第二章 夏

当時は、僕たちはあの人たちの奇天烈な差異にばかり目が行っていたが、今考えてみれば、彼らには共通する特徴が幾つもあった。よく歌を歌うこともそうだし、孤独であることもそうだし、規則正しい生活を送っていることもそうだった。何より重要だったのは、彼らは全員必ず、他の人間には感じ取れない独自のものを見聞きすることができたということだ。それこそあの人たちがあの人たちである所以と言っても良い。宇宙人を観たといい、真中市には人知れぬ悪が潜んでいると言う。その過剰に研ぎ澄まされた感覚は、一般社会では幻覚とか神経過敏とか統合失調症と呼ばれるものかもしれない。しかし、少なくとも僕たちは、それを一笑に付すことができなかった。彼らは自分たちが観たものを、隠すことも勿体ぶることもなく率直に僕たちに語った。彼らの真剣さや正直さは、僕たちにその超感覚的存在のリアリティを切実に訴えかけてきた。そのせいで僕たちは、間違っているのが僕たちと彼らのどちらなのかを決めつけることができなかったのだ。何が正しくて、何が間違っているのか。何が現実で、何が幻想なのか。彼らと話をしていると、僕たちにはその境目が分からなくなるのだった。その上僕たちは、四人で作り上げた幻想の中枢たる秘密基地を根城として日々を過ごしていた。僕たち自身が、既に現実と幻想の間を居場所としていたのだから、その差が分からなくなっても当然と言えた。

彼に出会ったのは、小学五年生の年の六月の終わりだった。そのことはよく覚えている。彼と出会ったことによって、僕たちの夏休みの予定が決定し、毎日をその準備に向けて費やすことになったからだ。来る日も来る日も、次の日が訪れるのが遅くて仕方が無い、あのじれったく遅々として進まない時間の感覚を、僕は昨日のことのように思い出せる。

僕たちはその頃、依然として真中市に住むあの人たちを探し続けていた。だが、彼らの中に冒険を見出すことを少しずつ諦めかけてもいた。あの人たちに会うこと自体は冒険だったかもしれないが、彼らと出会っても話しても、そこから次の新しい世界は広がっていかなかったからだ。インディ・ジョーンズがそうであったように、冒険とは一つのきっかけから次の事件へ、事件から更に次の事件へ、ドミノ倒しのように継続し拡大していくものであると僕たちは考えていたのだ。

そうであれば、やはり冒険とは僕たち自身が活動して見出さなくてはならないのかもしれなかった。僕たちは真中市のありとあらゆる場所を自転車で駆け巡った。だが何か物足りなかった。どれだけ走り回っても、僕たちは夕方になればそれぞれの家に帰り、それぞれの家のベッドで眠らなければならなかった。四人とも、そのことに苛立っていた。いつか帰ることになるのは良い、でも今は帰りたくない。太陽が沈んで、真中市が暗闇に包まれると、僕たちは言いようのない焦りに捕われた。ようやく僕たちは、冒険をするということが、より大きな事象、自由になるということの一部であることを薄々理解し始めた。

彼と出会ったのはそんな時だった。僕たちはその日、真中市の西の端に位置する神社に訪れていた。凡庸で退屈な真中市にあって唯一、霊験や文化を感じさせる、須佐之男命を祀ったその場所は、僕たちにとって慣れ親しみすぎ、改めて何かを探索するようなポイントではなかったのだが、僕たちは折に触れてそこを訪ねた。神社そのものには最早用は無い。その神社の入り口の前に、旨いたこ焼き屋があって、その店が僕たち四人の大のお気に入りだったのだ。僕たちはいつも小遣いを持ち寄って、八つ入りのたこ焼きを二つ買い、分け合って食べた。何度食べても飽きなかった。生地は熱くやわらかく、ソースが一面にひたされた上に青のりと鰹節が振り掛けられた、ごくシンプルなたこ焼きだ。だが不思議なことに、僕はこのたこ焼き以上に旨いたこ焼きを、未だに食べたことがないでいる。その店は今もまだ真中市の神社の前にある。今もその味はあの頃とほとんど変わらないように思える。この店のたこ焼きを食べるたびに僕は幸福な気持ちになったものだが、今では食べるたびにあの時の感覚と三人のことを思い出す。

その日も僕たちは神社の境内の前でたこ焼きを食べていた。僕と夏、健一と誠二でそれぞれ一つの皿を持ちあって、にこにこしながら爪楊枝でたこ焼きをつついていた。その時「彼」が僕たちの目の前を横切って行くのに気が付いた。

気が付かざるを得なかった。彼はカーキ色の幅のゆったりとしたツナギに身を包み、首に一眼レフカメラをぶら下げ、重々しいリュックを背負い、境内をいぶかしげに右往左往していた。まるでゲリラ兵士のような衣装といい不穏な挙動といい、人の視線を引きつけてやまないオーラを全身に纏っていた。

僕たちは彼が神社の拝殿の柱の裏や庇の下や、周囲に鬱蒼と茂る木々に向かってカメラのシャッターを切るのを、残りのたこ焼きを食べながら眺めていた。やがて僕たちは互いに顔を見合わせ、指先で前歯にこびりついた青のりを擦り取り、近くの屑かごに発泡スチロールの皿と包装紙を投げ捨てると、彼に近づくことにした。

そして僕たちはいつものセリフを言った。

「おじさん、何をしてるんですか」

彼は振り向いた。そして、茫漠とした表情で僕たちを眺めた。顔じゅうに髭がもじゃもじゃと生え、年齢が良く分からない。二十代にも四十代にも見えた。その眼はガラス玉のように透き通り、見開かれすぎていて、どこに焦点を定めようとしているのかさっぱり分からなかった。彼は俯き、カメラを抱え上げ、僕たちに向かってシャッターを一度切った。

「写真撮ってるんですか」

僕がそう訊くと、彼は頷いた。そしてすぐに首を横に振った。何度も首を横に振り、口を開いたまま、掠れた息を漏らした。その動きを見て僕は確信した。彼はまぎれもなく典型的な「あの人たち」の一人だ。

「何か探してるんですか」

そう訊くと、彼は頷いた。何度も頷いた。

「ご神体を探しているんだ」

彼はそう言った。ごしんたい、というのが一体何のことなのか僕たちには分からなかった。

「ご神体ってなんですか」と誠二が訊いた。

彼は首を傾げた後で、口を開いた。

「神の依り代だ」

「依り代って何ですか」

「神様の身代わりだ」

「身代わりってどんなのですか」

「彼らは神社にいる」と、彼は誠二の質問を無視して言った。「だが、ここにはないらしい」

「どこかにご神体があるんですか」と夏が訊いた。

彼は夏の顔をじっと見返して、おもむろに背中のリュックを足元に下ろした。そしてファスナーを開き、中から大判の地図を取り出して広げた。

「ここだ」

彼が示したのは、埼玉と長野と群馬の県境あたりの山奥だった。

「ここには神社がある。この村には今はもう誰も住んでいない」

彼の言葉は謎めいていた。そして不思議な切迫感があり、聴く者の注意を惹きつけた。しかし、話題が前後に著しく曲折し、飛躍も激しく、その上妙にディテールが細かいので、僕たちは彼の話を辿るのに苦労した。

とても長い物語だったので、細かい言葉は忘れてしまった。しかし後に誠二によって整理されたところ、彼の物語は大体次のような筋書きを描いた。

彼は日本全国を旅する紀行カメラマンだった。若いころから日本中の未踏の秘跡を幾つも辿って回り、雑誌に記事を書いて生計を立てていた。ある時、彼はとある山奥の村を訪れた。寂れた村だった。彼のその時の目的地はその村ではなく、もう一つ山を越えた向こう側にある洞窟だったのだが、既にそこを目指して行軍していくには日が傾き過ぎており、止むを得ずその村で一晩を過ごすことにしたのだった。彼は村人を訪ねて、雑草が生え放題の道を歩いて行った。だが奇妙なことにどこへ行っても誰とも会うことが叶わなかった。ぽつぽつとではあるが確かに人の住む形跡がある家屋があり、畑は耕されて幾つかの作物が実りかけており、いくら寂れてはいても廃村とは思えなかった。どのみち一宿一飯に与ることなど期待してはおらず、野宿で済ませる覚悟はできていたのだが、彼の習慣として、訪れた村の者には必ず挨拶をすることにしていたのだった。そうすることで万一の無用なトラブルを避けることができる。だが誰もいないのでは止むを得なかった。更にしばらく歩いてゆくと、小さな丘の上に古ぼけた神社を見つけた。埃は積もり放題で、駒犬の牙は折れていた。彼はそこを一夜の宿とすることに決めた。賽銭箱に小銭を投げ入れて二礼二拍一礼すると、背負ったリュックを神社の母屋の軒先に下ろし、外陣への戸を引いた。戸は、鍵もなくすんなりと開いた。中は板敷きの間が広がるだけで何も無く、ただ埃の黴くさい臭いだけが立ちこめていた。軽食を摂った後、彼は閉ざされた内陣の扉を試しに開けてみた。その狭い空間には、ぽつんと、小さな台座に載せられた扇形の金属片があり、彼はすぐに扉を閉じた。直感的に、それがこの粗末な神社にとって神聖なものであることが見て取れたからだ。閉じた扉に向かって恭しく頭を下げると、さっそく寝支度に入った。

そこで彼は夢を見た。奇妙な夢だった。彼は寝袋に包まれて眠っているのだが、眠っている自分を少しだけ上空から見下ろしていた。瞼を閉じ、穏やかに眠っている自分自身を見下ろすというのは奇妙な心地のするものだった。そしてそれは全く動きの無い夢だった。眠っている自分は、ぴくりとも動かない。自分をひたすら上から見下ろし続けている自分も、全く動かない。動こうとして動けないのか、初めから動くつもりが無いのかは彼自身にも分からなかった。ただ彼は、これは夢なんだと考えているだけだった。じっと自分自身を見下ろしていると、次第に視界が暗闇に包まれていった。もとより神社の中は微かな戸の隙間から月明かりが差し込むだけの、ほぼ完全な暗黒だったが、それさえも消えて行った。

だが奇妙なのは、暗闇は、周囲からではなく見下ろしている彼自身の体から広がっていくように見えることだった。すでに自分の顔は全く見えず、寝袋も暗闇に溶けてほとんど輪郭が見えない。闇の真中に闇よりも更に黒い霧が立ち込めているようで、周囲の空気はそこに向かって吸い込まれていく。彼は微かな動悸を身の内に感じた。いつの間にか、さっきまでそこで眠っていた自分が、既にそこにいないのではと彼は感じた。ここは一体どこだろうかと彼は考えた。ここは本当に神社の中なのだろうか。彼は周囲を見回そうとした。だがどうしても首が動かない。これは夢だと彼は考えた。目を覚まさなくてはならない、一刻も早く。

そして彼は眼を覚ました。全身に夥しい汗をかいていて、吐く息は荒かった。彼は身を起こし、自分の体を見下ろした。そして気が付いた。寝袋が引き裂かれ、辺りに生地や中身の綿が散乱している。胸元を見ると、シャツも真っ二つに裂けている。両手の指に、鈍痛がある。自分で引き裂いたのだ、そう気が付くと、突然全身が震え、叫びながら立ち上がった。反射的な行動だった。目の前に誰かがいる。彼は後ずさり、目の前の暗闇に眼を凝らした。姿は見えない。だが、まぎれもない何者かの存在をそこに感じた。

誰かそこにいるのか、と彼は問いかけたが、反応は無い。動く気配もない。彼はじりじりと後ずさり、壁に背を付け、暗闇の向こうを睨み続けた。村の者の誰かだろうか、と彼は考えた。だがそうは思えなかった。誰か、という問い自体が不適当なものに感じられた。彼が直感的に得た回答はこう告げていた、今自分の眼と鼻の先にいるのは人間ではない。彼は深呼吸して気を落ち着かせ、暗闇に向かって自分の名を名乗り、語りかけた。「私はカメラマンで、目的地に行く途中でここを宿として借りさせてもらいました」。

 

彼の話は、ここで唐突に途切れた。僕たち四人は彼の顔を覗き込んで話の続きを待ったが、彼は言葉を継ぐことができない。かくかくと口を開閉し、頭をかきむしりながら、次にどうにか彼が発した言葉は、今でもはっきりと覚えている。

 

「その時、自分が、全く別の人間に変わったことに気が付いた」

 

彼はそう言った。僕たち四人は顔を見合わせた。

目が覚めた時、彼は髪の先端からつま先までの全身、全く別の人間に変身してしまったのだと言う。自分の声が、それまでの自分のものではないと分かった時、全身の全てのパーツも別のものに取り換えられてしまったことにも気が付いた。腕も、脚も、胴も、まるで身に覚えのない感触がした。彼は暗闇の中で自分の顔をかきむしった。今すぐ光の下で鏡を見たくてたまらなかった。

そう、鏡だ。眠る前に見た内陣に置いてあったのは、きっと鏡だった。彼は立ち上がった。だが、右足が上手く支えられない。神経が麻痺して、そこに何の感覚もない。鏡を見るため、そして何だか分からない何者かの気配から逃れるため、彼は右足を引きずりながら、内陣への扉を開けた。

だが、そこにあったのは祭壇でも鏡でもなかった。目の前に広がるのは、建物の外、薄い星明かりと宵闇に包まれた竹林だった。そんなはずはない、と彼は思った。確かに数時間前にこの戸を開いた時は、目の前に小さな祭壇があった。それに、神社の周囲には雑草が生い茂っていただけで、こんな竹林はどこにもなかった。

彼は何度も、竹林と、さっきまで自分が眠っていた板の間を交互に振り返りながら、ここから一刻も早く出て行かなくてはならないと考えた。荷物を抱え、右足を引きずりながら、彼は神社を出た。

そして建物を振り返ると、それは彼の記憶にあった姿と全く変わってしまっていた。神社ですらなく、ただの古ぼけたあばら家だった。賽銭箱も注連縄もなく、細く小さなひびだらけの参道も、歯の欠けた狛犬も、どこにもない。丘の上でもない。ただ竹林が辺りに広がっているだけだった。

彼はほとんど発狂しながら林をかき分けて逃げ出した。どこへ行ったらいいのか、何から逃げだせばいいのか全く分からなかったが、とにかくその場所から直ちにできるだけ遠ざかりたかった。右足を引きずって何時間か歩き続け、彼はとある県道に出た。通りかかった車を必死の形相で停め、彼は、ここはどこかと尋ねた。

運転手は、ここは岡山県岡山市の外れだと答えた。

彼は首を横に振った。それは彼がさっきまでいたはずの場所から何百キロも隔たった地点だった。そして彼は街に出て、その他のことを知った。自分の顔がやはり本当に全く見知らぬ他人に変わってしまっていること、そして、彼が東京の自宅を出てから三年の時が経っているということを。

彼は完全に混乱しつくした頭を抱えて、東京に戻った。だが、そこでは更なる不幸が彼を待っていた。彼が積み上げてきた一切の物理的および社会的な財産が、既に失われていたのだ。何しろ彼が東京を発ってから三年が過ぎており、体の全てが別人に変わってしまったため、家族も職場も友人も、誰ひとりとして彼が以前の彼から変身した姿であることを受け入れられなかったのだった。それに彼は、あの夜以来、言葉を整然と紡ぐことがほとんどできなくなってしまっていた。たどたどしく、吃音に詰まりながら喋ることしかできず、それは以前の理知的な彼とは全く別人の話し方だった。

何日間か絶望に暮れた後、彼は自分が巻き込まれた出鱈目な災難の原因を探し始めた。図書館に通いつめて、古い伝承や伝説や民話や呪いといった事柄について書かれた書物を手当たり次第読み漁った。医学書の類に答えが無いことを彼は直感的に知っていた。そして彼は一冊の本に辿り着いた。そこにはこう書かれていた。

「日本が誕生した時、その地に住む民へ天照大神から三種の神器が授けられた。一つは天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)、一つは八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)そしてもう一つは八咫鏡(やたのかがみ)である。それらを揃えしものは日本の王となる。しかし、歴史の中で生まれた数々の三種の神器をめぐる争いによって、あるものは海中に没し、あるものは燃え尽き、あるものは盗まれたという。三種の神器の正確な行方は誰も知らず、保証することができないというのが歴史上の定説である。

しかしより正確な事実はこうである。元歴二年(西暦一一八五年)、平家が壇ノ浦に逃れ、そこでの合戦に敗れた際、持ち出した真なる三種の神器はその場で砕かれ、いつの日か平家の再興することを祈念する落人たちによって全国に散らばったのだ。日本全国の津々浦々には神社が建っているが、全ての神社にはご神体が祀られている。ご神体とはなにか。神社によって何をご神体と為すかはそれぞれ異なるが、いずれにせよそれはすなわち八百万の神々がこの世に現れるときに依代とする何かである。そして、そのうちの幾つかは、歴史の中で砕け散った三種の神器の欠片である」

そして彼は、八咫鏡について書かれた次の言説を読んで、答えを知った。

「八咫鏡は天照大神を天の岩戸から呼び出した神器であるが、そこには重大な霊力が宿っていた。

それは、真実を映し出す力である。

この鏡に姿を映したものは、その心の示す真実の姿に顕現する。心の清いものが映せば美しき姿に変じ、心の醜いものが映せば醜悪な容姿に変じる。

だが完璧な鏡は最早この世には無い。鏡の欠片があるのみであり、それをどれだけ集めたところで完全になりはしない。したがって、その欠片にはもともとの力は既に失われており、清濁全てを併せ持った鏡であったものが、今や祝福された破片と呪われた破片に分断されてしまっている。

呪われた破片に姿を映したものは、その心の如何に因らず呪われる。その呪いを解くには祝福された破片を探し出すしかない」

つまり、彼は知らず知らずのうちに鏡の「呪われた破片」に身をさらしたためにこの災難に遭ったのだ。謎は解けた。では後は、「祝福された破片」を探すだけである。

そして彼の旅が始まった。日本全国の鏡をめぐる旅だ。彼は鹿児島の最南端からこの旅を始め、長い時間をかけて各地の神社をしらみつぶしに回った。彼に残されたいくばくかの金銭の蓄えはすぐに尽き、コンビニエンスストアの残飯や畑の作物を漁って食いつなぐ浮浪生活となった。しかし、祝福された鏡の破片は見つからなかった。鏡をご神体として祀る神社はいくつかあった。だがそれに身をさらしても、彼の体に何の変化も現れることは無かった。彼の予測では、こういうことだった。三種の神器がこの世にもたらされ、砕かれてから長い時を経た今、既に鏡の持つ霊力は限りなく失われている。呪いも祝福も、もはや限られた欠片にしか残されてはいない。

そして今この街までやってきた。

「祝福された破片があるのは、おそらくここだ。人が踏み入らないような山奥だが、確かに、地図によればここには神社がある」

彼はそう言って地図を僕たち四人に示した。彼が示したのは、真中市からずっと北西に位置する、僕たちの県の外れだった。

「ここが日本のほぼ真ん中だからだ」

そして彼は地図に赤ペンで印を付けた二点を指さしながら話した。

「私が最初に呪われた神社がここ、そして送り飛ばされたのが岡山県のここ。二つを線で結ぶと、このあたりがほぼ真ん中に位置する。今いるこの神社も候補だったが、違うようだ。

古来から、聖なるものを守護するため、都を中心とした東西南北の四方に守護神を配した防衛陣が張られてきた。私が接触したのはその東西の要害だが、おそらくは、南北にも同じ呪われた破片が存在するに違いない。

私は今からこの真ん中に行く。他の神社も辿りながら。この足だから時間はかかるだろうけど、もう少しだ」

彼は、よっこらせ、と呟いて、屈んでいた体を立て直し、僕らに背を向けて歩き出した。

僕たちは呆然とその後ろ姿を見送った。

僕はその彼の背中をじっと見つめているだけだった。彼の話のどこまでが本当で、どこからが嘘なのか、全部本当なのか、全部嘘なのか、僕にはその境目が全く分からなかった。話が長すぎて展開も出鱈目であったため、ストーリーの理解もその瞬間にはできなかった。だが、彼の姿が見えなくなりかける時、唐突に頭の中に一つの疑問が浮かんだ。その疑問は瞬く間に僕の体中を埋め尽くし、興奮剤のように血中を駆け巡り、気が付いた時には僕は彼を追って走り出していた。

彼にはすぐに追いついた。待って、と声をかけると、彼は立ち止まって振り向いた。僕は彼に尋ねた。

「呪われてない人が祝福された鏡を見たらどうなるんですか?」

「もちろん、祝福されるだろう」

彼はそう答えた。だが僕は、肝心なことを知らなかった。

「しゅくふく、ってどういう意味ですか」

「幸せになるということだ。この世の誰よりも」

そう言うと、彼はまた歩き出し、今後こそ本当に立ち去った。

いつの間にか、健一も誠二も夏も僕の隣まで駆けてきていた。健一が僕に、あのおっさんなんて言った? と尋ねた。

「鏡を見つけたら幸せになるって」

僕はそう答えた時には、何が何でもその鏡を見つけ出すことを心に誓っていた。今になっても、この時自分がそう誓った気持ちはよく覚えているし、理解することができる。僕は彼の話が本当かどうかは分からなかった。だが僕たちにそれを確かめる手段があるということが重要だった。これまで僕たちは多くの人の話に耳を傾けてきた。しかしその話はどれも並外れて荒唐無稽だったり、どうあがいても検証が出来ない物だったり、さもなくばすでに解決しているものばかりだった。でも今は、もしかしたら出鱈目なのは同じでも、彼が言う、僕たちからほんの少しだけ隔たったその場所に、自分たちで行けば確認できるのだ。それが僕たちに示されたのは初めてだった。そして、もっと自分に正直に言うならば、僕は話が本当かどうかなどどうでもよかった。そんなことよりもはるかに重要だったのは、僕はそれまでこんないかがわしい話は聞いたことが無かったということだった。だから僕は三人の仲間に言った。

「この話は、絶対に誰にも言ったら駄目だ。僕たちだけの秘密だ」

 

 

 

僕たちは旅の支度を完全に整えて、その小学五年生の夏休みを迎えた。真中市から神社で出会った男が指し示した場所まで、数十キロの隔たりがある。おそらく朝から自転車をこぎ続ければ一日で辿り着くが、その日の内に戻ってくることはできないだろう。僕たちはきっと、目的地の近くで野宿をしなければならなかったし、それに、辿り着いた場所でどんな困難が待ち受けているか分からない。同じ宝を狙う悪党に出くわすなどとは考えてはいなかったが、万が一出会った凶暴な猪だの野良犬だのを撃退するくらいの装備は用意しておきたかったし、洞窟や明かりの無い建物の中などの暗闇を探索しなくてはならなくなるかもしれない。

両親たちには、去年の夏、誠二の父に連れられて行った近所のキャンプ場に行くと嘘をついた。いつも大量の子供と大人で繁盛しているキャンプ場だったから、それで親たちは安心し納得した。僕たちは、寝袋を自転車の後輪にくくりつけ、タオルと替えの下着と水筒を共通でそれぞれのリュックに詰め込んだ後は、思い思いのアイテムを携えた。誰のリュックもはち切れそうなほど一杯になって、ほんの僅かな隙間もなかった。

午前六時半、夏休みの朝は、小学校でのラジオ体操から始まる。それは夏休みの宿題の一環として僕らに課せられたノルマで、特に歓迎すべき慣例ではないが、四人が集まるのには好都合だった。僕たちは四人並んで文字通り準備体操としてそれを終えた後、校門の前に停めた自転車に乗って、そのまま旅に出た。

夏休み初日の、よく晴れた、暑い日だった。僕たちが自転車を漕ぎ始めた時、既に太陽の熱は周囲を少しずつ確実に覆い始めていた。僕たちは四人とも野球帽を被り、Tシャツにジーンズ姿だった。四人とも良く陽に焼けていたから、僕たちはその頃はまるで全員が兄弟のように見えた。

県道を軽快な速度で走りぬけて行くと、10分もしないうちに真中市を出て隣りの市に差し掛かる。風景は何も変わらない。ガソリンスタンドや本屋、喫茶店、そして延々と続く緑に輝いた水田だ。アスファルトに太陽の光がさんさんと照り返す中を、健一、誠二、僕、夏の順番で一列に並んで走った。先頭の健一が最も運動能力に優れていて、誠二の自転車が最も高性能で、その次がとくに特徴の無い僕、そして少し大人しい夏が最後をついてくる。いつもの僕たちの順序だった。僕は何度も後ろを振り返り、夏がついてくるのを確認した。健一も誠二も、待ちに待った冒険に精神が高ぶっていて、自転車を漕ぐペースがいつもよりも速かった。もちろん僕もそうだったのだが、意識してそれを抑えていた。夏は僕が振り返るたびに僕に片手を振って応えた。僕たちは予め、一時間に一度休憩を取ることに決めていたが、実際に走り始めると、気温が少しでも低いうちに距離を稼ごうと言う誠二の提案に同意して、最初の休憩は二時間後に取ることにした。

太陽が半分以上昇り、空が完全に真夏の大気に覆われた頃、眼に映る景色と、肌を撫でる空気が変わり始めた。山が目の前に近づき、緑の密度が増し、車の音が少しずつ遠ざかり、代わりに蝉の鳴き声が大きくなり出した。僕たちは車道にはみ出して、四人並んで自転車を走らせた。川の流れる音が聞こえる。5センチ先も見通せない濁った日光川とは違う、手にとって飲み干すことのできる水が流れている本物の川だ。僕は額から少しずつ滴る汗をぬぐって、辺りを見回した。ありとあらゆる緑に太陽の光が反射して、じっと見つめていられないほど何もかも光り輝いていた。二回目の休憩を、僕たちは小さな橋の下の河原で取ることにした。父親から借りた防水のデジタル腕時計を見ると、十一時半だった。一時間休憩しよう、と誠二が地図を開きながら言った。「凄くいいペースだ。もう俺たち隣りの県まで来てる。このまま行ったらあと一時間くらいで目的地に着くよ」

そして僕たちはピクニックシートの上に足を投げ出して弁当を食べた。四人それぞれ親に用意してもらった弁当を囲み、一品ずつメニューを交換した。卵焼きや唐揚げやナポリタンスパゲティをあっという間に食べつくしてしまうと、僕は水筒の麦茶をぐびぐび飲んで、大の字に寝転がった。鳥の鳴く声が聞こえる。たぶんヒバリだ。僕は空中でヒバリのオスとメスがもつれるように求愛しあうのをじっと見上げていた。その影は舞い上がったまま永久に降りてこない竹トンボのように見えた。

既に3時間半以上自転車を漕いできたというのに、僕は自分の体にほとんど疲れを感じなかった。このまま一日中走り続けられるような気がした。健一も誠二も、同じようにエネルギーに満ちあふれていた。僕は夏の横顔を見た。夏は僕たちと話しながら笑ってはいたが、少し俯いていた。健一たちが夏の様子に気が付いているかどうか分からなかったが、迷った後で、僕も気が付かない振りをした。

僕たちは休憩を終え、再び走り始めた。そこからの道は、さっきまでの穏やかで平板な田舎道とは違い、うねうね曲がりくねった勾配のきつい坂道だった。横っ腹がきりきりと痛み、汗がシャツを濡らした。一応アスファルトで舗装されてはいるが、長いこと整備されていないようで、タイヤの跡が轍となって刻まれたでこぼこの道だった。車は全く通る気配が無い。木々の美しい緑の隙間から太陽の光が射し、振り返ると眼下に広大な田園風景が見渡せたが、僕たちにはそれを味わう余裕は全くなかった。そして、誠二の予測は初めて外れた。僕たちは一時間経っても目的地に辿り着くことはできず、変わり映えのしない木々の緑の傘の中を走り続けていた。

ある時ふと気が付いて、僕は後ろを振り返った。そこに夏がいなかった。僕は前を行く二人に声をかけた、「夏がついて来てない」

二人はブレーキをかけてその場に立ち止まり、僕に振り向いた。僕は二人に手を振って、そこで待っていてくれと言った、「僕が迎えに行く」

踵を返して200メートルくらい坂を下っていくと、夏がいた。リュックを足元に下ろし、ハンドルを握ったまま俯いて、肩で息をしている。僕は夏の隣に自転車を停めて、肩に触れた。

「もう走れない」と夏は言った。

僕は頷いて言った、「ゆっくり行けばいいよ」

夏は首を横に振った、「もう走れない」

僕は背負ったリュックを下ろし、中から水筒を取り出した。麦茶を注いで渡すと、夏はぐびぐびと飲み干して僕に器を返した。

健一と誠二も坂を降りてきた。やってきた二人に僕は、休憩しよう、と言った。そう言う僕の息も上がっていた。さっきまで体力に満ちあふれていたのに、足が震えていて、どこでもいいからどこかに座り込みたかった。

僕たちは木陰まで歩いて行き、開いた地図を囲んで座り込んだ。誠二は自分の持ってきたタオルに冷たいお茶を注ぎ、夏の頭に巻きつけた。夏は僕の膝の上に頭を置いて寝転がった。僕が健一と誠二の顔を見ると、二人とも何かを考え込むような表情になっていた。僕は小さなため息をついた。僕たちは失敗した。オーバーペースだったのだ。健一と誠二の顔にもどっと疲れが押し寄せているのが僕には分かった。

「今俺たちどこにいる?」

健一が誠二にそう訊いた。誠二は地図を鉛筆で指し、道をたどった。

「このあたりだろう」

誠二が示したのは、小さく骸骨マークを刻んだ目的地から2、3キロと離れていない地点だった。

「本当にそうかな?」

健一が訊くと、誠二は怒ったふうでもなく、「多分あってると思うけど、分からない」と答えた。「でもここからはもっと道がきつくなると思う。自転車では行けないかもしれない」

「裕司はどう思う?」

健一が僕にそう訊いた。僕は自分の膝の上で眼を閉じている夏を見下ろしながら、少し考えた。そして健一と誠二の顔を見て、首を横に振った。

「夏は動けないよ。俺は夏と一緒にいる」

「ずっとここでこうしてるのか?」

誠二がそう応えた。僕はまた首を横に振った。

「とりあえずしばらく休憩しよう」

二人は止むを得ないといったふうに頷いた。まだ太陽は充分に高い位置にある。誠二が言った、目的地までの距離が正しい予測ならば、一時間休憩したとしても太陽が沈むまでには余裕を持って辿り着けるだろう。

健一は立ち上がって屈伸したりアキレス腱を伸ばしたり、誠二は地図とコンパスを交互に見たり本を読んだりして時間を潰し始めた。僕は夏の顔を野球帽でぱたぱたと扇いだ。夏は眼を閉じて、深い息を何度もついた。顔色が白かった。僕は夏の額に載った濡れタオルを裏返してまた載せた。

「裕司」

夏が僕を呼んだ。どうした、と僕が訊くと、夏はゆっくりと体を起こした。

「もう行こう。もう大丈夫だから」

僕は腕時計を見た。休憩し始めてから、まだ15分くらいしか経っていない。

「まだ休んでろよ。急ぐことない」

「ううん、もう大丈夫だ」と夏は言って、立ちあがった。そして健一と誠二に向かって、お待たせ、行こう、と言った。

大丈夫かよ、と言う健一に、夏は頷いて見せた。

誠二は夏の顔を覗き込んで、顎に指を当てながら言った。

「行こう。でもここからは歩きにする。自転車には鍵を掛けていく。夏の荷物は、三人で分担して持とう」

僕と健一は頷いた。僕が夏のリュックを肩に背負い、健一が寝袋と洗面道具を抱え、誠二が水筒やその他の小物を担いだ。曲がりくねった坂道を登り始めると、肩と足に荷物の重みがきりきり食い込んだ。だが夏が心配そうな顔をしていたから、僕は平気な振りをした。大した重さじゃない。倒れた夏を背負っていくよりよっぽど楽だ。

10分も歩かないうちに、坂道の途中、舗装された道の脇から逸れていく隘路があった。木々の傘の密度が周囲よりもずっと濃い、緑のトンネルのような道だ。その入り口に風雨に痛めつけられてぼろぼろになった小さな看板が立っていた。文字はかすれていてほとんど読めない。矢印と、「2KM」の表示だけが判読できた。

僕たちは、その「2キロ」が僕たちの目的地までの距離と意味を同じくすることを願って歩き出した。急勾配の坂道をじゃりじゃりと音を立てながらいつもの四人の順番で進んでいく。途中で急激に道が細くなり、頭上に掛かる緑の傘も一段と濃くなった。気を張っていないとすぐに疲れが全身の筋肉を緩めようとしていたので、僕は呼吸を一定にして、目の前を歩く誠二の背中と足元とを交互に見つめて歩いた。そうして歩いていると、辺りから光が遠ざかるとともに時間の感覚が消えてしまった。肩に食い込んだ荷物の重みが、足を小人が踏みつけてくるような負荷となった。蝉の鳴き声が、狂気じみているほどやかましい。あまりにも鳴き声が重なりすぎてただの破壊音にしか聞こえない。同調回路とボリューム調節機能が同時に壊れてしまったラジオのように、延々と一定の雑音が響き続ける。こんな状況でどうやってメスの蝉は一匹のオスを選ぶのか、僕にはどうしてもその方法が分からなかった。

いつの間にか、夏が僕のすぐ隣に立って、並んで歩き始めていた。夏は僕の顔を見て何か言ったが、蝉の鳴き声がうるさすぎて何も聞こえない。僕は首を横に振った。夏が僕の耳元に口を近づけて、荷物持つよ、と言うのがかろうじて聞こえた。僕はまた首を横に振った。僕は顎から滴り落ちる汗を手の甲で拭って、逆に夏に向かって、大丈夫か、と訊いた。蝉の大合唱の中で僕の声が届いたとは思えなかったので、唇の動きを読んだのだろう、夏は、大丈夫、と応えた。僕も夏の声が聞こえたのではなく、そう唇を読んだ。

自分の左右のスニーカーが一歩一歩踏み出されていくのをじっと見つめながら歩いていると、じゃりじゃり言う足音がよみがえっていることに気がついた。永久に続くかと思えた蝉の声が少しずつ弱まり、さっきまでの轟音が嘘のような静けさが辺りを覆い始めている。やがて、自分たちの足音以外には、木々の葉をゆっくりと揺する風の音しか聞こえなくなった。僕が顔を上げると、健一と誠二の背中は数十メートル向こうに見えた。

「裕司、引き返そうよ」

夏がそう言った。僕は歩きながら夏の方に振り向いた。夏は僕をまっすぐ見つめていて、引き返そうよ、ともう一度言った。

疲れたのか、と僕が訊くと、夏は首を横に振った。

「もう疲れてない」

「じゃあなんで引き返すんだよ。もうすぐだ」

「もうすぐだからだよ」

「宝を見たくないのか?」

「別の人間になんかなりたくない」

そう言った夏の表情は歪んでいた。僕は夏のそういう顔を見るのは初めてだった。恐怖とか畏怖とかの色に塗られていたのではない。あえて感情をその眼に名付けるとしたら、悲しみ、というのが一番近かった。

「別の人間になんかなりたくないよ。裕司にも健一にも誠二にも、別の人間になって欲しくない」

「別の人間になるってどういうことだよ。あるのは幸せになる鏡だろ」

「確かめてもいないのに、どうしてそんなの分かるんだよ。あのおじさんみたいに、別の人間に変わっちゃうかもしれない悪い鏡だったらどうするんだよ」

僕は夏の眼を見返したが、何と言ったらよいのか分からなかった。それでも僕は何か言い返そうとしたが、夏の目を見つめているうちに諦めて口をつぐんだ。夏の眼の奥にある感情は深く激しいもので、それに対抗する感情と言葉を自分が持っていないことに、僕は直感的に気がついた。相手の感情は重く、自分の感情は軽い。こんな時は何を言っても嘘にしかならない。そして僕たちの差は、信じるか信じないかの差だった。夏は信じていて、僕は信じてはいなかった。

恐れていたことが起きた、と僕は思った。

そう、「本当かどうか確かには分からない」といった曖昧さではなく、自分の心底を探れば、僕はもう完全に信じていなかった。火星人や超能力者やサンタクロースやドラえもんを信じないように、あの日真中市の神社で会った男の話を、僕は結局は信じてはいなかった。落ち着いて考えればそんな魔法のような鏡がこの科学文明の発達しきった日本に存在するわけがない。彼はただの頭のおかしい男で、真中市に住む他のあの人たちと同じく、自分の人生にたまたま振りかかった偶然とか不幸とかの責任を、自分の能力を超える架空の存在をでっち上げてなすりつけたのに過ぎない。僕はそのことをこの旅に出る前には理解していた。

でも僕は夏にそう答えることはできなかった。全ては嘘なんだから不幸なことなど何一つ起こらない、と。

嘘だと分かっていても、僕が彼に精神を揺さ振られたのは本当だったからだ。彼の話が事実だったからそうなったのではない。僕が彼に揺り動かされたのは、あの時物語が、特定の言葉とリズムによって語られた時にだけ持つ魔力、感情をドライブさせるもの、是も非もないその場限りの圧倒的なリアリティとなって僕に訴えかけたからだ。だからこそこの物語の終わりが嘘でも構わないと思ったし、僕たち四人だけでこの物語を独占したかったのだ。そういう意味ではこの物語は僕にとっても「本当」だった。そうした限りなく嘘に近い「本当」が、嘘を超えて実際に何らかの形をとり、僕たちにとって冒険となる何かを与えてくれるかもしれないという望みだけは、僕ははっきりと持っていた。

僕はもちろんこの時こんな風な自分の感情とか考えを、論理的に整理して夏に話すことはできなかった。僕はむしろ自分の中でも嘘と本当がぐちゃぐちゃに混ざり合って、自分が何を考えているのか分からなくなって混乱していた。だがもし冷静に整理できたとしても、どうやってもシンプルな回答にはならない以上、夏を納得させることは出来なかっただろう。その出来事が日常であろうが非日常であろうが、信じる者と信じない者とがぶつかった時、その瞬間においては勝利するのは決まって信じる者の方、単純な者の方だ。信じる者はただ一つの門をぶち破ればよく、信じない者は周囲の堀の全方位を深く掘らなくてはならない。

したがって、僕は事の真偽をこの場で明確にすることを避ける道を選んだ。

「神社の前に行くだけでもいいだろ。せっかくここまで来たんだから。俺たちが安全を確かめる。夏は中に入らなくたっていいよ」

僕はそう言った。計画を練り、周到な準備をし、苦労をしてここまで来た。それは僕も夏も同じだ。僕は夏に、このミッションを完遂するために払われた労力を無にすることの無念さを訴えることにしたのだ。そして僕が意図したとおり、夏は困ったような表情になった。

夏は曖昧に頷いた。

「神社が本当にあったとしても、中には入らない」

それでいい、と僕は言った。「健一にも誠二にも今のことは言わないでおく」

夏はもう一度頷いた。僕たちは健一と誠二に追いつくべく歩調を早めた。

二人は少し先で足を止め、僕たちを待っていた。そこで森が途切れ、視界が開けた。久しぶりに太陽の日差しが照りつけ、生い茂る緑と流れる川が見下ろせた。坂道も終わり、点々と雑草が生えてはいるが、均された土の道が前方に伸びている。

健一が前方を指さして、神社だ、と言った。斜めに傾き、茶色く、塗料が薄れて剥げかけた小さな鳥居が、道の向こうに立っていた。

辺りに人家の気配はない。電気や水道といった文明の気配もない。耳を撫でる風の音が、ここがどこからも切り離された場所であることを教えていた。

僕たちは軽くうなずき合って歩き出した。夏は僕の後ろに立ってシャツの袖をつまんできた。僕は振り返って、大丈夫だ、という目で夏を見つめた。どう考えても何も起こるわけがないのだから、恐れる物など何もない。

ぼろぼろの注連縄が結われた鳥居をくぐると、ほんの十数メートルの参道の向こう、そこにあったのは僕がかつて見たこともない小さな神社だった。神社と言うよりは、ただの小屋だ。確かに扉の上には小さな注連縄が掲げられており、屋根は木組みの切妻形で神社の体裁はかろうじて整えられていたが、僕の家よりも遥かに小さい。そして少なくとも第二次世界大戦が終わってからは一度も掃除されていないと思われるほど汚れている。建てつけの悪そうな木製の扉の前に、たった二段の階段がある。屋根は瓦が敷かれていたが、周囲の壁はトタンで覆われている。これに最も近い造形の建造物として、僕は小学校のグラウンドの隅にある倉庫を連想した。中には陸上用のハードルや石灰の白線引きやサッカーボールなどが所狭しと詰め込まれている。

「本当にここか?」と健一が独り言のように言った。

「地図通りのはずだ。それに、こんな山奥に他に神社なんか無いよ」と誠二が答えた。

僕たち四人はまた顔を見合わせた。それ以上どんなコメントをしたらよいのか、誰にも分からなかった。僕たちは呆然と、どす黒くぼろぼろに朽ち果てたその小屋の扉の前で立ち尽くした。

だが眺めていても仕方が無い。

入ろう、と僕が言った。そして振り返って続けた、「夏は辺りを見張っててくれ」。

夏は頷いた。そして数歩後ずさり、周囲を見回る振りをして小屋から眼をそむけた。

入り口は、外から見た限りでは錠前もなく、鍵は掛かっていないように思われた。僕たち三人は背負った荷物を地面に下ろしてから、じりじりと扉に近づいた。

健一はリュックサックに突っ込んでいた金属バットを引きぬいて右手で握りしめた。誠二は軍手をポケットから取り出して両手にはめ、戸に手を掛けた。僕が反対側の戸に手を掛け、三人で目配せして頷くと、僕は勢いよく戸を横に引いた。

すんなりとは開かなかった。だが、それは鍵が掛かっていたからではなく、見栄え通りの建てつけの悪さが原因だった。がたがたと音を立てて僕と誠二が戸を開けると、健一が中に駆け込んだ。

「なんだこれ」

間延びした健一の声が中から聞こえた。誠二が、どうした、と言ってそれに続いて中に入って行った。誠二も、なんだこれ、と健一と全く同じ調子で言った。僕は扉の陰から小屋の中を覗き込んだ。

何より先に、古ぼけた木の臭いが鼻をついた。鼻を擦りながら小屋の中を見渡すと、そこには、何も無かった。

何も無い。ただ、五、六メートル四方の板の間と壁が広がっているだけだ。ちょうど僕たちの秘密基地と同じように。ただ大きさが数倍になっただけで、ぼろぼろ具合もそっくりだった。ただ一つ違うのは、屋根の作りだけはこちらの方がずっとしっかりしていたことだった。太い梁が交差した木組が剥き出しになった、昔ながらの日本家屋の建築様式である。

見上げていた顔を下ろすと、健一は部屋の片隅を指さしていた。そこはちょうど誠二が陰になって僕には見えなかった場所だった。ぎしぎしいう床を恐る恐る踏みしめて、見える位置に移動すると、そこで初めて僕も、なんだこれ、と言った。

そこにあったのは誰かの荷物だった。リュックと、飯盒と、寝袋と、スコップ。なんだこれ、と疑問を呈してわざわざ正体を探らなくてはならないようなものではない。僕たちが期待していたものと余りにもかけ離れていたから思わずそう声に出ただけだ。どこからどう見てもそれはただの正統派のキャンプ用品だった。数百年前や数千年前から伝わるご神体どころか、せいぜい数年前にどこかの店で買ったものに違いなかった。あのリュックの中に、既に回収された「祝福された鏡」が入っているのでない限り。

健一はどうだか分からなかったが、少なくとも誠二はこうなることを予測していただろう。宝などなく、何も起こらないと。彼の横顔をみると、失望も怒りもなく、無表情だった。

「どうする裕司?」と誠二が部屋の隅に置かれた荷物を指さして僕に訊いた。

誠二が何を言いたいのか、僕には分かった。誠二は、リュックの中身を確かめるのかどうか、と僕に相談しているのだ。

今のところはっきりしている結論は一つしかない。ここには僕たちの前に誰かが先に訪れている。この荷物を捨てていったのでない限り、その誰かはいずれここに戻ってくる。

僕は首を横に振った。誰かが戻ってくるはずだからそれを待とう、と僕は言おうとしたが、その言葉は外から駆け込んできた夏の声で遮られた。

「誰か来る」

夏の声は震えていた。僕は夏の手を引っ張って、小屋の内側の扉の影、僕の背後に身を隠させた。僕は引き戸の裏側から外を覗き込んだ。健一も誠二も同じように、もう一方の戸の影から顔だけ出して外を覗いた。朽ち果てた鳥居の数十メートル向こう、確かに、誰かがゆっくりとこちらに歩いてくるのが見えた。次第にその誰かの輪郭がはっきりすると、僕はその姿をかつて見たことがあるのに気がついた。僕だけでなく、ここにいる全員が会っている。それは部屋の隅に置かれた荷物に気がついた時から、直感的に、そして消去法的に思い当たっていた人物だった。

近づいてくるのは、僕たちに鏡の伝説のことを、そしてこの場所のことを教えた、あの中年の男だった。あの時と同じカーキ色のツナギに身を包み、首から一眼レフカメラを提げている。彼は俯きながら、左の肩に水のなみなみ入ったポリタンクを重そうにぶら下げ、ゆっくりとこちらに向かって歩いてきた。

僕たちは神社から外に出て、彼のもとへ駆け寄った。こんちは、と健一が声を掛けると、彼は顔を上げたが、首をかしげた。僕たちのことが思い出せないようだった。

「あのとき神社で鏡の話を聞かせてもらった四人です」

誠二がそう言うと、男は口をぽかんと開いて、ああ、あああ、と何度か頷いた。

「ここで。何を、してるの」と男は尋ねた。

僕らも鏡を探しに来たんです、僕はそう言いながら男から水の入った袋を受け取り、神社に向かって並んでゆっくり歩き出した。

「それは、おつかれさん。暑かっただろう」

「ここが、日本の真ん中の神社なんですか?」

「そうだ」

「鏡はあったんですか?」

男は僕に答えずに、足を引きずってのそのそ歩き続けた。本殿の2段しかない階段を30秒掛けて乗り越え、部屋の隅に置かれたリュックに腰掛けるようにどっかと座り込んだ。

僕はポリタンクを足元に下ろし、四人で男を囲んで座った。

「鏡はあったんですか?」

僕がもう一度訊くと、男はそこで初めて僕の方を見た。

そして、ゆっくりと首を横に振った。

「無い。ここには、なんにもない」

男はそう言って、笑った。

「当てが、外れた、らしい。また、別のどこかに、探しに行くよ」

「どこへ行くんですか?」

「まだ、決めていない」と男は言った。「それまでは、ここに、いるよ。決めたら、出発する」

やっぱりないのかあ、と健一が言った。「そうかもしれないと思ったけどさあ」

「君たちは、どうするの。今日。帰るの。泊まるの」

「まだ決めてないです」

僕はそう応え、そして三人の顔を見た。皆今日一日の強行軍で疲れきった表情をしていた。腕時計を見ると、午後4時を回ったところだった。

リュックの中にはビスケットやチョコやカロリーメイトといった非常用の食料も、替えの下着も入っている。

「この神社に泊まろう」

誠二がそう言った。そうだな、と健一が答えた。「ゆっくり休んで明日の朝帰ろう」

僕も頷いた。特に夏は、そっくり同じ道を今日の内に戻りきるのは無理だろう。

そうするといい、と男も言って、何度も頷いた。

そうと決めると、僕たちは神社を出て、辺りを散策した。帰らなくて良いと決めると、疲れていたはずの体に無暗と元気が戻ってきた。虫を探して森の木々の間をめぐり、近くの川まで降りて水遊びをした。かくれんぼをすると永久に終わらない可能性があったので、僕たちは範囲の限定できる缶蹴りをした。意外にこの競技は夏が強いのだった。他の誰かの動きに合わせて、鬼に気付かれずに缶に近づくのが抜群に上手かった。

そして僕たちは四人で並んで、山の向こうに夕日が沈んでいくのを眺めた。鏡が見つからなかったことについて、誰も何も言わなかった。この日一日、完璧な天気だった。僕にとって、現在に至るまで、夏という季節を思い浮かべようとした時、最も典型的な一日として記憶の中から現れることになるのがこの日だった。僕たちの服も、肌も、風に揺れる樹の葉も、薄汚れた神社の鳥居も、全てが黄金色に包まれていた。空が、かき氷が溶けていくようにゆっくりと薄暗くなり、今日という一日が終わるのだと思うと、僕は一言では表現しがたい気持になった。忘れていた疲れが押し寄せてもいたし、一日が終わっていくことへの寂しさも感じた。だが、僕はこの日と同じ一日をもう一度繰り返せると信じていたし、頭の中では新たな冒険の計画を練り始めていた。今日は山に来た。だから僕たちは次は海に行けばよい。今日、計画して決めた通りにここまで来ることが出来たことに満足もしていた。僕は、真中市の僕たちの小さな秘密基地のことを思った。あの基地も今、この夕日と同じ夕日に照らされているだろうと。その様子が僕の頭の中に完璧な映像となって描かれた。そして映像はやがて、目の前で実際の太陽が沈んでいくのに合わせて、影の中に溶けて消えていく。明日あの街に帰ろう、と僕は太陽に背を向けながら思った。

 

 

 

カロリーメイトやチョコレートを夕食にして食べつくした後、僕たちはひとしきり星空を見上げた。完全な夜となった周囲に月と星の光が降り注ぎ、互いの顔をはっきり見分けることができるほど明るかった。風が限りなく優しく吹いていて、その音に包まれていると、僕たちは自分たちが今日一日分の力をすべて使い果たしたことを知った。猛烈な疲れが、全身を苛んでいた。

僕たちはお休みを言い合い、神社の本殿の板の間の上に寝袋を広げた。部屋の隅、小さな明かりの下で、ノートに向かって何か書きつけている男に向かっても、僕たちはお休みを言った。また明日、と男は答えて、僕たちが寝袋に入りこんでしばらくすると彼は明かりを消した。

僕は寝袋の中で眼を閉じた。全身の細胞が疲れきって休息を欲していた。深く息をつき、泥の中に落ちていくような感覚の中で全身の筋肉から力を抜いた。

だが、不思議と眠りはすぐには訪れなかった。もうこれ以上指一本も動かす気にはなれないのに意識は覚醒したままで、僕は何度も眼を開いたり閉じたりを繰り返した。神社の中は完全な暗闇で、眼を開けても閉じても瞳に映るものは何も変わらなかった。隣りで寝ている仲間の穏やかな寝息が聞こえた。僕は寝袋の中でじりじりと寝返りを打ったが、いつまで待っても眠りがやってくる気配は感じられなかった。心臓がばくばくと拍動し、手と足の指先まで血液が流れていく動きを感じた。

何度か寝返りを打っていると、僕の右隣の寝袋の中で誰かがごそごそと動き出す音が聞こえた。そこに寝ていたのが誰だったか一瞬分からなくて、僕は明かりが完全に消えてしまう前の光景を思い出さなくてはならなかった。

それが夏だと思い出したのと、夏が寝袋から抜け出して僕に顔を寄せてきたのとはほとんど同時だった。夏は僕の耳にぎりぎりまで口を寄せて、ほとんど聞こえない小さな声で言った。

「眠れないから一緒に寝ていい?」

その声は、空気を伝わってと言うよりも、鼓膜を直接さざ波のように振動させるような響きで聞こえた。

僕が頷いたり首を横に振ったりするよりも早く、彼女は僕の寝袋のサイドのファスナーを開いて体を滑り込ませてきた。夏はアンダーシャツと薄手のハーフパンツ姿で、彼女が入ってくると僕の体にその手足がぴったりと張り付いた。夏の体は熱く、僕の寝袋は父親から借りた大人用のものだったとはいえ、全く身動きが取れなくなった。暗闇の中で夢と現に片足ずつ突っ込んでいた僕の意識は、一瞬のうちに完全に覚醒した。

夏は僕の右耳の上に額を当てて、何度も深く息をついた。僕は自分の左隣に眠っている健一と誠二の方を横目に見て、耳を澄ました。暗闇の向こうから、確かに二人分の寝息が聞こえてくる。二人とも、絶対に眠っている、僕は自分にそう言い聞かせた。

「裕司も眠れない?」

夏がまた小さな声で囁いた。うん、眠れない、と僕も小さな声で答えた。なんか、疲れてるんだけど心臓がばくばく言って眠れないんだ。

すると夏は寝袋の中でごそごそ手を動かして、僕の胸元をさぐりだした。そして胸の真ん中の心臓に辿り着くと、手のひらをそっと置いて、本当だ、と言った。

お前がそんなことするから余計心臓が鳴る、とは僕は言えなかった。

「私は怖くて眠れない」

夏はそう言うと、僕の体に腕を回して抱きしめてきた。その力は強く、彼女の全身には鳥肌が立っていて、僕は息苦しくなった。夏の額に顎を当てて、僕は、何が怖いんだよ、と訊いた。

「私たち、明日の朝になったらもう別の人間だよ」

「何でだよ。鏡なんかどこにも無かっただろ」

「あるよ。無かったら四人でここまで来てない。私たちがここに来たってことは鏡はあるってことだよ。裕司は無いと思ってるから無いんだよ」

夏が何を言っているのか僕には全く分からなかった。

「じゃあ、どこにあるんだ?」

「眼に見えないところにあるよ」

「それじゃあ探せない」

「うん。もう遅いよ。もう私諦めた。だからここで寝ることにしたんだ。裕司の隣で」

「もう俺たち呪われてるってことか?」

分かんないよ、と夏は言った。「何も分からない。怖い」

大丈夫だよ、と僕は夏の頭を撫でながら言った。夏の髪は女の子にしては短い。しかし僕たち三人よりはずっと長く、柔かい。それを実感したのはこの時が初めてだった。

夏が女だということは、四人の間でこれまで何の問題にもならなかった。僕たちは仲間で、同じものを愛し、助け合い、冒険を求めて協力する友達だった。それは僕たちが出会ってからこの時まで何も変わらなかった。しかし、それは異なる種類の苗木が大地に並べて植えられた時、最初のころは互いに形が大差無いのと同じことだった。少しずつ少しずつ、成長するにつれ、僕たち三人と夏の姿の違いは明白になっていくだろう。それによって僕たちの関係がどう変わるのか僕には想像がつかなかったが、変化が確定的な未来だということだけはこの頃僕にももう分かっていた。

そして僕は既に夏を女として扱おうとしていた。

「大丈夫だ」と僕は夏の頭を撫でながら言った。「心配するな。俺が一緒にいる。健一も誠二もいるから大丈夫だ」

寝袋の中は二人分の熱が充満し、僕は顔や体中に汗をかいていた。そして僕の肩と胸の間、夏が顔を押しあてている場所がひときわ濡れていく。それが夏が泣いていたからだと分かったのは、彼女が顔を上げて、お休み、と僕に言った時だった。

夏は僕の寝袋から抜け出して、自分の寝袋に戻った。そして僕に、眠っている間手を握って欲しいと言った。僕は、分かった、と言って寝袋から自分の腕を引っ張り出して、彼女の左手を握った。

夏の手はあたたかく、僕よりも小さい。その手は僕の手を強く握り返してくる。その力が徐々に弱まっていくのを感じながら、僕は眠りに就いた。

結局僕は最後まで何も気が付かなかった。気が付いていたのは夏だけだ。その夏にしても、ぼんやりとした凶兆をこの物語全体に漠然と抱いていただけだった。僕たちは何も知らなかった。知らなかったことが許されるのかどうかは、あれから長い時間が経った今になっても、まだ分からない。

 

 

 

眼を覚まして、天井の剥き出しの木組を見上げた時、何十時間も眠ってしまっていたような気持がした。頭が重い。長すぎる時間が経ち、別の時空へやってきたような違和感が体にあった。僕は夢を見ていたのかもしれないが、全く内容を思い出すことができなかった。

体を起こし、建てつけの悪いあの入口の戸の隙間から微かに差し込む日の光を見ていると、僕は自分がするべきことを思い出した。三人の仲間の顔を確かめることだ。

僕はまず最初に夏の顔を見た。彼女はまだ眠っている。

そして、その姿は昨日の夜と何一つ変わらなかった。

健一も誠二も同じだった。まだ寝息を立てていたが、相貌にも顔色にも、昨日と変わったところは何も無い。腕時計を見ると、午前7時だった。僕は自分でも意識せずに深くため息をついた。

少し迷った後で、僕は、自分も別の人間に変わっていないかどうかを確かめるために、仲間を起こすことにした。朝だ、ラジオ体操の時間は過ぎてる、僕がそう言って健一の肩を軽く揺すると、彼はすぐに目を覚ました。

おはよう、と健一は言って、僕の顔をまじまじ見た。「裕司、お前の顔なんにも変ってないな」

「そう言うお前は、誰だ?」と僕はまじめな顔で、健一の顔を指さして言った。

え、と健一は絶句して、自分の顔を両手で撫でさすった。

僕はすぐにこらえ切れなくなって笑いだし、冗談だよ健一、と言った。

健一は手の動きを止め、僕を睨みつけると、馬鹿野郎、と言い、微笑んだ。

「俺たち無事だったみたいだな」

そんなの今更マジに考えてたのか、と僕は、自分の中でも微かな想像力が膨れ上がっていたのを棚に上げて、笑って答えた。

そして僕が夏を起こし、健一が誠二を起こした。誠二の顔は、低血圧気味で不機嫌そうな表情なのを除けばいつもと何も変わらなかった。夏は、僕たちの顔を見て心底ほっとしている様子だったのが、僕には分かった。今にも僕たちに抱きつかんとするのを必死にこらえているような表情だった。

誠二が入口の戸を開けると、明るい朝の日差しが部屋の中に入り込んできた。川の音が遠くから聞こえる。僕たちはとりあえず朝食を取ることにした。昨日食べきらずに残しておいたクッキーや菓子パン類を齧っていると、夏が言った。

「おじさんがいないね」

そうだった。僕は部屋の反対側の隅を見やった。そこには昨日と同じ、男の旅の道具一式が置かれていたが、男の姿はどこにもなかった。寝袋が抜け殻のように敷かれたままだった。散歩か、川に顔でも洗いに行っているのだろうと僕は思った。

朝食を食べ終えてしまうと、僕たちも今更ながら川に顔を洗いに行くことにした。健一と誠二はすぐに外に出ていき、僕と夏は片づけを先にすることにし、クッキーの入っていたビニールを丸めてリュックに突っ込んだり寝袋を畳んだりした。

自分の寝袋を畳み終わり、健一と誠二の分の寝袋も片づけておいてやろうかと思った時だった。その瞬間のことは忘れない。その音が聞こえた瞬間に全てが変わった。あたたかい夏の朝の日差しが照らす穏やかな空気が一瞬にして消え、光も温度も何一つ感じられない世界に切り替わった。

突然辺りに響き渡った音を、僕は耳で聞くよりも全身の肌で聞いた。それが叫び声だったとはっきり分かったのは間があってからで、最初の瞬間、それはもっと別の音のように聞こえた。硬い何かを切り裂くような音、音そのものが張り裂けるような音だ。それが針のように鋭く、いきなり僕の背中に突き刺さった。僕は体を反射的に震わせた。僕は神社の壁が砕け散ったのかと錯覚した。だが違った。爆発や雷鳴のような、物理的に巨大な音ではない。ただそれは周囲の空気を震わせ、凍てつかせ、僕と夏を神社の外に振り向かせた。誰かの声だということは分かったが、そうだとしたら、僕はこんな叫び声はそれまで一度も聴いたことが無かった。

長い残響の後でその音は止んだ。すると全ての音が消えてしまったかのように辺りはしんと静まり返った。僕は立ちつくしたまま辺りを見回した。神社の中も外の青空も、見た目は数秒前までと何も変わらない。何が起こったのかは全く分からなかったが、不吉な恐ろしいことだということだけは、それ以上何も見なくても聴かなくても、ほんの数秒走り抜けた叫び声が、充分すぎるほど雄弁に告げていた。僕は自動的に動き出していた。あと少しでも立ち尽くし続けていたら、おそらく理由の無い恐怖でそのまま動けなかっただろう。だが僕の背後にいたのは夏で、きっと声を上げたのは健一か誠二のどちらかか、それとも両方だった。だとしたら僕にはするべきことがあった。

「見てくる、待ってろ」

僕は振り返って夏にそう言った。たぶんその声は震えていたと思う。夏は、氷のように固まった表情で、ひたすら何度も首を横に振った。そして僕の手を思い切りつかんだ。その後は眼だけをぎょろぎょろとさせて、それ以外は全く動かなかった。その顔は、絶対に僕の手を離さないという決意に満ちていた。

仕方なく僕は頷き、夏の手を引いて、靴を履いて神社の外に出た。

健一と誠二の姿はほとんど探すまでもなく見つかった。彼らは神社の入り口の、あの古ぼけた鳥居の近くで、二人並んで立ちつくしていた。

その様子がおかしいのはすぐに分かった。だがもっと不審なのは二人ではなく、彼らが見上げる鳥居の方だった。何故か鳥居に足が三本ある。僕はそこに近づきたくなかった。一歩一歩近づくごとに、不吉な予感が明白な現実に変わっていくのを感じる。だが確かめるしかない。鳥居の足が三本あるのではなく、真ん中に大きな何かがぶら下がっている。昨日までは無かった何かだ。次の一歩を踏み出す前に、僕はそれが何なのか分かった。健一と誠二の隣りに辿り着いてしまう前に、僕は夏の頭を抱きかかえて、見るな、と言った。

鳥居にぶら下がっていたのは、あの男だった。鳥居の左右に渡された柱の途中に結わえられた縄で、首を吊っていた。僕たちから背を向けているから顔は見えないが、特徴的なカーキ色のツナギは間違いなくあの男のものだった。一本の縄で吊られたその体はぴくりとも動かない。両手も両足もだらりと垂れ下がり、完全に弛緩し、停止している。

僕は自分の口が開き、掠れた息が口から漏れ続けるのを感じた。息を吸うことができない。声も出ない。僕は自分の心臓の音と、抱き寄せた夏の体の鼓動を感じ、意識して息を吸い込んだ。だが、すぐに呻いて口元を手で押さえた。辺りは耐えがたい臭いにつつまれていたのだ。吊られた男の足元をみると、糞尿がまき散らされてまだ乾ききらずに残っている。

僕たち四人は、吊るされた男の背中を目前に、呆然と立ち尽くした。男の体は時が止まったかのように硬直している。そして再びそれが動き出す気配は全く感じられない。空中に貼り付けられて、本当に鳥居の三本目の足になったように見える。

誰も何も言わないし、動くこともできなかった。何を言っていいのか分からないし、何をしたらよいのか分からなかった。ただ僕は自分と夏の鼓動の音だけを聞いていた。そして男の体をじっと見上げ続けていた。二人の心臓の音と、男の体だけがそこにあった。僕は目を開いて、閉じて、また開いた。

僕は強く眼を閉じた。

死んでいる。自殺だ。

でもどうして?

僕は眼を閉じて口を手で押さえたまま、思い出した。昨日僕たちがここにやって来て、男と再会してからのことを。彼は、鏡はここには無いと言った。そしてまた別のどこかに探しに行くと言った。そして夜になると、僕たちにお休みを言って眠った。僕たちは同じ場所で眠った。だが目を覚ました時彼はつい数時間前までいたはずの場所におらず、鳥居に首を吊って死んだ。僕たちが完全に眠りに落ちた真夜中から夜明けにかけて、ひっそりと神社を抜け出したのだ。それは分かる。だが何故いきなり死ぬのか、昨日から今日までの出来事を時間通りに何度辿っても、途中で飛躍がありすぎて理解できなかった。

誠二と健一が僕の方に振り向いた。二人は同じ顔をしていた。頭は空っぽで、人形のような、完全に自我を失った顔だ。

僕の腕の中で、夏の体が震えている。夏は泣いていた。健一が彼女の体を抱きしめると、夏は片腕を彼の体に回して、声もなく肩を震わせて泣き続けた。僕は誠二の方を見た。

僕と誠二は互いの目を覗き込みあった。それは僕と誠二にとって、それまでもずっと続いてきた習慣だった。何かに困った時、一人では解決できないことを考えたい時、僕が頼るのはいつも誠二であり、誠二が最初に相談するのも必ず僕だった。しかしこんな状況は僕たち二人の想像も思慮も遥かに超えていた。誠二の顔は完全な蒼白だったし、僕を見る目の焦点も定まっていなかった。僕たちはしばらく何も声に出すことは出来なかったが、それでも何かを探るようにお互いの眼を見つめ続けた。僕は、抱えた夏の体を健一に預けて言った。

「確かめよう」

僕がそう言うと、誠二は頷いて、僕たち二人は男が確かにあの男であること、そして間違いなく死んでいることを確かめるべく、顔を前から見ようと、飛び散った排泄物を避けながら、鳥居の脇を通って正面に回り込んだ。

おそるおそる顔を上げた時、僕は、自分が間違ったことをしたのが分かった。見るべきではなかった。背後から一目見て分かったように、彼は間違いなくあの男で、彼は間違いなく死んでいたのだから、それ以上確かめることなど何もなかったのだ。

しかし僕は結局見てしまった。男の、見開かれて飛び出しかけた目、大きく開いた口からだらりと垂れ下がった舌、そしてどす黒く変色した顔全体を。それは朝日を背に受けて薄い影に覆われていたが、全てがはっきりと見え、だが同時にその体の周囲で、光が途絶し消滅していた。大きな何かが唐突に断ち切られ、方向を失って、黒く深く刻まれた皺の一筋一筋が、暗く濁ったまま凍りついていた。男の顔のあらゆる穴が歪んで大きく開かれて、彼の全身から色も音もない言葉が叫ばれて空間を塗りつぶしていた。そこにあったのはゼロではなく桁外れのマイナスだった。僕が見上げていた時間は1秒の半分にも満たなかった。だがその光景は焼印のように一瞬で僕の脳にこびりついた。忌まわしさという概念を凝縮したような造形だ。顔をそむけ、眼をきつく閉じたが無駄だった。瞼の裏にははっきりとその死顔が映っていた。生きていた時の男の顔とは似ても似つかない。しかしその顔は結局、生きていた時の彼の顔よりもはるかに長い時間、僕の脳裏にとどまり続けることになった。

その時僕はようやく、自分の体ががたがた震え続けていることに気が付いた。全く整理のつかない恐怖が僕の体の隅々まで行き渡って血を凍らせていた。その時僕が思ったことは、最早たった一つだった。それ以外のことは何も考えられなかった。

そしてそれを誠二が僕の代わりに口にした。

「逃げよう」

誠二がそう言うと、僕たちは震えながら顔を見合わせて、頷いた。全速力で神社の中まで戻り、荷物をまとめ、入口の戸を閉めると、鳥居にぶら下がる死体から眼を逸らしながら、体力の続く限り全力で走った。黄泉の国から逃げ去る時に決して後ろを見てはいけないというルールと同じように、僕たちは絶対に振り返らなかった。死体がそこにあり、逃げていく僕たちの方をじっと見つめているのが分かったからだ。僕たちは木々に包まれた細い坂道を転げ落ちるように走り降りた。風の音も、木々のざわめきも、昨日はとてつもなくやかましかったあの蝉たちの声も、何一つ聞こえなかった。ただあの男の死に顔のイメージが限りない克明さで脳裏に浮かび上がって執拗に拡大される。恐ろしくてたまらなかったが、それでも僕は夏に一番後ろを走らせることができなくて、しんがりを務めた。すぐ背後にあの男の顔が迫って来ている錯覚からどうしても逃れられず、何度も何度も首を横に振った。体力が尽きても、恐怖に背中を押されて全力で走った。

やがて隘路の終わりに辿り着き、僕たちは昨日自転車を停めた地点まで戻った。もしそこに自転車が無かったらどうしようと僕は心の底から恐れていたが、無事な姿でそれはあった。誰の自転車も欠けておらず、パンクもしていない。鍵を外すと、僕たちはまた全速力で坂を駆け降りた。自転車は傾斜で勝手に降りていくというのに、僕たちは必死にペダルを漕ぎ続けた。全速力の連続であっという間に体力は限界を超えていたが、誰もスピードを緩めなかった。あのスピードで誰も転んだりカーブを曲がり切れずに事故を起こしたりせずに済んだのは、今考えれば僥倖としか言いようがない。坂道を降りていくと体が風を切り、その感覚はあの場所から僕たちが確実に急速に遠ざかっていくことを教えていた。それは僕の心を少しずつ落ち着かせ、ハンドルを握る手から震えを止めていった。

下り坂が終わり、平坦な田舎道に差し掛かってしばらくすると、誰ともなく自転車をその場に停めた。そこが僕たちの限界だった。僕はハンドルの上に突っ伏して、荒い息で深呼吸を繰り返した。既に太陽は半分近く昇り、道の向こうは陽炎に覆われていた。川のせせらぎが遠くから聞こえる以外には、相変わらず何の音もしない。風は全く吹いていないし、近くに人影も見当たらない。野菜畑が延々広がっているだけだ。しかし何より僕の眼に映るのは、昨日は決して気が付かなかった、光が落ちた裏の陰影だった。俯せる僕の視界には、僕の体と自転車の輪郭がくっきりと影を落としている。僕はその暗闇をじっと見つめていた。僕たち四人以外の人間はどこにいるのだろうかと僕は思った。とにかく誰でもいいから生きている誰かの姿が見たくてたまらなかった。そして同時に、今だけは決して他人に出会いたくなかった。今の自分を誰かに見られることは、何故か絶対に避けなければならないような気がした。

顔を上げると、誠二が僕の方を振り返って見つめていた。彼の表情は、普段の半分くらいには、既に正気に戻っていた。僕を見る彼の眼は、僕にも正気に戻るようにと求めていた。僕は頷いて、深呼吸をしながら、落ち着け、と自分に言い聞かせた。

「みんなと話がしたい」

誠二はそう言った。その声はいつもの冷静な調子と全く同じというわけにはいかなかったが、実務的な空気をまとった誠二らしい声だった。

「今話すのか?」と健一が訊いた。

「今しか話せない」と誠二は答えた。

誠二は道の向こうの橋を指さして、あの橋の下の河原で話そう、と言った。

彼に従って僕たちは河原まで降りて行った。昨日、往路の途中で昼食を取ったあの河原だった。荷物を下ろし、川の流れるすぐ傍で四人で円を組んで座り込んだ。震えている夏の肩を健一がずっと抱えている。健一は誠二の方を見て、話を始めるように促した。

「あの、おじさんの話だ」と誠二は言った。「どうしてあのおじさんが死んだのか、みんな分かるか?」

誠二は俯いていた。そして自分に言い聞かせるように話した。

「俺たちは何よりもまず、それを知っておいた方がいいと思う。そうじゃないと、俺たちは間違えることになる」

「間違えるって、何だ」と健一が訊いた。

「あのおじさんが死んだのが呪いのせいとかってことになる。俺はそれは違うってことをみんな知ってた方がいいと思う」

「誠二はどうしてあの人が死んだのか分かるのか?」

健一がそう訊くと、分かる、と誠二は答えた。

「理由は一つしかない。あの人は鏡が見つからなかったから死んだんだ。鏡を探すことにもう疲れて諦めて死んだんだよ」

僕は頷いた。確かに、生から死までの瞬間には僕たちに見えない飛躍がある。しかし理屈では誠二の言う通り、それ以外に理由があるはずがなかった。

簡単な筋書きだ。男は、一夜にして自分の姿がまるっきり変わってしまったということを信じ、それが鏡の呪いのせいだということを信じた。呪いを解くには祝福された鏡を探さなくてはならず、それを求めて日本中をさまよい歩いていた。そしてようやくここと見込んだ神社に辿り着いた。しかし、そこには鏡は無かった。何も無かった。どうしたらよいのか。次に鏡のありそうな場所を求めてまた旅に出ればいいのかもしれない。でも男はもうそう考えることができなかった。本当はもうどこにも当てはない。そもそも鏡などどこにもないかもしれない。それとも、自分の姿がある夜突如変身してしまったということ自体が妄想で、狂っていたのは初めから自分だったということにようやく気が付いたのかもしれない。男が死に至るまでにどういう考えを辿ったか、正確な筋道は分からない。しかしどういう感情が最後に彼を包みこんだのかは分かる。

それは絶望だ。

僕もそう思う、と僕は言った。

「だからはっきり言っておきたいんだ。祝福された鏡なんか最初からどこにもない。さっきの神社はもちろんだし、あの人が最初に体が別の人間に変わったっていう話も間違いだ。あの人の話は最初から全部嘘だったんだ。あの人に悪いと思うけど、あの人は自分の話を勝手に信じ込んで、勝手に死んだんだ」

誠二がそう言うと、健一は頷いた。そして首を横に振った。

「でも昨日は、あんなに元気そうだったのに、何でいきなり死ぬんだ?」

健一が眉をひそめると、誠二は首を横に振って、分からない、と言った。

「俺にもそれは分からないよ。死ぬ人間がどうやって死ぬって決めるのか、その気持は分からない」

僕は健一に肩を抱かれている夏の顔を見た。彼女の顔は涙に濡れてぐしゃぐしゃになっていたが、もうその体は震えていなかった。彼女は口を半開きにして誠二の方を見ていた。彼女が何かを言いたそうにしているのが僕には分かったが、夏の口は無言のまま何度か開閉するだけで、それはすぐには言葉にはならないようだった。

「だから、俺たちも決めなくちゃいけないと思うんだ。これからどうするかってことを」

誠二は僕たち三人の顔を見回しながら、ゆっくりとそう言った。彼の顔は、それまで見たことが無いほど真剣だった。

だが僕には、誠二の言葉の意味が分からなかった。どうするもこうするもなく、男は死んでいるのだから、これ以上僕たちにできることなど何もない、と僕は思った。どうあがいたところで男が生き返ることなど無い。たとえ、男が探し求めていた祝福された鏡の破片が何処かにあって、それを見つけることができたとしても。誠二は、鏡なんて最初から無い、と言った。それでもいいから男の代わりに僕たちがそれを探そうとでも言いたいのだろうか?

だから僕は誠二に言った。

「でも、もう死んでる」

「死んでるから、決めるんだ。俺は、俺たち四人で、あの人の死体をどうするのか、決めたいんだ。今、ここで」

誠二は、ゆっくりと音節を区切りながら言った。三人の視線が誠二に集中し、彼は黙ってそれを受け止めた。健一の顔も夏の顔も、深刻そのものの表情と化した。

僕の顔は、他の二人とは違った。ぽかんと口を開けて、呆然と誠二の眼を見返していた。

言われてみれば確かにその通りだった。あの死体をどうするのか、僕たちが死体を発見した以上、僕たちが決めなくてはならない。だが僕はただあの死体から逃げ出すことだけを考えて走り出し、この四人で座り込んでいる現在もそうだったのだ。ただあの忌まわしい場所から離れたいと。あれをどうこうしようなどと、完全に僕の思考の埒外だった。一瞬でも眼を閉じればあの男の死顔がまぶたの裏に浮かび、既にそれは決して触れてはならないものとして僕の心臓に刻印されていた。

僕は誠二に対して何か言おうとした。だが言葉が見つからなかった。

「みんなの考えを聴きたい。俺一人じゃ決められないから」

二人が頷き、僕も止むを得ず頷いた。

「でも、最初に俺の考えを言っておきたい」と誠二は言い、息を吸い込んだ、「俺は、無視するのがいいと思う。あの死体は、あのまま放っておけばいいと思う」

誠二の声は明瞭で、いつも通りのはっきりとした意図と意志に満ちていた。だがその言葉の意味が僕の中で咀嚼されるのには、いつもよりずっと長い時間がかかった。

今考えてみても、これが、異常な状況下で導き出された、彼にとっては有り得ない例外的な対処策だったのか、それともいつもの誠二らしい結論だったのか、僕には分からない。

「無視した方がいい」と誠二はもう一度言った。「理由は、俺たちが、あのおじさんが死んだことに何の関係もないからだ。確かに俺たちはあのおじさんに会って話を聞いて、同じ場所に辿り着いた。でも死んだこととは無関係だ。俺たちが何か言ったりやったりしたから、あのおじさんが死んだんじゃない。俺たちは何もしてない。あの人は勝手に信じて勝手に死んだんだ。それをはっきりさせておくためには、俺たちはあの死体のことは放っておくのがいい。だから俺たちは、あの死体を見たことも、あのおじさんが死んだことも、あのおじさんに会ったことも、誰にも話しちゃいけない。この冒険が大人たちに秘密だったのと同じに、これは誰にも秘密にしなくちゃいけない。俺たちが誰にも話さなければ、俺たちが死体を見たことは絶対に誰にもばれない」

誠二が一言話すごとに、周囲の空気が凍りついて時間の流れが遅くなっていくような感覚がした。健一も夏も、顔から表情が失われていた。誠二の背後で、細い川のせせらぎがゆっくりと流れていく。僕はその水の流れと、反射する光と、その水の奥の暗闇と、誠二の目を同時に見つめていた。

誠二がどうして、今ここでどうするか決めたい、と急いだのか、その理由が彼の言葉を聴いてようやく分かった。この事を誰にも話さないと決めるのならば、まだ誰にも会っていない今決めるしかない。無視すればよい。そうすれば誰にもばれない。その声が僕の胸に突き刺さった。何故ばれてはいけないのか、その説明は誠二の言葉から欠けていた。しかし彼の気持ちは分かった。僕も同じ気持ちだった。

あの死体とは関わりたくないし、関わるべきではない。誠二のその気持ちはよく分かった。関わっても何の得もないし、関われば男の死の原因にも関わることになる。僕たちはそうするべきではない。何らの責任も負うべきではない。それはあの時、僕と誠二、並んで縊死体を正面から見上げた二人には分かる感覚だった。

やがて、健一がゆっくりと首を横に振った。

「駄目だ」と健一は言った。

健一は眉間にきつく皺を寄せて、誠二を睨んだ。そして右目を手で覆いながら、駄目だ、ともう一度言った。誰よりも自分自身にそう言い聞かせるように。

「無視はできない。俺はあのおじさんをこのまま放っておけない。さっきは確かにびびった。まじで怖かった。でも、このまま無視はできない。だってそうだろ。それはなんか違うだろ。おじさんが可哀そうだろ。それに、誰にも話さないって、一体いつまで話さないんだ? 夏休みが終わるまでじゃないだろ。一年か? 二年か? それとも大人になるまでか? 多分、そうじゃないだろ。無視するってことは、一生誰にも話さないってことじゃないのか? そうだろ?」

そうだ、と誠二は言った。

「そんなことできると思うのか?」

「できるかどうかじゃなくてそうしようって言ってるんだよ」

「無理だ、俺にはできないよ。死ぬまで黙ってるなんて無理だ」

「じゃあどうする?」

「警察に、話そう」と健一はひっそりとした声で言った。「俺はそれが一番いいと思う」

「なんて話すんだ?」

「正直に全部話せばいい」

「駄目だ。そんなことできない」と誠二は言って、首を横に振った。

「どうして?」

「俺たちが殺したと思われる」

誠二がそう答えると、健一は、眼を見開いて彼を見返した。僕も同時に同じ顔をした。

夏だけが静かな表情で誠二を見つめていた。

「何で、俺たちが殺したことになるんだよ?」、そう言う健一の声は震えていた。「わけがわかんねえよ。あの人は自殺だろ? 誰がどう見たってそうじゃないか。それに、さっきお前が言ったんじゃないか、『俺たちはあのおじさんが死んだことと何の関係もない』って。何の関係もないのにどうして殺したことになるんだよ?」

「今は何も関係なくても、警察に話したら、関係するんだよ」と誠二は恐ろしく静かな声で言った。「健一も、みんなも、よく聞いてくれ。それと、よく思い出してくれ。あのおじさんは最後に、俺たちが眠る前に最後に見た時、何をしてた?」

僕はそれを咄嗟に思い出すことができなかったが、夏は覚えていた。

彼女は小さな声で、おじさんは何かノートに書いてた、と言った。

「何を書いてたと思う?」

誠二がそう訊くと、夏は、分からない、と言って首を横に振った。

「遺書だよ。死ぬ前に書いたものはみんな遺書になる。何を書いてもそうなるんだ。遺書には何を書く? 普通は、残していく人たちに自分の持ち物の何を配るかを書くんだ。お金とか、家とか、車とか。でも、あの人には知り合いはいない。独りぼっちだ。だから自分の残したものをあげる相手もいない。それにあの人の持ち物はあのぼろっちいリュックだけだ。最初からあげるものもない。じゃあ何を書くかって言ったらそれは、自分が今から死ぬ理由を書くんだよ。それしかわざわざ死ぬ前に書くことはない。あのノートには、何であの人が死んだのかが書いてある」

「それが何なんだよ。分かんないからはっきり言ってくれ」と健一は苛立たしげに言った。

「あのノートには俺たちのことが書いてあるんだよ」と誠二は言った。「間違いなく書いてある。俺たちのせいで死んだって」

健一は、あんぐりと口を開いて、はあ? と言った。

僕は、誠二の話を聞きながら、自分の全身に鳥肌が戻ってくるのが分かった。誠二が何を言いたいのか、僕には分かり始めた。しかし僕は、彼の話の筋書きとそれが辿り着くであろう意味よりも、彼の膨れ上がった思考そのものの方が恐ろしかった。誠二の頭の良さは異常だ、と僕は思った。

「考えてみろよ。あの人は俺たちよりも何日も前にあの神社に辿り着いてたんだ。鏡が無いことは、着いた最初からすぐ分かってた。あの人が鏡が無かったことにがっかりして死んだのが本当なら、その日のうちに自殺しててもおかしくない。それでも、何日間か分からないけど、あの人は生きてたんだ。それが、俺たちがやってきた最初の夜の後で突然死んだ。理由は俺にも全く分からない。分からないけど、あの人は俺たちがやって来たから死んだんだ。俺たちが鏡を探しに来たことがむかついたのかも知れない。俺たちがはしゃいで遊んでるのが許せなかったのかもしれない。俺たちが鏡を見つけられなくても気にしなかったことがショックだったのかもしれない。俺には理由は全然分からない。でも俺たちが来るまで、あの人は普通に生きてた。だから、俺たちが来たことがあの人が死ぬきっかけになったのは間違いないんだ」

「お前が何言ってんのか、俺は分かんない」と健一は首を横に振りながら言った。「俺たちが来たせいであの人が死んだっていうのが本当でも、あの人は自殺したんだろ。俺たちが本当に殺したわけじゃない。もし遺書に俺たちのことが書いてあっても、俺たちが首を絞めて殺したんじゃないんだから、警察に逮捕されるわけじゃないだろ?」

「誰が警察に逮捕されるなんて言ったんだよ。そんなことあるわけないだろ。問題はそんなことじゃない。俺は、俺たちが殺したと思われる、って言ったんだ。本当に殺したかどうかじゃない。殺したと思われるかどうかだ。殺したと思われるのは、駄目だ。だって俺たちは殺してないんだから」

「でもあのノートを確かめなくちゃ本当に何が書いてあるかは分かんないじゃないか。あのノートに俺たちのことが絶対に書いてあるかどうかは、見てみなきゃ分からない」

「だからだよ。これはまだ全部、俺の想像だ。ただの想像だ。でも、俺たちが警察だろうと誰だろうと、大人たちを連れて来て、その誰かにノートの中身を読まれたら、それが本当になる。もしノートに子どもたちのことが書いてあれば、その子どもたちは俺たちってことになる。放っておいてもいつか誰かがノートを見つけるかもしれないけど、俺たちがこの話を誰にも言わなければ、もしそこに俺たちのことが書いてあっても、それが俺たちのことだなんて誰にも分からない。このままなら本当に俺たちとあの人が死んだことは何の関係もない。想像のままなら本当じゃない。だから無視しようって言ってるんだ」

健一は眼を細めて誠二の顔を見つめた。悲しげな表情だった。

「それでいいのか?」

「俺はそう思う。そうするのがいいと思う」

健一は、それ以上は何も話さなかった。首を縦にも横にも振らなかった。誠二の言うことは理解できたが、賛成も反対もできないのだった。

それは僕も同じだった。

誠二の語った筋書きは論理的だった。そして彼の気持ちは心の底から良く理解できた。殺したと思われるのは駄目だ。想像のままなら本当じゃない。その通りだと僕も思った。でも僕は同時に、それは何かが間違っている、とも直感的に思った。だがその何かは、恐怖と混乱の中でもやもやとして、僕の中で明確な言葉にならなかった。それに誠二の論理は僕の思考が及ぶ遥か先を行きすぎていて、彼の物語に対抗できる別の物語など、僕の頭で咄嗟に作れるはずもなかった。賛成もしないが反対もできないのは、それ以外にどうしたら良いのか分からないからだ。

「駄目だよ」

そう夏が言った。すすりあげていた鼻が乾き、深呼吸を何度か繰り返し、夏は僕たち三人を見まわした。その顔からは怯えが消え、怖いくらいに何かに集中していた。

僕はそんな顔をした夏を、かつて一度だけ見たことがあった。発表会でピアノを弾いていたときの彼女の顔に、そっくりだった。

「私も健一と同じことを思った。放っておくのは駄目だよ。誠二の言うことは本当だと思う。でも私は、もっとずっと本当のことがあると思う。

私たち、あのおじさんを放って置いたら後悔するよ、絶対。一生無視するなら、一生後悔すると思う。だから放って置いたら駄目だよ」

夏はそう言いながら、何度も首を横に振った。彼女の顔には恐怖とは別の感情がこみ上げてきていて、今にも眼から涙が零れそうだった。

「じゃあ、どうするんだ? 警察に行くのか?」と誠二が訊いた。

「違う」と夏は首を横に振った。「私は、そんなことしなくていいと思う。色んなことがばれるのが怖いからじゃない。警察の人もやることないと思うから。だって、あのおじさんは一人で、自殺したんだから。誰かに殺されたんじゃない。誰が犯人なのかを見つけるのが警察の仕事だよね。じゃあ今は仕事することなんてないよね。警察に話したって、自殺した人が山の奥で見つかりました、って、何かの紙に書かれるだけだよね? それが新聞とかに載るのかもしれない。でも、あの人には家族は誰もいないし、一人ぼっちでお金もなくて旅をずっとしてたんだから、連絡してあげる人なんかどこにもいない。警察にしかできない、あのおじさんに何かしてあげられることなんて、なんにもないよね? だったら、後たった一つあのおじさんにできることは、私たちがしてあげるのがいいと思う」

「なんだよそれ」と誠二が訊いた。

「私たちであのおじさんのお墓を作ろう」と夏は言った。「私たちがそうするのが、私は一番いいと思う。穴を掘って、おじさんを埋めて、お墓を立てる、そうするのがいいと思う。それで、そうしたことを誰にも言わないって四人で約束する。そうしたら私たちはきっと一生秘密にしてても平気だよ。だって、後悔しなくていいから。

それと、健一も、誠二も、裕司も、信じてなくて、信じてたのは私だけみたいだけど、私はあの神社に鏡があると思ってた。今でも信じてる。私たちにも、おじさんにも、見えないところに鏡はあるって。鏡には映ってるよ。おじさんが死んだのが映ってる。だから私たち、おじさんを埋めてあげた方がいいよ」

夏がそう言うと、僕を含めた残りの三人は、口をつぐんだ。

僕は昨日の夜の夏のことを思い出した。その前に山道を歩いていた時のこともだ。彼女は震えながら、悪い予感に怯えていた。結局それはその通りになった。だから彼女にとっては、その予感を自分にもたらした根拠、「鏡はどこかにある」という直感もまだ正しいままで残っているのだった。

僕は健一と誠二、二人の表情を覗き込んだ。僕たち三人が同じことを考えているのは明らかだった。

「ねえ裕司、そう思わない?」

夏は僕をじっと見つめて、答えを促した。彼女の眼は透き通っていた。僕は彼女に嘘をつくことはできなかった。

「そうかもしれないけど、俺にはできない」と僕は答えた。

「どうして?」

「夏にはできるのか? あのおじさんの死体を下ろして、運んで、土に埋めるなんて。俺はできないよ。俺はどれだけ頼まれても、もう二度と、あの顔は見たくない。夏はあのおじさんの顔を見てないだろ? もう一度あの顔を見たら、一生後悔するのと同じくらい、一生忘れられなくなる」

僕がそう言うと、あ、と短く呟いて、夏は絶句した。

思った通り、彼女は実際のその作業がどんなものになるのか、全く考えていなかった。

僕たちはまた四人で顔を見合わせた。だが互いに顔色を伺うまでもない。もう二度とあの死体に近づきたくはないという気持ちは、暗闇を本能的に避ける幼児のように、四人全員に避けがたく打ちこまれていた。あの死体がぶら下がった縄を切り、死体を下ろし、死体を運び、穴を掘り、埋める。その一連の動作と時間がもたらす忌まわしさは、僕に一生拭いきれない痕跡を刻むだろうという理屈を超えた直感があった。

夏は悲しげな表情で首を横に振った。

「私一人でも、やるよ」

その声には誰も答えることができなかった。どう考えてもそんな事は無理に決まっていた。夏一人ではあの男の首にかかったロープを切ることさえできないだろう。

どんな道を選ぶにしても、四人全員の協力が要る。

どうしたらいいのだろうか、と僕は思った。誠二が言うことも、健一が言うことも、夏が言うことも、僕にはそれぞれ理解できた。そしてそのどれも、今の自分には遂行することができないということも分かっていた。

結局、健一の言う通り、警察に連絡するのが一番合理的だということは、この時の僕にも分かっていた。誠二の筋書きは仮説に過ぎず、たとえ僕たちが殺したと思われるのだとしても、自分たちで解決できない以上、誰かの手を借りるしかないのは明らかだ。健一が言う通り一生隠し通すのは無理だし、夏の言う通りそこには必ず致命的な後悔が生まれるだろう。誠二の説には他の誰にも無いリアリティがあった。その恐怖を僕はそっくり自分のものとして感じることができた。それでも、僕が混沌とした自分の言葉と感情の渦の中で見出していた最も鋭敏な感覚は、殺したということの真偽を問われることへの恐怖ではなかった。僕の想像力は、厳密にその意味を把握できるほど広大でもなく、またその意味を受け止められるほど繊細でもなかった。僕は、基本的な倫理とか道徳とかいう感性に、究極的には乏しい少年だったのかもしれない。だから僕は健一の意見に賛成してよいはずだったのに、自分の心の奥底を覗いてみると、誠二や夏と同じように、警察にこの問題を委ねるのには反対だった。そしてその反対する理由が、僕の場合は、誠二とも夏とも少しずつ違っているのだ。それがどう違うのか、どうしてなのか、僕は考えた。難しすぎて良く分からない。しかし、後になって振り返ってみれば、この時僕が思っていたことは他の三人と同じかそれ以上に単純なことだった。それはこの時決して明確な言葉にはならなかったが、僕が思っていたのはつまり、「この物語にふさわしい終わりは何か」、ということだった。誰かにおおっぴらに話したり、知りもしない他人にその行く末を委ねることは、僕たちが悪を成したかどうかという問題を超えて、このプライベートな冒険が死という結末で終わったことの締めくくりとして、ふさわしくないと僕は思った。その感覚は僕の中で一人の人間の生死の問題を超えていた。誠二が言った通り、この冒険は、最初からそうであったように、そして最後までそうしようと僕たちが決めていた通り、誰にも秘密でなくてはならない。それは僕たちと、僕たちにこの話をしたあの男とが、暗黙のうちに結んだ約束だった。僕たちは個人的にあの男と出会い、個人的に旅に出てここまでやってきた。そんなこの物語の最後を飾る役として、僕たちに全く関係の無い他人である警察は適していないと僕は感じていた。僕たちは一つの物語を全うしなくてはならない。だが、だからと言ってどうしたらよいのかは分からない。このままではどうやっても自分たちだけで解決することができない。誰かの助けを借りなくてはならないことははっきりしている。この冒険を秘密のままに終わらせることのできる、僕たち以外の誰かの。

こうした考えが頭の中で全くまとまらないうちに、僕は自分の結論を口に出していた。

「日光仮面に話そう」

僕がそう言うと、三人の視線が僕に集中した。そして僕は簡潔に自分の考えを言った。

「日光仮面に話せばいいと思う。きっと相談に乗ってくれる。それに、僕たちが頼めば、日光仮面はこのことを絶対に他の誰にも話さないと思う。僕たちが、今ここで、警察に話す必要もないし、埋める必要もないし、無視することもない。どうするかは、日光仮面に相談しよう」

最初の瞬間は、何故ここで突然日光仮面の名前が登場するのか、言いながら自分でも分からなかった。だが言い終わってしまうと、それが唯一の現実的な解決策だと思えた。

ただ一人彼だけが、僕たち以外にこの物語を理解し受け入れることができる大人だろうと僕は思った。そしてただ一人彼だけは、僕たちの気持を分かってくれるだろうと。

最初に夏が、僕の方を見て頷いた。「いい考えだと思う」

そうか、と健一が呟くように言った。「きっとそれが一番いい。そうしよう」

誠二は腕を組んで、しばらく頭の中で考えを巡らせていた。そしてやがてゆっくりと頷いて、僕を見つめて、分かった、と言った。

そうと決まれば、僕たちは立ち上がり、真中市に向かって帰り道を自転車で再び走りだした。漠然とした捉えどころも底もない不安と恐怖は消え、明確な目的が僕たちの背中を押した。僕たちは逃げているのではなく、解決に向かっているのだと、ペダルをこぎながら僕は考えた。

 

 

 

真中市に戻ってきたとき、僕たちは全員その体力の限界を超えて疲れきっていたが、そのまま家に帰ることはできなかった。僕たちはまだあれから、誰とも話をしていないが、家に帰れば家族と話すことになる。そうなる前に、どうしても最初に日光仮面に会わなくてはならなかった。

ほとんど休憩もなく走り続けてきたおかげで、まだ太陽は空の頂点を横切って間もない位置にあった。日光川の河川敷に辿り着くと、日光仮面はいつもの通りそこにいて、泥川に向かって正拳突きを繰り返していた。傍に立つと彼のぜいぜい乱れた呼吸が聞こえ、汗臭いにおいが漂ってきた。

「日光仮面に話したいことがあるんだけど」

僕がそう言うと、日光仮面は正拳突きを止めて振り向いた。

「何があった。サタンの爪が現れたのか」

「それよりひどいかもしれない」

細い声で僕が言うと、日光仮面は、サングラスの向こうからじっと僕の顔を見つめた。そして僕の肩にそっと手を置き、詳しく聞かせろ、と言った。

「その前に約束してほしいんだ。この話は、絶対に誰にも言わないって」

日光仮面は頷いた。「約束する。安心しろ、正義の味方は約束を破らない」

立っているだけで眼がくらむような日差しを避け、僕たちは橋の真下の影に座りこんだ。

話は、僕がした。神社で男と出会い、そして彼が死んだのを発見して、今真中市に戻ってきたことまで。事実だけを話した。言葉が足りないと思われた部分を時々誠二がフォローした。帰り道の途中、どうするべきかと四人で議論したことについては一切省略した。

日光仮面は腕を組み、黙って僕の話を聞いていた。相槌も質問も何も無く、全く一言も発しなかった。

「それで、どうしたらいいのか日光仮面に相談したかったんだ。どうしたらいいと思う?」

長い話を終え、僕がそう訊くと、日光仮面は組んだ腕を解いて言った。

「もう大丈夫だ」

「大丈夫って何が?」

「君らは良くやった。後は私に任せろ。もう何も心配することはない」

そして日光仮面は、もう大丈夫だ、と言いながら、僕たち四人の頭を順番に撫でた。

「任せろって、どうするんだ?」と誠二が訊いた。

「私が今からそこに行って、全て片付けておく。地図だけ渡して場所を教えてくれ。君たちはもう何もしなくていい。この事は忘れるんだ。もうこれ以上誰にも言う必要はない。家に帰って、元気な顔を見せて、親御さんを安心させてやりなさい」

「警察に言うの?」と夏が訊いた。

日光仮面は首を横に振った、「私は無駄なことはしない主義だ。警察など何の役にも立たない。サタンの爪の前には公権力など無力だ」

「サタンの爪って、そんなの今なんにも関係ないよ。自殺なんだよ」と健一が言った。

「それは君が決めることではない」と日光仮面は言った。「私が君たちに言っておきたいのは、君たちは今日、不幸な事件に巻き込まれただけだということだ。これは単なる不幸な偶然だ。君たちは何一つ悪いことをしていない。それが分かったら、私を信じて全て任せなさい」

「一人で行くつもり?」と僕は訊いた。

「そうだ」

「僕たちも行くよ。案内するし、手伝う」

「駄目だ。必要無い」と日光仮面はきっぱり言った。

「なんで?」

「君たちはこの事件のことを一刻も早く忘れなくてはならないからだ。それが最も良いことなのだ」

「忘れようとしたって、忘れられないよ」

「いや、君たちは忘れる」と日光仮面は断言した。「今ここで、この事件に関わることを止めてしまえば、いつか必ず忘れる。それが君たちに与えられた祝福なのだ。私を信じて、地図を渡しなさい」

そう言って手を差し出す日光仮面に、誠二はあの神社の位置を示す地図を渡した。

「では行ってくる」

言うが早いか、日光仮面は立ち上がり、白いペンキの剥がれた愛用の自転車のハンドルを握った。僕たちが声を掛ける間もなく、彼は全速力で堤防を駆け上がり、サドルに跨って走りだした。

あっという間に去って行った日光仮面の後ろ姿を見送りながら、僕たちはその場に立ち尽くした。

額に光る汗を拭い、誠二が言った。

「帰ろう」

僕たちはやむを得ず頷いた。そして自分たちの自転車に戻り、ゆっくりとペダルを漕ぎ始めた。

無言で仲間たちと並んで俯き加減に自転車を漕ぎながら、果たしてこれでよかったのだろうかと僕は考えた。日光仮面に相談しようと提案したのは僕だ。その時、このような結果になることも、僕には充分予測できていた。日光仮面の意志はどうあれ、僕たちは彼に物語の結末を押し付けることになるかもしれないと。そうなれば助かると少しでも考えたことは否定できない。それでも、もしそうなった時には日光仮面を一人にするわけにはいかないだろうと僕は思っていたが、予想を遥かに超えて、彼の反応は徹頭徹尾断定的だった。どうするべきかの判断が出来ずに揺れ動いていたこの時の僕たちに比べ、彼の意志は余りにも確信に満ちていた。僕たちは疲れきっていて、日光仮面は気力と体力に満ちていた。僕たちは彼に全てを託すという道を、彼に話した時点で自動的に選ばざるを得なかった。

僕は正しいことをしたのだろうか。それとも致命的な間違いを犯したのだろうか。

僕には分からなかった。

後になって考えれば、僕たちはいかなる道を選んでいても正しかったし、同時に間違っていたことが分かった。僕たちの目の前には四つの選択肢があった。無視するか、警察を呼ぶか、墓を建てるか、日光仮面を頼るか。そのうちどれを選んでいたとしても、僕たちは他の三つの道を失ったのだ。どの道も何かを得、どの道も何かを失う道だ。他にもっと良い方法があったかもしれない。しかし、どれかを選ぶしかなかったし、僕たちにはこの時四つしか見つけることができなかった。選んだ以上は、その道が他の三つよりも良いものであることを信じるしかなかった。その保証はどこにもない。誠二と、健一と、夏が指摘した問題の全てを、この日光仮面に託すという結論が解決することなどできはしない。僕は直感的にそれに気が付いていた。願わくは、そこからこぼれる雫が出来る限り少量であるように祈るだけだった。

仲間と別れ、家路を一人自転車で走った僕が考えたのは、昨日と今日、自分が一体何をしたかったのだろうかということだった。自分が本当に望んでいたことは何だったのか。今のような結末を望んでいなかったことだけは間違いない。でもだからと言って他に何を望んでいたというのか。僕は祝福された鏡などどこにもあるわけがないと思っていた。では何が僕にとってゴールだったのだろうか。それが漠然と冒険と名付けられるものであれば、僕は何でも良かったのだろうか。僕はただ意味もなく仲間と騒ぎ、遊ぶことさえできれば、最終的にどこにも辿りつくことが無くても満足だったのだろうか。僕はそんな事のために時間を掛けて準備をし、計画を練って、前夜は眠りにつけないほど興奮していたのだろうか。そんなはずはないと思ったが、実際、頭の中のどこを探しても、具体的に自分がしたかった何かが全く見つからない。そうだとしたらこれは冒険と言えるのだろうか。僕にとって冒険とは一体何なのだろうか。あの男が死んだことが僕にとっては冒険なのだろうか。

僕は考えるのを止めた。それ以上考えることは恐ろしかったし、実際どう考えたらよいのか分からなかった。それ以上先は真っ暗闇で混沌としていて、何の手がかりもなく、自分が進んでいるのか戻っているのかも分からない場所に見えた。

 

 

 

夏休みの残りの日々は静かに過ぎ去っていった。僕たちは自分たちに課した約束の通り、誰にもこの物語を共有することなく過ごさなくてはならず、それは自然と僕たちの声と行動を密やかにさせたのだった。僕は、日光仮面以外の誰にも、起こったことを話さなかった。他の三人もそうだったろう。そうでなければ僕たちの周囲はとてつもない大騒ぎになっていたに違いない。

僕たちは再び日光仮面に会うこともなかった。彼が既に真中市に戻ってきており、普段通りの市内のパトロールに精を出していることは分かっていたので、彼に会って、あの死体をどうしたのか聞きたいのはやまやまだった。しかし、誠二はそうするべきではないと言った。彼は、僕たちはこの事件を忘れなくてはならないという日光仮面の意見に賛成だったのだ。日光仮面に会って話を聞けば、忘却の可能性は限りなく薄まり、僕たちはこの事件に関係したままになるだろう。そもそも誠二が僕の意見に賛成したのもこうなることを見越してのことだった。彼は初めから、日光仮面を完全に信じようと決めていたし、そして敢えて残酷な言葉で言うならば、日光仮面に全てを押し付けようと決めていたのだ。そうでなければ、全てを無視しようと提案した誠二が僕に賛成するはずがなかった。そして日光仮面は誠二の予測通り一人で事の始末を引き受けた。誠二はそれを口に出しはしなかったが、僕には分かっていた。それが分かっていて日光仮面に会いに行こうとしなかった僕も、結局は彼と同じ意志だったのだ。

僕はそれから毎日、新聞の隅から隅までを虱潰しに読んだ。そこでは多くの人が病気で死に、火事で死に、交通事故で死に、時々は殺されて死んでいた。だが、山奥で身元不明の自殺遺体が発見されたというニュースには遂にめぐり会うことが無かった。

したがって、僕たちにとってこの事件は終わった。続きが無い以上終わらざるを得なかった。やがて、少なくとも表面的には僕たちは日常を取り戻した。僕たちは四人で協力して、夏休みの宿題を早々に終わらせに掛かった。日誌も絵日記も自由研究も、全て七月の内に八月の最後の分まで終わらせた。そうなれば後はもうひたすら遊ぶしかない。

僕たちは海に行って泳ぎ、小学校のグラウンドでサッカーをし、誠二の家でファミコンをやり、プールに行って泳ぎ、花火大会を見物に行き、互いの家に泊まり込みで遊び、秘密基地の拡張に取り掛かった。周囲に花や果物の種を植え、ゴミ捨て場からぼろぼろになった椅子やテーブルやパラソルを運び込んだ。そうしているうちに、僕たちは夏休みの初日に起こったことなどすぐにほとんど忘れてしまった。毎日の起きている全ての時間を使い尽くすことに集中していれば、自然と深刻で暗い感覚は遠ざかってしまう。

だがもちろん、影は残り続ける。見えなくなっただけで消えはしない。僕はいつもの通り限界まで遊びつくしたある日の帰り道、ふと気が付いた。それは完全に唐突な発見だった。僕はその一瞬前まで、あの夏休みの初日のことなど、一切考えていなかった。

誠二はあの時、想像のままなら本当ではない、と言った。僕は、道の先に長く伸びる自分の影を見つめているうちに、それが嘘だということにようやく気が付いたのだ。あの男を僕たちが殺したのだとしたら、たとえそれがどこまで行っても想像するだけで確かめようがないとしても、本当はもう答えは出ている。ただそれは、僕たちにまだ伝えられていないだけだ。殺したのか殺していないのか、関係しているのか関係していないのか。無関係を装い続ければ実際に無関係になる、誠二が言っていたのはそういうことだった。だが僕は、そうではないと思った。僕たちを含めた世界中の誰もそれを知らないだけで、真相はあの時あの神社にあった。想像するかしないかの問題ではない。それは誰かが暴こうと隠そうと、どちらにしても間違いなく存在し、眼に見えない時間の中に刻み込まれたのだ。

僕たちは取り返しのつかないことをしたのではないだろうか。正しかったのは健一であり夏であったのではないだろうか。僕たちはあの時、あの男の死とつながり続ける道を選ぶべきではなかったのか。たとえどれだけあの死体が忌まわしかったとしても。

何故僕はそう感じるのだろうか。あの時はこれが最善の策だと思った。他にどうすることもできなかったというだけでなく、こうすることが彼との物語に報いるに最もふさわしいと思えた、積極的な選択だった。そして僕だけでなく四人全員が同意した。それなのにどうして今、後悔の念が僕の中でくすぶり出すのだろうか。

僕にはこの時言葉では分からなかったが、いつもの通り直感では分かっていた。僕は、このままでは僕たちはあの男が死んだことを一生忘れられないだろうと予感したのだ。

日光仮面は少なくとも一つ嘘をついた。彼は僕たちがこの事件のことを必ず忘れる、と言ったのだが、それは間違いだった。僕はあれから十数年の時が経った今も、まだこの日のことを覚えている。確かに細かい部分については忘れたかもしれない。男の死顔はくっきりとはもう残っておらず、輪郭はばらばらだ。だがぼんやりとした暗い影のイメージは、僕の中に未だに漠然と残り続けている。それは稀に僕の夢の中に現れさえする。そこでは時々、首を吊って死んでいるのはあの男ではなく、僕自身であったりするのだ。

僕が恐ろしいのは、日光仮面は更にもう一つ嘘をついたのかもしれない、ということだった。つまり、忘れるということができない僕たちは祝福などされていなかった。既に呪われていたのかもしれないということだ。夏は、鏡は目に見えないだけでどこかにあると言った。それは正しかったのかもしれない。呪いは眼には見えないだけで、僕たちが気が付いていないだけで、僕たちが想像できなかっただけで、あの二日間、恐ろしく眩しい太陽の光に交じって、僕たちにずっと降り注いでいたのかもしれない。

 

 

 

僕たちは小学六年生になった。十二歳だ。「ドラえもん」の野比のび太をはじめ、アニメや漫画の登場人物を超えはじめる年齢だ。生きていればいつかそうなる時が来るというのは、理屈では分かっていたが、感覚としてすぐには馴染まなかった。様々な馴染まない感覚の中で僕たちは成長し、大人になりつつあった。

体の変化の著しかったのは健一と夏だった。二人とも身長が見る見るうちに伸び、顔つきも体つきも変わり始めた。健一の身長は六年生の夏休みには170センチ以上になり、天性の運動神経と相まって、あらゆるスポーツの大会で県の記録を塗り替えていく真っ最中だった。

夏も同じだった。彼女の背丈は一時的に僕を超え、既にその体の線は女になりつつあった。音楽のセンスにはますます磨きがかかり、楽器と名のつくものは全て使いこなすかに見えた。中でも特にピアノの腕前は並外れていて、彼女の弾くベートーベンのピアノソナタを聞くことによって僕たちまで音楽鑑賞に開眼させられた。

そして誠二の頭脳の明晰さは日に日にその切れ味を増していくようだった。彼は独学で高校数学を学び、僕たちにマルセル・プルーストやジェイムス・ジョイスやダンテ・アリギエーリと言った作家の本を紹介したが、僕にはそこに何が書いてあるのか、最初の一行目からさっぱり分からなかった。彼は県下で最難関の私立中学受験の準備を始めていたが、彼がそこに楽々合格するだろうと、僕たちはもちろん同級生の誰ひとりとして疑わなかった。

つまり、仲間たちに備わった天性の才能はそのまま伸び続け開花しようとするところだった。僕だけが何も変わらなかった。相変わらず背丈は平均より少し上、成績も平均より少し上、体力測定も平均より少し上で、自分の特徴というものが一体何なのか全く分からなかった。この頃僕の心を占めていたのは、仲間たちに置いて行かれるという恐怖を伴う焦りだった。

自分が何を望んでいるのかだけは分かっていた。三人の友達と共にいること、彼らと遊ぶこと、そして彼らと冒険することだ。だが、それが長くは持たないだろうという見通しは、愚鈍な僕の中にもはっきりとあった。誠二は僕たちとは別の中学に行くことはほとんど決定しているし、健一も夏も各々の才能を本気で伸ばそうとすれば、生活は僕とはまるっきり変わってくるだろう。それを抑え続けることはできない。そうであれば、僕たちが互いに共有する時間は、もう決して長くはない。既に僕らの基地に四人が集まる頻度は日に日に減少しつつあった。

僕はただ一人当てもなく冒険の計画を練っていた。実行のめどが立たない荒唐無稽なプランが、頭の中で浮かんで消えていった。基地の前に置かれたぼろぼろの木椅子に座り、中空に向かってエアガンを構え、トリガーを引いた。弾は空っぽで、かちかち乾いた音を立てる。季節はまた夏になろうとしている。

十一歳のあの夏以来、僕たちは具体的な冒険の計画を立てることができなくなっていた。日常を突き抜けて非日常に到達したいという気持ちは死んではいない。しかしそれがこの町を抜け出してあらゆる関係性や退屈さから解放されたいという欲求にはつながりにくくなっていたのだ。それにはもちろん、あの男の死も関係していただろう。冒険によって後悔や恐怖がもたらされるという危惧が僕たちに無かったはずはない。だが、もっと直接的な理由があった。健一も、誠二も、夏も、自分の才能を成長させることが、既に昨日とは違う今日に明確につながっていたから、わざわざ町の外部に冒険を求める必要が無かったのだ。自分を特定の分野で成長させることが即、自分の世界の拡大となる。そんな時に人は冒険を必要とはしないだろう。だから、四人の中でいつもこの町を出ることを望んでいたのは、未だに自分の中に何も無い僕だけだった。僕たちはまだ互いに同じ時を過ごすことを心から楽しんではいた。それとは別に、単に成長の当然の帰結として、それぞれの道に進む段階が来たというだけだった。

僕たち四人が出会いの最初から未だに共有し続ける愛好物は、自ずと限られた物だけになりつつあった。ゲームや、漫画、映画。とくに重要だったのは、アメリカからやってくる幾つかの大作映画だった。バック・トゥ・ザ・フューチャー、ターミネーター2、ダイハード、バットマン、いずれも僕たちにとって掛け替えのない作品だった。僕たちがいつもヒーローの側に立つ限り、これらはすべて、生き残っていくこと、成長していくということを無限に肯定する映画ばかりだった。僕はこれらの映画の筋書きを頭の中で反芻し続けるだけで何時間も過ごすことができた。

だが繰り返せば繰り返すほど、それは自分に跳ね返ってくる。僕はやはり人から与えられる物語だけでは満足することができなかった。僕が解釈する限り、それらの映画が何より僕に告げていたのは結局、お前も自分の冒険を探せ、ということだったからだ。僕は集中力の欠けた脳内でどうにか冒険のプランを組み立て、夏休みの初日に旅立つ用意を進めた。ちょうど一年前の夏のようにだ。

それは、真中市のはるか南に位置する無人島を目指す計画だった。日光川のほとりに係留された小さなボートに、僕は以前から目を付けていた。時々、雑草が生え放題の河川敷の草むらで虫を探してさまよい続けていると、反対側の岸の朽ちかけた桟橋から、老人がボートに乗って川を下って行くのを目にした。それに気が付くと僕はしばらくそのボートの動向を観察したが、ほとんどの時間は係留されたままで、誰も使う気配が無い。ボートは桟橋に紐で結わえられ、簡単なカギを掛けられているだけで、それは壊して外すことなど造作もない代物だった。ボートのエンジンは生きていて、せいぜい燃料を調達すればそのまますぐに海に向かって走り出すことができるはずだった。ボートの簡単な操舵法は、図書館で本を読んで勉強した。動かすだけなら子供でもできる。残る重要なことは無人島に行って何をするかで、それも僕の中ではっきりしていた。

目的はただ一つ、無人島で生き残ること。それも可能な限り長く。

良い計画だと僕は思った。

周到な準備に長い時間を掛けた後、僕は仲間たち三人に計画を打ち明けた。夏休みの初日に出発して、出来る限り長く旅に出よう。海は広大で、島は誰にも見つからない秘密の場所で、僕たちは限りなく自由になれるだろう。僕たちは戻ってきた頃には、まるで修業を積んでパワーアップした漫画のキャラクターみたいに、見違えるほど成長しているだろう。

誠二が言った。

「駄目だ。俺は夏休みの最初から終わりまで、塾の夏期講習がみっちり入ってる」

そして首を横に振った。

健一も、夏も、同じだった。健一はサッカーと短距離走の合宿と本大会があり、夏はピアノとバイオリンのレッスンと発表会、そして家族との海外旅行の予定が既に入っていた。夏休み中、四人の予定が完全に合う日はほとんどなさそうだった。

ごめんね、と夏は言った。

僕は、いいんだ、と答えた。そう言って表情を変えずにいるのが精いっぱいで、微笑んだり三人にエールを送ったりすることはできなかった。

たった一人でも旅に出ようかどうか、僕は考えた。そして自分に向かって首を横に振った。四人で行くのでなければ意味が無い。二人でも三人でもなく四人でなければ。予測される困難に、僕は一人では立ち向かえないし、そもそも仲間と冒険を共有できないのであれば冒険の意味が無い。僕は無人島行きの計画を諦めた。

その結果、その年の夏休み、僕はほとんどの時間を一人で真中市をふらついて過ごすことになった。家にいてもすることが無い。僕は朝から自転車に乗って真中市の至るところを走って回った。しかし既にどこも何度も訪れた場所ばかりだ。そしてどこに行っても誰かがいる。その誰かは、一人残らず僕が一度以上会ったことのある人物であるように思えた。どこへ行っても同年代かそれ以下の子供たちが遊んでいた。一人で遊んでいる者はどこにもいなかった。退屈で退屈で死んでしまいそうだった。

自転車を走らせていると、道端で空き缶を拾う老人に出会った。彼とはかつて、あの奇妙な人たちに出会うことに執心した時期に、話したことがあった。会うのは久しぶりだった。彼はあの頃と同じように、体中に空き缶や空き瓶の蓋をくくりつけて身に纏い、空き缶が一杯に詰まった巨大なかごを背負っていた。その姿は太陽の光を受けて眩しいほど光り輝き、そのシルエットは二宮金次郎か、レッド・ツェッペリンのアルバムジャケットに描かれた老人のように見えた。彼は道端に転がる空き缶を薄汚れたステンレスのトングで拾い、背負ったかごの中に肩越しに放り込んだ。

自転車を停めて、こんにちは、と老人に声を掛けると、ごきげんよう、と彼は答えた。

何故彼が空き缶を集め続けるのか、かつて僕は訊いたことがあった。彼は空き缶を百万個集めて家を建てるのだと言った。どうして空き缶で家を立てなければならないのかと僕たちが尋ねると、軽くて丈夫で美しいし、空き缶はこの国に無限に存在するからだと老人は答えた。真中市の西の外れにあるその建設現場に、僕たちは四人で訪れた。まだ土台ができているだけの状態だったが、辺り一面、太陽に照らされた銀色とその他狂おしいばかりの蛍光色の乱照が僕たちの目に突き刺さった。老人は二階建ての家を建てるつもりだと言ったが、それが完成するまでにどれだけの時を要するのか僕には想像もつかなかった。誠二が冷静な声で、爺さんが生きている間に完成するのは間違いなく無理だろう、と僕にささやいた。いずれにしても僕たちはその光景を見て、秘密基地を建て直すことがあっても空き缶で組み立てることだけは止めようと誓い合った。

だがこの日、僕の気持はあの頃とは違った。

「おじいさん、僕も空き缶集めてきていいですか?」

僕がそう尋ねると、老人は僕の方を振り向いて、無表情に頷いた。そして僕に、懐から取り出した巨大なビニール袋を渡した。それに空き缶を入れて来いと言うのだった。

僕はビニール袋を受け取ると、自転車に乗って真中市中のゴミ箱を漁って回った。改めて探すとなると、真中市のような環境衛生にルーズな田舎町でさえ、空き缶はそれほど簡単に道端で見つけられるものではないことが分かった。コンビニや自動販売機の横に置かれたゴミ箱を開けて空き缶を一つ一つ取り出し、底に中身が残っていないかどうかを振って確認してビニール袋に放り込んだ。たちまちの内に僕の全身は汗に包まれ、喉はからからに乾いた。

缶で一杯になったビニール袋を肩に背負い、アンバランスな姿勢で自転車を漕いだ。ふらふらしながら空き缶の家の建設現場に辿り着いた時、僕は息を飲んだ。

そこに広がっていた光景はかつてとは全く違っていた。大量に積まれた空き缶が太陽を反射して光り輝いていることだけは同じだったが、その量が桁外れに増えていた。以前は膝の高さまでしか積まれていなかった空き缶の山が、僕の身長を遥かに超える高さの壁となって目の前に広がっている。その大きさは既に、二階建ての僕の自宅の背とあまり変わらない。コカコーラの缶だけで組み立てられた門柱があり、缶の裏ぶたが敷き詰められた敷石の道があり、ブラックコーヒー缶を積んで作った玄関階段の先には、極彩色の空間が広がっている。それはまるで、少し離れた場所から見れば礼拝堂の壁画のようであり、近づいて見ればジャスパー・ジョーンズか何かの前衛芸術のように感じられた。

ポカリスエットの缶で縁取られた窓枠を撫でていると、老人が戻ってきた。僕は彼に、おじいさん凄いね、と言った。彼は僕から空き缶を受け取って、ビニール袋の外側から中身の缶をじろじろと見た後で、助かった、と無表情で言った。

僕はその後、日が沈むまで、老人が空き缶の家を組み立てる作業を横で眺めていた。できれば手伝いたかったが、老人が缶と缶を接着剤で繋げる表情は真剣そのもので、とても不器用な僕が手出しをできる気配ではなかった。作業は実にゆったりとしたペースで進んだが、着実に進行し、やがて僕が持ってきた空き缶は極彩色の壁の中に全て吸いこまれた。

老人と別れ、家に帰り、夕飯を食べ、風呂に入った時、僕は一つのことを決めた。

明日、一年前に訪れた、あの山奥の神社へ、一人で行こう。

その考えは直感的に僕の頭の中に現れ、直ちに心の奥深くで承認された。そうしようと思う理由を自分自身で整理して説明することはできず、また僕はそれを自分に求めなかった。風呂から出ると僕はリュックに諸々の道具を突っ込んで支度をし、両親に、明日は自転車で出かける、明日の内に帰ってくる、と宣言すると、すぐにベッドに潜り込んだ。

夜明けから間もない時間に、僕は自転車に乗って走りだした。未だに夏休みのノルマとして僕たちに課せされていた、小学校の校庭でのラジオ体操には参加しないことにした。しばらく走ると、空は、あの日に近い突き抜けるような青色に覆われた。前回の反省を生かし、きちんと休憩と給水を取りながら進んでいくと、やがて僕の視界は懐かしい風景に包まれ始めた。

草木の緑が太陽の光に照らされ、道行く車は一台もない完璧な田園の情景だ。水田に光が反射して僕の目に突き刺さる。鳥と蝉が鳴いている。そして大粒の石達が敷かれた河原の真中をせせらぎが流れていく。あの日、僕たちが四人で弁当を食べ、四人であの男の死体をどうするのかを話し合った河原だ。そこを通り過ぎれば、延々と続く急な坂道がやってくる。僕はゆっくりゆっくり、自転車を走らせた。

そろそろあの森の小径に近付いたと思った頃、一年前と同じように、僕は自転車を降りて押して歩きだした。

僕の頭の中に、あの日死んだあの男の顔がフラッシュバックした。その形相はまだ僕の網膜の裏にはっきりと焼き付いて残っていた。それは瞬きするたびに僕の目の前に現れ、まだあの鳥居に男がぶら下がって太陽と雨風にさらされ続けているという錯覚を呼び起こした。もちろん、それは錯覚ではなくまだ確認できていない事実かもしれない。まだあの死体はそこにあるままかもしれない。日光仮面がどのようにあの死体を片付けたのか、本当に片付けたのかどうかさえ、僕たちには知る由もなかったのだ。今もまだ死体がそこにあるとしたら、それは一体どんな状態なのだろうか。完全に干からびてミイラのようになっているのだろうか。それとも風と雨が全てを砕いて男の体は骨だけになり、大地に崩れ落ちたのだろうか。一年という時間でどれくらいのことが起こるのか、僕には分からなかった。

恐怖はなかった。僕の心の中は妙に静かに冷めきっていて、ほとんど何の感情も存在しなかった。あえて僅かに湧き上がる感覚を拾い上げるとしたら、それは懐かしさだけだった。

しかし、ふと気が付いて、僕は立ち止まった。

いつの間にか、僕は歩き過ぎていた。どこまで進んで行っても大して風景に変わり映えはしない山道だが、自分が既に、一年前には通らなかったところまで登ってきてしまっていることに気が付いた。僕は立ち止まり、あたりを見回した。おかしい、と思った。風景を注意深く見守りながら歩いて来たつもりだったから、あの森への入り口を見落としてしまったとは考えにくかったのだ。

僕はもう少しだけ坂道を登ることにした。しかし、歩けば歩くほど、既に自分にとって未踏の道であるという確信が濃くなっていくだけだった。僕は何度も立ち止まって、振り返って、周囲に目を凝らした。錆ついたガードレールと、補修の足りないアスファルトと、切り立った岸壁と、その上に木々が生い茂る光景に変わりはない。しかし僕はこの場所を間違いなく知らない。

諦めて、僕は坂を下ることにし、再び周囲を注視して歩いた。額から汗が落ち、それを拭いながらゆっくりと自転車を押した。僕は頭の中にあの森の入口のイメージを描いた。その様子は、鮮明な記憶に裏打ちされた強いリアリティを伴ってはっきりと現れた。それはアスファルトの道から少し奥に引っ込んだエアポケットのような空間で、鬱蒼とした過剰な緑の入口に、朽ち果てた看板が立っていて、僕たちを招き寄せるように佇んでいた。

だが僕はそれを見つけられなかった。どこまで行っても同じような光景が続き、自分のイメージにほんの僅かでも重なる場所は見つからなかった。道の脇は岸壁や急激な坂ばかりが続き、そもそも足を踏み入れられるような地点が存在しなかった。やがて僕は自分が間違いなく過去に通ったと確信を持てる道まで戻ってきたが、それまでに未知と既知の境がどこで発生したか、どうしても分からなかった。

とうとう僕は坂道の終わりまで来てしまった。僕は来た道を振り返り、深く息をついた。

もう一度坂を登って、もう一度探してみるかどうか、僕は自分に訊ねてみた。無駄だ、と僕は自分に答えた。入口は間違いなく完璧に消えていた。

日光仮面は本当に全てを片付けたのだ、と僕は思った。何もかも完全に、まるで初めからここには何も無かったかのように、全部をどこかに消してしまったのだ。日光仮面が言った言葉を僕は思い出した。「正義の味方は約束を破らない」。

僕はしばらくの間、ぼんやりと突っ立っていた。汗がだらだらと額を流れ落ちていく。そして坂を見上げ、木々の合間の暗闇を眺めた。その先のどこかに、神社と鳥居があるかもしれないし、男の死体が埋まっているのかもしれない。だが確認しようがない。僕も、他の誰にも見つけることはできないだろう。かつて何かがあったことさえ二度と誰にも思い出されないのではないかと思うほど、完璧に隠されている。

僕は茫然と立ち尽くして、まただ、と思った。また僕は、自分が何をしに来たのか全く分からなくなっている。昨日の夕方、どうしてもここに来たいと思ったのに、何のためにそうしようと思ったのか、その感覚がもう全く思い出せない。

僕は緑に包まれた坂道の様子を目に焼き付けた。それ以外にやることがなかった。

そして僕はその場を後にした。途中の河原で川の水を少しだけ飲んだ。真中市に戻るまで、誰にも会うことはなかった。帰って来た時、辺りは既に夕暮れを迎えつつあった。人の気配がいつもより少ない。風の音が妙にうるさい。道を車が走っていくが、乗っている人の顔が見えない。気付いてみれば僕は朝から誰とも話をしていない。いつも見慣れているはずの風景が、何故かどこか歪んで見えて、自分の街に帰ってきたという気がしなかった。日差しにも、立ち並ぶ家々にも、自分が自転車に乗って走っていることにも、現実感が全くない。僕は疲れていた。

だから、僕の家の前に健一と夏が立っているのを見た時、僕にはまるでそれが幻のように感じられた。健一が僕に、よう、と声を掛けて、ああ、と僕が頷き返しても、まだ僕の意識はどこかうつろだった。彼らに会うのは一学期の終業式以来だった。

「何で俺んちの前にいるんだ?」

僕がそう訊くと、夏が、明日一緒に映画を観に行こうと思って、と言った。「私も健一も、今日はいないけど誠二も、明日は休みだから、一緒に行こうよ」

何を観に行くのか、と僕は尋ねた。

「ジュラシック・パーク」と健一は答えた。

ジュラシック・パーク、と僕は頭の中で範唱した。そのタイトルはもちろん知っていた。「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」を作ったスピルバーグの最新作だ。何やら物凄い映像技術で作られた恐竜映画らしいという漠然とした情報だけは事前に仕入れていたが、僕はこの時、この瞬間、そんな映画に全く何の興味もそそられなかった。それが一体何なのだろうと思った。どんな映画だろうと、所詮作りものだ。そんなものを見て一体何になるんだろう? 今僕は、偽物も幻想も、本当でないものは何一つ見たくはない。

だが僕は結局、夏と健一に向かって呆然と頷き、行こう、と言った。友達がわざわざ誘いに来たのを断れなかったというだけで、そして僕が二人にそれを断る理由を上手く説明できなかったというだけで、自分の気分とは何の関係もない消極的な同意だった。

健一と夏は微笑んで頷くと、明日の朝、駅に集合する時間を告げて、手を振って帰って行った。僕は反射的に手を振り返したが、明日自分が映画を観に行くということに全くリアリティが無いままだった。僕は家に入ってただいまを言い、夕飯を食べて風呂に入ると、あっという間に眠りに落ちた。

朝、四人で駅で待ち合わせ、電車に乗って、開始の三〇分前に映画館に着いて並ぶ、といういつも通りの儀式が執り行われた後、僕たちは劇場内のど真ん中の席に座り、四人並んで予告編が流れるスクリーンを見上げた。僕は、にこにこ笑いそわそわと本編を待っている三人に囲まれて、何か退屈で、居心地が悪く、落ち着かなかった。

だがそれも、映画が始まる直前までのことだった。

結局この映画は「インディ・ジョーンズ 最後の聖戦」以来の、僕にとって人生で最も重要な映画の一つとなった。恐らく僕はこの映画を見たこの日のことを一生忘れないだろう。この映画は、スピルバーグの最高傑作であり、ハリウッドエンターテインメント映画の頂点であり、映画産業がCG技術を徹底的に追及する方向に突き進むことを決定づけた、90年代で最も重要な作品だったが、僕にとってはそれより遥かに大きな意味を持った。

ストーリーが進むにつれ僕の脳は目覚め、徐々にざわつき始めた。ブラキオサウルスが最初の恐竜として観客に挨拶し、トリケラトプスが場を和ませた後、満を持して暗闇の中からティラノサウルス・レックスが現れた時、僕の全身は総毛だった。信じられない迫力だった。その時、昨日からずっと続いていた白昼夢のような感覚は完全に消え、僕は既に登場人物に同化し、恐竜たちがよみがえったテーマパークに居た。僕は目の前の映像に一〇〇%釘づけになり、手に汗を握ってスクリーンを睨みつけた。それは僕が生まれて初めて見る、完璧な映画だった。僕の求める全てがここにあった。いや、完璧以上、全て以上だった。

僕はついさっきまで、嘘を見たくないと思っていた。他人の幻想や妄想を見ても仕方が無いと思った。本当のこと、例えば目の前で人が死ぬこととか、空き缶で巨大な家を作ることとか、そういう現実に起こったことを自分は求めているのだと思っていた。でも違う、と思った。この映画には本当以上の嘘がある。イメージが現実を超えている。僕がどう考え、どんな現実を生き、どんなに憂鬱で、どんな人間であったとしても、この映画はその全てを押し流し破壊し尽くすだろう。

映画の最後、ティラノサウルス・レックスが巨体を画面いっぱいに伸ばし、全力で咆哮したとき、僕の目から涙が零れ落ちた。それは次から次へとあふれて止まることがなかった。映画を観て泣くこと自体が初めてで、何故自分が泣いているのか、自分では理由が全く分からなかった。

僕の身に起こったことを、今になって言葉にするとなれば、こう言うことができる。僕はこの時初めて、自分自身を遥かに超えるイメージがこの世界に存在することを知った、と。僕はその事実に打ちのめされたのだ。僕はこの時、目の前に具象化されたとてつもなく巨大なイメージに対して頭を垂れ、自分もこのイメージに辿り着きたいと真剣に願った。だが同時にこうも思った。どれだけ願っても、僕は永久に辿り着くことはできないかもしれない、と。打ちのめされるというのはそういうことだった。

エンディングクレジットが最後まで流れ着いた時、まだ僕の眼は真っ赤なままだった。僕は俯いて肩を震わせていたから、周りの三人は僕が泣いていたことに間違いなく気が付いていたはずだった。僕たちはほとんど碌に会話もせずに電車に乗って、真中市に帰ってきた。僕だけではなく、四人それぞれの中にまだティラノサウルス・レックスの咆哮は響いていた。インディ・ジョーンズを観終わった時、僕たちは秘密基地を作り始めた。だがこの日は何も起こらなかった。僕たちは目の前で起こったことを咀嚼しきれておらず、夢遊病者のような状態のまま、それぞれに別れを告げて家に帰った。

 

 

 

これが、僕たち四人が揃って観た最後の映画になった。そしてこれが、僕の幼年期の終わりだった。純粋無垢な時代が終わり、誰もがそうであるように、希望や暗い感情が成長の中でぐしゃぐしゃに掻き回される時がやってくることになった。それはまるでこの後ハリウッド映画産業が進む道と同じような軌道を描いた。脳天からつま先までをエンターテインメントだけで走り抜ける映画は消滅し、反省や憂鬱や暗黒やナショナリズムや感傷がすぐ傍に潜む、弱弱しい映画が興行収入のトップを飾るようになって行く。スピルバーグは八〇年代と同じ夢を描くことはできなくなり、代わりに「シンドラーのリスト」や「プライベート・ライアン」といったハードな史実に基づく硬派な映画を作るようになった。それらはそれぞれに観るべきところのある作品だったが、イメージが欠けていた。僕の望むイメージがどこにもない。僕は成長を望み、時にそれは叶えられ、多くの部分では叶わないまま時間だけが過ぎて行った。

第三章 雨