筋をまっすぐ伸ばして、両手を腰に当てて、僕たち三人の顔を順々に眺め、そして僕をまっすぐに見つめてきた。

「繁、久しぶりだな」と日光仮面は言った。

僕は首を横に振った、「しげるじゃない、中原裕司」

そして僕は指を日光仮面に向かって指し、何か言おうとした。だがすぐには言葉が出てこなかった。

「何だ、何か言いたいことがあるのか? まさかサタンの爪か。奴が現れたのか」

僕は首を横に振った、「あんた誰だ?」

「私は日光仮面だ」

ちょっと待て、と僕は言って、再び首を横に振った。

あり得ない。

日光仮面がいるはずがない。目の前にいる男は、どこからどう見ても日光仮面だが、彼がここにいるはずはないのだ。彼が本物の日光仮面のはずはない。目の前の男は、偽者だ。

僕は僕たちに向かって仁王立ちしている、怪しさの塊のような男をじっと見つめた。サングラスは濃く深く、その中の目を見通すことはできなかった。

日光仮面はもういない。月光仮面もいない。二人ともいなくなった。

それなのに、どうしてだろう、と僕は思った。僕には全く分からなかった。この男が偽者なら、どうしてこんなに懐かしいのだろう。

僕は混乱した。全く訳が分からないのに、胸の震えが止まらなかった。僕は手に持ったままの日誌と、目の前のサングラスの男を何度も見比べた。

夏が一歩進みでて、男に向かって右手を差し出し、唐突に言った。

「久しぶり、誠二」

僕と健一は、夏に振り返った。彼女の差し出された手は、まっすぐだった。

彼女はわずかに微笑んでいるように見えた。

男は夏の手を取り、首を横に振った。

「お嬢さん、私は誠二という名前ではない。私は日光仮面だ」

夏は頷いた。彼女は今度こそはっきりと笑った。

「これで四人みんな揃ったね」

夏は僕たち三人を見回して、笑った。

僕たちは夏のその笑顔を中心にしばらく突っ立っていた。やがて笑い声が上がった。健一の声だった。彼は表情を崩して笑い、声を上げた。そして日光仮面の肩を叩いた。

久しぶり、と健一は言った、「久しぶりだな、誠二。会いたかった」

「私の名は誠二ではない、日光仮面だ」と日光仮面はもう一度言った。そして彼は健一が差し出した手を握った。

そして日光仮面は僕の方に向き直り、手を差し出した。軍手の表面の黄色い滑り止めが、薄く汚れている。僕はもう一度彼の全身を頭からつま先まで眺めた。

その姿の向こう側に、懐かしい顔が見えた。僕が困った時にいつも助けてくれた、誰よりも頭がよくて、誰よりも信頼していた少年の顔が見えた。

僕は笑った。僕にも分かった。

僕の大切な友達。

「久しぶり、誠二」と言って僕は日光仮面の手を握った。

「私の名は誠二ではない、日光仮面だ」と彼は再び言った。

「ここで何をしてるんだ?」と僕は尋ねた。

「もちろん、この街の平和を守っている」

「いつから?」

「長い間ずっと。君たちがいなくなってからずっと私はここにいて戦い続けてきた。そして、これからもずっとだ。真の平和が訪れるその日まで」

「どうして今日ここに、僕たちが来ると分かった?」

日光仮面は、誠二は、首を横に振った。

「分からないものがあるか。君たちが、正義の味方を呼び求める声が聞こえたからだ」

僕は頷いた、「ずっと呼んでた」

「困っていることは何だ? 助けてほしいことは何だ?」

僕は、周囲に生えたススキを四本引きぬき、一本は自分で持ち、他の三本を、夏と、健一と、日光仮面にそれぞれ渡した。

「葬式をしていたんだ。僕たちの周りで死んだ人たちの。それで最後に、それ以外のみんなを弔いたいんだ。僕たち四人で。僕たちが知らない人たち、知らないところで死んでいった人たちを。手伝ってほしい」

「分かった」と日光仮面は言った。

僕たちは炎を前にして、横一列に四人並んだ。健一、夏、僕、そして日光仮面。

僕はススキを火の中に投げ入れた。次に健一が、その次に夏が投げ入れ、最後に日光仮面がススキを火にかざした。

それはあっという間に燃え尽き、煙と灰になって消えて行った。

僕たち四人は並んで、全ての火が燃え尽きるのを見ていた。囲いが落ち、灰となり、極彩色に煌めいた炎が小さくなり、風が吹いて燃えかすを遠くに運んでいった。

火の爆ぜる音が消え、あたりは静寂に包まれた。風の音しかしなかった。

僕たちは一言も声を発しなかった。互いの顔を見ることも無く、長い時間、四人で並んで立っていた。火が燃え尽きた跡をじっと見つめていた。

「終わったようだな」と日光仮面は言った。

僕は頷いて、終わった、と言った。「お前に渡すものがある」

僕はポケットに突っこんでいた日誌を再び取り出し、日光仮面に差し出した。

「受け取ってほしい」

「いいのか?」

「お前のものだ」

そして日光仮面は日誌を受け取り、ベルトの間に挟んだ。

「みんな、もう行くのか?」と日光仮面が訊いた。

僕は頷いた、「健一は今の自分の街に戻る。僕は」

僕は夏を見た。夏は僕の手をそっと握った。

「僕は夏と一緒に行く」

分かった、と日光仮面は言った。

「誠二はこれからどうする?」

「言っただろう。いつまでもこの街の平和を守り続ける」

「必ずまた会おう。四人で」

日光仮面は頷いた。

約束だよ、と夏が言った。日光仮面は再び頷いた。

「正義の味方は約束を破らない」

 

 

 

燃え尽きた灰をかき集めて日光川に流して捨て、僕たちは別れた。あぜ道をプリウスで引き返しながら、夏は窓の外に顔を出して遠ざかっていく日光仮面に手を振り続けた。日光仮面は、去っていく僕たちをずっと仁王立ちで見つめていた。彼の姿が小さくなり、やがて水田の向こうに消えて行った。

ターミナル駅に辿り着くと、健一を下ろし、改札口の前で、結婚式には必ず行くともう一度約束した。

「夏、裕司を頼む」と健一は言った。

分かった、と夏は言った。

何でいつも夏に俺を頼むんだよ、と僕は笑って尋ねた。

健一は首を横に振った。

「ありがとう裕司。もう一度俺たちを会わせてくれて、ありがとう」

健一は改札をくぐり、何度か振り返りながら、大阪方面のホームに向かって杖を突いて歩いて行った。僕と夏は、健一の姿が完全に見えなくなるまで手を振った。見えなくなっても、しばらくその場に立ちつくしていた。

やがて夏の手を取って歩き出し、僕たちは車に乗って再び長いドライブを始めた。走るうち、太陽が沈み、夕闇が空を覆い、完全な夜がやってきた。

真中市に向かって走っていた時と同じように、カーステレオからは小さなボリュームで音楽が流れていた。懐かしい古い歌だった。

「裕司、新しい歌が聴きたい」

「どんな歌がいい?」

「新しくて、聴いたことがない歌なら何でもいい」と夏は言った。「教えてくれる?」

分かった、と僕は答えた。

自分の胸の中に響いている音に耳を澄ました。様々な音楽が混ざり合う中、やがて音は一つの楽曲を指し示した。僕はプレイヤーを操作して、再生ボタンを押した。